なぜアラブは勝てないのか 2008年12月31日12:11
 
第一次中東戦争以来、負け続けているアラブ諸国。
 
なぜ彼らがイスラエルに勝てないのか。
 
その背景には、私が知っている限り、大きくふたつの要因があると思う。
 
 
1.無能な司令官
 
産油国以外のアラブ諸国の国家元首は、ほとんどが軍人出身である。
 
エジプトの歴代大統領ナセル、サダト、ムバラクは、すべて軍人である。
 
シリアのアサドも、イラクのサダムも、リビアのカダフィも、すべて軍人だった。
 
たいがいクーデターで政権を掌握した、あまり正当性のない連中ばかりである。
 
彼らが大統領になって、新たに任命する軍の司令官は、無能な人物である。
 
なぜならクーデターがコワイからだ。
 
無能な司令官を持つ軍隊がイスラエルに勝てるわけがない。
 
第三次中東戦争では、
 
「エル・ナビという准将の率いる装甲歩兵旅団は、十八両のスターリン戦車とロケット砲の大軍を砂漠におき去りにしたまま全員が逃亡しました。エジプト自慢のシャズリの特別機甲部隊は、一目散に本国に向かって脱走しました」(「血と砂と祈り 中東の現代史」村松剛 中公文庫)
 
ということで、ソビエトの軍事担当者を呆れさせたという。
 
 
 
 
2.「国家」という意識の希薄さ
 
彼らはもともと砂漠の民ベドウインだった。ベドウインは盗賊でもあり、烏合集散して農民を略奪してきた「野合の集団」である。
 
そう。負けがこんでくるとさっさと逃げるのである。
 
彼らには国家というアイデンティティはないに等しい。
 
ヨルダン人はヨルダン人である前に、イスラム教徒でありアラブ人である。
 
なぜなら彼らが所属する「国家」というのは、イギリスとフランスが、自分たちの利害関係で勝手に決めた「枠」にすぎないからだ。
 
「国家」のために命を捨てるほど忠誠心のある軍人は、イスラエルに比べたら、ほんのわずかしかいない。
 
逆に「敗北=祖国の消滅」であるイスラエル軍のモチベーションが、恐ろしく高いのは想像がつくだろう。
 
「たとえイスラエルがアラブ諸国を五十回破ったとしても、アラブ諸国は消滅しない。しかしイスラエル国家を消すのには、アラブ諸国が一回イスラエル軍を負かすことで十分である」(上掲書)
 
と、かのベングリオン元大統領は語ったという。
 
 
 
アラブ人自身も、なぜイスラエルに勝てないのかを自問し続けた。
 
そして一部の人々は、その原因を「信仰不足」と考え、より厳格で過激な思想に傾倒していった。
 
それがイスラム原理主義の原点となったのである。
 
 
 
ソビエトという巨大な後ろ盾が消滅してしまった現在、中東諸国は多かれ少なかれ欧米に傾斜せざるを得なくなってしまった。
 
その結果、アラブ人の失望や無力感、憤懣は果てしなく拡大して、「原理主義」に傾倒する人が増えているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
韓国の「残飯使い回し」は是か非か 2008年12月29日00:33
 
これは確かにありますね。
 
早朝のソウルの飲食店街を歩くと、ものすごい量の残飯がゴミとして出されているのを、何度か見かけた。
 
 
しかし私個人的には「パンチャン」の習慣は好きだ。
 
日本のようにひとつひとつ金を取られることもないし、おかわりも自由だし、太っ腹で良心的である。
 
日本のどこかの蕎麦屋のように、ほんのちょっぴりで千円も取るような店は、韓国では間違いなく繁盛しない。
 
 
今回の処分は、私個人的には重すぎると思う。
 
なぜなら値段の安い店がそういうことをやっているのは、ある程度、客の方も認識していると思うからだ。
 
「船場吉兆」が同じようなことをやって廃業したけれど、なぜ廃業に追い込まれたかと言えば、「高級料亭にもかかわらず」使い回しをしたからである。
 
これが激安の回転寿司屋だったらどうか。
 
カサカサに乾燥したマグロをいったん戻して「漬けマグロ」にしてもう一回回すなんてことは、ごく普通にしている。
 
そして多くの人は、それを知っているけど、誰も文句を言わない。
 
 
なぜなら安いからである。
 
 
あるいは「特定の誰かに供されたものではないからOK」という意見もあるかもしれない。
 
でも私が思うに、誰かのテーブルに二時間置いてあったのと、不特定多数の目の前を二時間ぐるぐる回っていた寿司とは、大きな違いはないんじゃないか?
 
 
 
今回の処分は、当局が「外国の外聞」を気にしすぎて処分を不当に厳しくしたような気がする。
 
食事に何千円もとるような高級店には、そういうエクスキューズは許されないけれど、「安い店ならある程度、仕方ない」と割り切る方が、捨てるよりマシではないかと思う。
 
ただインフルエンザが感染したりするので、殺菌だけは十分して欲しいですけどね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
農業はどうですか? 2008年12月25日18:42
 
自動車工場の期間従業員の解雇が続出。
 
「このままではホームレス」
 
という言葉をよく聞きます。
 
働く意欲もあり、健康でもあるのに、多くの人たちが職も住宅も失ってしまい、不安を抱えています。
 
 
そんな人たちに私は提案したい。
 
 
田舎で農業をしてはいかがですか?
 
 
どこの地方自治体も都会からのIターン移住者を大募集しています。
 
そして過疎化と人材不足に悩む農業の後継者を捜しています。
 
たとえば以下は、つい最近取材した福井県のHPです。
 
 
http://info.pref.fukui.jp/nourin/eco-gt/taikentour/taikentour.html
 
 
福井県では「ふるさとワークステイ」という事業を昨年からスタートさせていて、衣食住はタダ。
 
最大で三十泊も可能です。
 
ただし受け入れ先の農家と同じく、朝から晩まで畑仕事を手伝います。
 
そして一人前と認められれば、県から助成金をもらって独立することができます。
 
しかも、みなさんの年齢なら、地元では「超若手」(笑)。
 
農家のじいちゃんばあちゃんの人気者になることマチガイなしです。
 
 
もちろん口で言うのは簡単なことですし、地元の人々との人間関係など、心配なこともあると思います。
 
 
しかし「このままではホームレス」になってしまうより、よほど賢い選択ではないでしょうか。
 
 
「食の安全」が問題になった昨今、日本の農業は、おそらくこれからさらに注目されていくと思います。
 
自動車をつくる力を、日本の農業を支える力に換えてみてはいかがでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
医師不足について思うこと 2008年12月23日21:33
 
ここのところずっと、医師不足が問題になってますよね。
 
友人の医者によると、医師不足の背景にはインターン先の病院を、新米医師が自由に選べるようになったことにあるようです。
 
どこでもいいのなら、みんな都会の病院を希望するわけですから、田舎で医者が不足するのは当然です。
 
しかもこういう若い医者が深夜の当直をカバーするわけですから、救急医療にも支障をきたすようになったと。
 
そういうことのようです。
 
 
 
それで世論は「医師を増やせばいい」に傾いているように思われますが、私は前からギモンに思っていたことがあります。
 
 
なんでその前に、「医者でなくてもできること」を、看護婦その他の専門家に任せるようにしないんだろう?
 
 
以前、意識不明患者の「気道確保」を救急隊員に任せるかどうかで、モメたことがありました。
 
確かその時は、日本医師会が難色を示したのだったと思います。
 
日本医師会。
 
この強力な組織が、既得権益をガッチリと握り、看護婦や薬剤師でも対処可能な案件も、すべて医師の処方がないとダメにしている。
 
そういう苦情を、薬剤師や看護婦さんから聞いたことがあります。
 
日本医師会の傲慢が、実は医師不足その他、医療問題の多くの元凶なのではないかと、私は思うのですが、どんなもんでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大航海時代  2008年12月23日00:06
 
バスコ・ダ・ガマというポルトガル人は、誰もが知っている歴史上の人物だろう。
 
この人は、ポルトガルを出航して喜望峰を越え、西洋人として初めてインドに到達したことで知られる。
 
ポルトガルではエンリケ航海王子と並んで英雄らしい。
 
しかしいくつかの歴史書を読んでみると、この人が成し遂げた大航海というのは、実はたいしたことがない。
 
確かに喜望峰を越えたというのは偉大な勇気と決断が必要だったかもしれない。
 
しかし一説によると、明の大船団を率いた鄭和は、実は喜望峰を越えて西アフリカまで到達していたと言われる。
 
そして喜望峰から先の、東アフリカからインドにかけての航海では、イスラム教徒の案内人を乗せていたという。
 
この季節風を利用した航路は、大昔からイスラムやインドの貿易商人が利用しており、地元ではよく知られたものだった。
 
だからこの人物の「偉大さ」というのは、「西洋においては」という条件がつくべきだろう。
 
それでもなおかつ、この人が世界史上で、もてはやされるのは他でもない。
 
この人物が西洋人だからである。
 
 
 
もうひとり、マゼランという人物もよく知られている。
 
世界周航を成し遂げたといわれる人だが、本人はフィリピンのセブ島で、原住民の部族対立に巻き込まれて殺されてしまい、残りの部下の一部がボロボロになってカナリア諸島に帰還したというのが実情らしい。
 
そしてその偉業の実態というのは、強盗と殺戮の限りを尽くした、まったく救いようがないほどの悪党ぶりなのである。
 
長い航海を経て未知の島にたどり着いたマゼラン一行は、島民から物資と食糧を奪い、抵抗するものは容赦なく殺害し、女はもちろん強姦し、無理やりキリスト教に改宗させ、スペイン国王の国旗を立てて、次の島へ向かう。
 
これを繰り返していたのが、こいつらの世界周航だった。
 
その詳細は、本多勝一氏の手による「マゼランが来た」(朝日新聞社)をぜひ読んでいただきたい。
 
 
 
コロンブスが新大陸に到達した1942年から五百年後の1992年に、私は南米にいたんだけれど、当時アメリカでは盛大な式典が催されたらしい。
 
しかし南米では原住民による盛大な抗議デモが行われていた。
 
彼らがいまだに、白人地主に搾取され続けいている実情は、この日記にも書いているとおりである。
 
 
コンキスタドールに虐殺されていった数千万人の原住民の悲しい歴史を、ほんの少しでも考慮することがあるのなら、アメリカの白人たちは、そんな浮かれた式典など催すはずがないだろう。
 
その、彼ら自身すら気づいていない「傲慢」にこそ、今日、世界中で起こっている紛争や内戦の、もっとも大きな原因があるように、私には思えるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
法定内でスカーフ イスラム女性逮捕 2008年12月19日18:20
 
今日の読売新聞に、
 
「法定内でスカーフ イスラム女性逮捕」
 
と題したベタ記事が載っていた。
 
 
AP通信によると、米南部ジョージア州アトランタ郊外の裁判所で16日、法定内で頭に巻いていたスカーフを外すのを拒否したイスラム教徒の女性(40)が法定侮辱罪で逮捕され、裁判官からその場で禁固10日を言い渡された。イスラム系市民団体の抗議で女性は17日に釈放されたが、市民団体は連邦当局に捜査を要求している。
 
 
ということである。
 
もちろん新聞の立場としては、被告のイスラム女性の側である。
 
場所もジョージア州アトランタで、いわゆる深南部の、コテコテのネオコン地域である。
 
被告が女性ということもあり、世論が彼女に加担するのも、わからなくはない。
 
 
しかし私は、なぜだか釈然としない。
 
それでちょっと考えてみた。
 
 
 
まず「スカーフを外せ」と要求した判事。
 
この男はきっとゴリゴリのネオコン野郎だったに違いない。相手が女性だとしても、憎きイスラム教徒である。
 
「外さないの? あ、そう。じゃあ禁固刑!」
 
 
職権濫用とも思える、この手の白人の高圧的な態度には当然、腹が立つわけである。
 
しかしここがアメリカの深南部であることを、私たちは考慮しなければならないだろう。
 
アメリカは法令遵守が徹底されている国である。悪いことをしたヤツは例外なく罰せられなくてはならない。
 
それが東洋人やラティーノやイスラム教徒であればなおのこと。
 
白人社会に住んでいる以上、この手のリスクは当然、覚悟するべきだろう。これは正義とか不正義とかいうのとは別問題である。
 
 
 
一方の被告のイスラム女性。
 
この人は法令で禁止されているにもかかわらず、個人的な理由をごり押しした。
 
「私はイスラム教徒なんだから、公共の場ではスカーフをしなければならないのよ。だから外さないわ」
 
 
 
イスラム教の教えを守った女性の毅然とした態度に、共感する人も多いかもしれない。
 
しかしここで私は、電通大学教授、中島義道氏の「ウイーン愛憎」(中公新書)の一節を引用してみたい。
 
西洋人の傲慢な個人主義を目の当たりにした著者が体験したエピソードである。
 
 
「(西洋人が)集団の中で個人的理由を貫こうとする態度には、根強いものがある。私の目撃した次の行為は、まずわれわれ日本人の常識を大きく外れるものであろう。
(中略)
ある日、授業が15分ほど進んだとき、突如前列の一人の女子学生が手を挙げ、「私は喉が弱くこうした締め切った空気には耐えられないので、窓を開けてもらえないでしょうか」と訴えた。
(中略)
四、五人の男子学生が一斉に窓を開けた。それとともに車の騒音がドーッと教室内に入り込み、大学教授は声を高め、後方の学生たちは両耳の後ろに手を当てて聞き始めた。私は思わず彼女に視線を向けたが、彼女は何ごともなかったかのように平然とノートをとっている」
 
 
個人の権利が極大にまで認められた社会というのが、いかに理不尽なものであるかが、わかるというものだ。
 
だから私は、よく言われるように西洋が「成熟した社会」であるとは到底思われないのだが、それは置いておいて、件のイスラム女性である。
 
この女性と、上述のエピソードの女子学生と、根っこは同じではないだろうか。
 
自分の権利を主張するあまり、公共の決まり事に反してもかまわないと考える傲慢さ。
 
 
この事件は究極のところ、個人主義と公共の利益のぶつかり合いであり、そこにマイノリティであるイスラム教徒とアメリカ深南部のネオコン判事という対立が重なるなわけだが、よく考えてみれば両者もと似たもの同士なのである。
 
そういう意味では、表面上はネオコンキリスト教徒と厳格なイスラム教徒の対決とはいっても、その根底では、西洋人特有の傲慢がぶつかり合っただけの、きわめてアメリカ的な事件であると言えるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
欧州の不景気 2008年12月19日01:09
 
最近のユーロ安が象徴するように、ヨーロッパにようやく不景気がやってきたらしい。
 
私がスペインを訪ねた頃は、空前のバブルだったそうで、バカみたいに物価が高かった。
 
当時の為替は、
 
1ユーロ=160円
 
自販機でペットの水一本1ユーロとか1.5ユーロだったので、160から240円もした。
 
なんでこんな「終わってる国」が、日本以上に物価が高いのか。
 
スペインで私たちが知ってる会社なんて「チュッパチャプス」くらいのものではないか。
 
わけわかんないのである。
 
 
そんなスペインも、バブルが去って今度は不景気が押し寄せているらしい。
 
 
昨日の読売に出ていた「欧州の自動車販売台数の大幅な落ち込み」。
 
下落率は、
 
ドイツ17.7%
イギリス36.8%
 
そして、
 
スペイン49.6%
 
ユーロ安でスペインの狂乱物価もひと段落したことだろう。
 
 
 
ちなみに経済破綻したアイスランドの11月の自動車販売台数は、
 
前年比94%の下落で、1ヶ月で72台しか売れなかったそうだ。
 
しかし計算してみると、通常でも一ヶ月あたり140台しか売れないということになる(日本の11月の新車販売台数は21万台)。
 
考えてみればこの国は人口三十万人しかいないのであった。
 
 
そしてさらなる続報では、この国は非武装宣言しているそうで、代わりにNATOの軍隊に定期的に駐留してもらってるのだが、今回の経済危機で駐留費を払うことができず、軍事基地がカラッポになり、ロシアの爆撃機が領空侵犯しても、指をくわえて見ているだけだったという。
 
要するになめられているのである。
 
非武装宣言なんていう理想論が、いかに空理空論かがよくわかる。
 
ていうか非武装といっておきながら、外国の軍隊を駐留させるってのは、矛盾してないか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ドーン・オブ・ザ・デッド」をじっくり鑑賞する 2008年12月13日22:48
 
これからこの映画を観ようと思ってる人は、内容に触れるので、また興味ない人は、この先読んでも面白くないので、飛ばしてくださいね。
 
 
ゾンビ映画史に金字塔を打ち立てたこの映画。
 
先日、中近東のシリアで購入した外国語バージョンを帰国してから初めて観てみた。
 
そしたら国内版にはないシーンが数多く含まれていて大感動した(もしかしたらプレミアムエディション版には含まれているかもしれませんが)。
 
それでその一部をご紹介しよう。
 
 
 
まずモールに侵入するシーン。
 
日本版では、いきなり便器でガラスをブチ割って侵入しているが、実はその前に、バールで入り口をこじ開けている最中に、片腕のもげた中国人ゾンビが、すごい勢いで襲ってくる、かなり怖いシーンがある。
 
ここをカットしたのは、なんとももったいない。
 
 
次に二階でCJらに、なんとか救助してもらったあと、CJらが階下のゾンビを一掃しに行くシーンで、ケネスを襲ったゾンビが食っていた犠牲者がゾンビ化していて、これをCJが射殺するシーンがある。
 
ここもゾンビファンとしては外せないところだ。
 
 
初代「ゾンビ」の黒人主人公ピーターがテレビで説教するシーンも、実はもっと長いんだが、これについてはあとで触れる。
 
 
監禁されているCJとその仲間に、おそらく牧師の中年男性が聖書で説教するシーンがある。
 
 
ロシア人女が出産した赤ん坊ゾンビに、アナが銃を向けるシーンがある。おそらく倫理上カットされたんだろう。
 
 
これに続く、遺体を並べて黒人警察官ケネスが演説するシーンの前に、牧師?の中年男性に、仲間が「お祈りを捧げろ」「オレは本職じゃないから無理だ」というようなシーンがある。
 
 
改造車でマイケルがアナに告白するシーンのあと、濃厚なキスシーンがある。
 
 
そしてこれが一番もったいないカット。
 
アンディ銃砲店から脱出するシーンだ。
 
アンディを射殺して武器の準備ができたあと、みながマイケルに尋ねる。
「次の計画は?」
するとCJが、ガスボンベを指さして、
「バーベキューでもするかい?」
CJは屋上に上がり、ガスボンベを路上に転がして、これを射撃。大爆発が起きる。その間にみんな脱出するが、CJだけが遅れる。マンホールを開けてCJを待っていたひとりが落下。
 
あとはおなじみのシーンに続く。
 
ここが一番、大幅にカットされている場面だろう。
 
そしてモール脱出シーンで、CJがガスボンベを撃ち抜く場面の伏線になっていることは言うまでもない。
 
ちなみにこのシーンでも、車体によじ登ってきたゾンビをCJが射殺する場面がカットされている。
 
 
 
ということで、ファンなら見所が多いので、プレミアムエディション版(たぶん)の購入を、ぜひオススメする。
 
 
 
それはそうと、この映画、深読みしてみると興味深い事実が見えてくる。
 
この映画の制作者は、かなり保守的な思想の持ち主のようなのだ。
 
 
登場人物の関係を見てみよう。
 
たとえば赤ん坊ゾンビを生んでしまうカップル。
 
夫は黒人で妻はロシア人で、いずれもアメリカのマイノリティである。
 
ロシア人と黒人の子供がゾンビという設定自体、かなり悪意があると言えるだろう。
 
だってアングロサクソンの男女でも、設定上なんの問題もないのだ。
 
 
トラックで脱出の途中で、売春婦の女を牧師の男がチェーンソーで殺してしまう。
 
「売春婦など死んでしまえ」というメッセージにも受け取れる。
 
 
冷笑的でキザなフランス系のキャプテン。
 
コイツはひどい卑怯者である。口だけでなにもしない。
 
一般的なアメリカ人の嫌フランス人観をそのまま表現している。
 
そしてコイツは主人公のアナに、望み通り射殺される。
 
 
さらに上述したピーターの演説である。このカットされた長い演説では、以下のようなことが語られる。
 
「オマエたちは婚前交渉をした」
 
「オマエたちは妊娠中絶をした」
 
「オマエたちは男性同士で性的関係を結んだ」
 
「だから神が怒っているのだ」
 
この内容がアメリカの超コンサバな思想そのままであることは、おわかりいただけるだろう。
 
 
最後に。
 
この映画の冒頭部分で、一瞬だけモスクで集団礼拝するイスラム教徒のシーンが映し出される。
 
ウイルスをばらまいた犯人はイスラムである。
 
そういう暗示がこめられている。その一方で、
 
「ここで日の出を見るよ」
 
と言って、ゾンビに噛まれたマイケルが仲間と別れる、もっともヒロイックなシーンでは、ケネスの後ろにしっかりと星条旗が翻っているのである。
 
 
 
私はこの映画自体は、ゾンビファンとして、拍手喝采したいほどの、すばらしいデキだと思う。
 
しかし残念ながら制作者のネオコン的思想には、まったく賛同しかねる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本の繁栄も末期状態かもね 2008年12月12日11:49
 
幼稚園児の視力が低下しているそうだ。
 
原因は案の定、ゲームのやり過ぎと、そのせいで外に出る機会が減っているからだ。
 
 
このニュースを聞いて思い出したことがある。
 
中国の歴代王朝が滅亡した原因のひとつには、ある共通の特徴があるという説だ。
 
初代皇帝から二、三代くらいまでは健康な成人が即位するけれど、四代、五代と下がっていくにつれて、短命な皇帝が続くようになる。
 
周囲の王族が過保護すぎて、王子たちを外に出さないのだ。
 
そして即位した皇帝は、結核などの病気で夭逝してしてまう。
 
次に即位するのは子供だったり赤ん坊だったりする。
 
そうすると側近や親戚が権勢をふるうようになり、汚職が横行する。
 
政治が乱れ、反乱が起きて、王朝は滅亡する。
 
これが繰り返されるというのである。
 
 
「中国の王朝国家の皇帝たちは多妻制のもとで、後宮の奥深く育ち、外界と接触することが少ないため、世代を重ねることに身体が虚弱となり、若死する傾向があり、皇帝権が外戚、宦官等に横取りされ、崩壊を招いた」(「中国の歴史 上」貝塚茂樹 岩波新書)
 
 
 
日本の子供たちにアレルギーが多いのも、ひとつには「乳児期の無菌状態」という過保護が原因のひとつといわれる。
 
日本人は徐々に虚弱体質になりつつある。
 
この国の将来は、やっぱり暗いのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クラスター禁止条約署名 2008年12月05日17:26
 
クラスター爆弾の使用禁止。
 
けっこうなことである。
 
世界中で子供やお百姓さんが被害に遭っていることは、悲しいことである。
 
こんな兵器は二度と使うべきではない。
 
 
しかしここで、この条約を強行に主張した国が、ノルウエーやアイルランド、ニュージーランド、オーストリアなどであったことに、私は注目したい。
 
 
日本などが主張していたのは、より規定のユルイ「CCWプロセス」というものだったそうだ。
 
これならアメリカやロシアも参加するだろうという考えである。
 
 
これに対して上記の国々が主張していたのは、全面使用禁止を規定した「オスロプロセス」であった。
 
そして今回、彼らのごり押しが通って批准となった。
 
 
しかし、米中露以外でも、批准しなかった国はけっこうある。
 
韓国とイスラエルがそうだ。
 
 
この2ヶ国と、上記の西洋諸国が決定的に異なる点。
 
それは戦争の危機がまったくないということである。
 
 
韓国もイスラエルも停戦状態で、いつ戦争が起きるかわからない。
 
戦争が起これば、なにがなんでも勝たないといけない。
 
クラスターがダメだとか言ってる余裕はない。
 
 
 
だからってバンバン使っていいわけではないのは当然である。
 
私が言いたいのは、戦争の危機がほとんどない国が、それに直面している国に対して、
 
「オレたちが止めるんだから、オマエたちも止めろ」
 
というのは不遜ではないか、ということである。
 
 
これは要するに、この日記でしつこいほど書いている、西洋人の「自分が正しいと信じて疑わない」姿勢そのままなのである。
 
 
報道ステーションでは、古舘さんが、この条約を批准しない、そしていまも製造を続けるアメリカ、中国、ロシアを非難していたけれど、私はそれ以前に、なぜ上記の西洋諸国が、他の国の事情を考慮した「CCW」の方で妥協しなかったのかが引っかかる。そしてそこに、
 
「我々の主張は全面的に正しいのだから、他の連中が我々に従って当然」
 
という、カサにかかって居丈高に主張する西洋人の「エゴイズム」を、またしても見る思いがするのである。
 
この問題は、捕鯨再開を強行に非難する一部の西洋人の、非常に独善的な考え方と、根っこは同じであると思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タイの国際空港のデモ隊について考える 2008年12月05日01:02
 
タイのスワンナブーン国際空港を占拠していたデモ隊が撤収したそうだ。
 
タクシン派の内閣が総辞職して、彼らの目的が達成したからだという。
 
彼らはなんでこんなことをしたんだろうか。
 
彼らが反タクシン派で、タクシン派が内閣に居座っているからである。
 
 
ではタクシン前首相とはどんな人か。
 
タイの通信事業で大儲けした実業家である。
 
日本でいえば楽天の三木谷社長が首相になったと思えば近いだろうか。
 
地方重視の政策で、貧困層に人気があったそうだ。
 
麻薬王クン・サーを逮捕したのは、この人の功績である。
 
 
逆に成り上がりだけに、それまで既得権益を握ってきた連中とは、とても仲が悪かったそうだ。
 
数年前のタクシン首相の失脚は、こいつらが巻き返しを図って成功した結果である。
 
 
 
今回の空港占拠デモ。
 
読売新聞によれば、ずいぶんと優雅なものだったらしい。
 
冷房の効いた建物内にはテントが支給され、医療施設もあったという。
 
もちろん食事はすべて支給され、帰りの大型バスも運行されたそうだ。
 
 
これらのカネはいったい誰が出しているんだろうか。
 
もちろん反タクシン派の金持ち連中だろう。
 
彼らはバンコク在住の大金持ちで、自分たちの利権を代弁する傀儡政権ができることを望んでいる。
 
そして貧しい地方のことなんか、眼中にない。
 
 
タイという国は、地方格差がものすごく激しい国である。
 
バンコクと最貧地域のイサーン地方では、所得格差が10倍あるという話を聞いたことがある。
 
こういう地域から、貧しい家の少女が身売りされて、バンコクで売春してエイズに感染するという悲劇は、何十年も前から続いている。
 
 
もちろんタクシンも、いいことばかりやっているわけではないだろう。
 
しかし少なくとも、所得格差をなくそうと努力したことは確かで、だからこそ地方では絶大な人気があった。
 
 
 
今回のデモ隊がどこまで本気だったのか。
 
あるいはカネもらってデモに参加してしてたんじゃないのか? 
 
というギモンも沸いてくる。
 
参加していた人々の意図がイマイチよくわからない、今回の事件だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なぜタージマハルホテルか? 2008年12月01日14:45
 
ボンベイに行ったことある人なら、おわかりになると思う。
 
なぜデリーでもカルカッタでもなく、ボンベイが狙われたのか。
 
それはこの町がインド経済の中心であるということの他に、この町がインド上流階級の集中する「金持ちの町」であるからに他ならない。
 
 
ボンベイのインド人は、他のインド人とまったく違う。
 
某高級ホテルのパーティーで出会ったインド人たちは、まるで西洋人のようだった。
 
男はスーツにネクタイ、女は美しいドレスで着飾り、流暢な英語を話した。
 
彼女たちは、カルカッタの雑踏を、買い物カゴをアタマに載せて歩いている、サリー姿のインド人女性とは、まるで人種が違っていた。
 
彼らは日常的に英語を話す。英語を話すことが、インドでは上流階級の証明であるという。
 
言ってみればボンベイは、インドであってインドではない。
 
インドにおける西洋である。
 
そこに、この町が狙われた理由のひとつがある。
 
 
 
そしてもうひとつ。
 
なぜタージマハルホテルが主要な襲撃対象になったのか。
 
このホテルを建てたタタ一族は、ヒンズー教徒ではない。
 
イスラムでもない。
 
インドで「パルシー」と呼ばれる、ペルシャ系のゾロアスター教徒である。
 
製鋼業で富をなしたタタ一族は、インドでも指折りの大富豪である。
 
なぜ彼らが富を得たか。
 
それはインドを植民地化したイギリスが、パルシーを保護したからだといわれる。
 
 
 
報道では、ボンベイは経済の中心地で、タージマハルホテルは、外国人宿泊客が多いので、テロリストに狙われたのだと説明されている。
 
しかしそれだけではないだろう。
 
インドにおける貧富の格差の象徴が、ボンベイであり、タージマハルホテルであった。
 
それがこの地域が狙われた、もっとも大きな理由ではないだろうか。
 
 
 
このように考えると、今回のテロが、今までのヒンズー教徒を狙ったイスラム過激派によるテロとは、まったく質が違うことがわかる。
 
テロリストは、密かにこの事件に喝采している多くの貧乏なインド人の心を取り込もうとしているように思える。
 
テロはいまや、
 
「西洋vsイスラム」
 
ではなく、
 
「富裕vs貧困」
 
の構図に変わりつつあるように思える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文明の衝突 2008年11月20日19:55
 
ハンチントンの「文明の衝突」という論文は、十五年前に発表されて、世界中に衝撃を与えたそうだ。
 
それまでは冷戦が終わり、アメリカ単独首位のグローバリゼーションで世界が覆い尽くされると考えられていたが、この人はそうではなくて、世界は多文化社会になり、それぞれの文明が衝突しあうだろうと予想したのである。
 
この説が、今となってはズバリ当たっていたことは、みなさんご存知の通りである。
 
 
ハンチントンはさらに、西洋のグローバリゼーション、つまり西洋的価値観を世界の多文化社会に押しつければ、それだけ反発が強まり、西洋に不利であるから止めた方がいいといっている。
 
そして多文化社会を容認するように寛容になりなさいと言っている。
 
これはとっても正論だろう。
 
賛同したくなる結論である。
 
 
 
しかし一方で、こういう見方もあるそうだ。
 
西洋がイスラムや東洋にグローバリゼーションを押しつけることを止めるかわりに、西洋vs非西洋の対立を極力避ける。
 
するとイスラムや東洋では、勝手に対立が起こり、紛争が絶えない。
 
そういう状態こそが、西洋にとってもっとも都合がよいのだ、と。
 
この状態というのは、この日記でよく書いている「分割統治」、つまり西洋が植民地経営を円滑に進めるために、原住民同士を反目させ対立させるという理屈と、まったく同じなのである。
 
もしかしたらそういう紛争を、彼らが「故意に」助長するかもしれない。
 
というよりも、すでにそうしているようにも思える。
 
 
ハンチントンによれば「文明の衝突」、つまり地域紛争は「文明の断層」で起こると指摘する。
 
たとえばフィリピンのミンダナオ島。
 
キリスト教とイスラムの「断層」である。
 
マレーシア半島。
 
イスラムと仏教との「断層」である。
 
 
こういうところでの地域紛争が、結果的にグローバリゼーションの延命に大きく寄与してしまう。
 
そしてそういう対立を、西洋諸国は、「テロとの戦い」なんていう、一見して正義に聞こえる美辞麗句で煽り立てる。
 
 
実はものすごく遠大な、西洋による世界支配戦略が、水面下で進行しているのかもしれないと思わせる、ハンチントンの書物でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
捕鯨妨害活動を妨害せよ 2008年11月19日00:08
 
「シーシェパード」という過激な環境保護団体が、またしても日本の捕鯨船を狙ってテロ活動を画策しているらしい。
 
自分たちは正しいから、法律を犯しても平気だという、バカな連中である。
 
オマエらはただのテロリストだ。
 
と声を大にして言いたい。
 
 
最近、死刑廃止論について考えてみた。
 
ウィキペディアによれば、死刑廃止国は、ヨーロッパのほとんどすべての国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アなど、だいたい見当のつく国ばかりだ。
 
要するに、
 
「死刑廃止論をブチ上げているのは西洋人だけ」
 
と言っても過言ではない。
 
その証拠に、アジアから中東にかけてのほとんどの国と、そして例外的にアメリカは、死刑を執行している。
 
 
彼らは死刑を廃止しない国は野蛮であるという。
 
だから今すぐ、即座に廃止せよと言う。
 
死刑が正しいかどうかというのは意見の分かれるところだろう。
 
しかし最近の犯罪の凶悪化を考えれば、そして被害者の遺族の気持ちを考えれば、死刑は存続した方がいいように、私なんかは思う。
 
 
まあ私の意見なんてどうでもよくて、要するに西洋諸国の態度は、平たく言うと、こういうことだろう。
 
 
死刑廃止した国は、我々と同じように、先進的な、意識の高い、文明的な国である。
 
 
自分たちが正しいと信じて疑わない、厳然たる自信がうかがえる。
 
そして一方で、自分たちに恭順する、たとえばトルコのような国には、お情けでEUに加えてやるというエサを与え、もっと貧乏な国には財政援助というエサを与えて、西洋的価値観に従うよう強要する。
 
 
 
先の捕鯨を妨害しようと画策しているテロリストたち。
 
こいつらの根っこにも同じ傲慢のニオイを感じる。
 
 
自分たちが食わない(従ってまったく利害関係のない)知的動物を殺して食う野蛮な連中を懲らしめてやる。
 
自分たちの信条に従わない連中は正しくない。
 
自分たち以外の連中は、自分たちの価値観に従って当然と考える。
 
 
ハンチントンという政治学者は著書「文明の衝突」で、西洋の価値観を一方的に押しつけることが国際紛争を助長させていると指摘していた。
 
西洋人がいつそれに気づくのか。
 
彼らの傲慢が既得権益であることを考えると、世界平和なんて、いつまでたってもやってこないと考えるべきだろう。
 
 
ということで、誰か捕鯨妨害活動を妨害しに、オーストラリアまで行きませんか?
 
日本の英雄になれますヨ!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オバマさんについてのマチガイ 2008年11月18日19:17
 
先日の日記で、ウソ書いてしまいましたので、お詫びと訂正をいたします。
 
先日の読売新聞に以下のような記事がありました。
 
 
「ブッシュ政権下でイスラエルに激しく傾斜した米国の中東政策」
 
「イスラエルにとって、ブッシュ大統領は何でも認めてくれる「もっとも親しい友人」だった」
 
「イスラエルでは共和党候補のマケイン氏支持が46%とオバマ氏を12ポイント上回った」
 
 
ということで、どう考えてもイスラエルは「共和党支持」なんですよね。
 
 
 
私の発言には、
 
「アメリカのユダヤ人」(土井敏邦 岩波新書)
 
という書籍の、以下の記述が下地にありました。
 
「とりわけ民主党の候補者にとって、「ユダヤ人の金なしでは当選が難しい」といわれるほど、在米ユダヤ人社会からの政治献金は不可欠である。民主党への全政治献金のうち五十%から七十%が在米ユダヤ人からの献金だからである」
 
 
これを読むと、クリントンが中東和平に異常に熱心だった理由が、よくわかりますよね。
 
しかしこの本、初版が1991年なんです。
 
クリントンの八年のあとは、ブッシュが八年続いて、その間にユダヤ人ロビイストも、共和党に鞍替えしたのかもしれません。
 
 
 
ちなみにこの本によると、イスラエルロビー団体は、冷戦後の世界において、
 
「アメリカにイスラエルを支援させるための新たな敵を探さなければならなくなった。イスラエルは今それを「イスラム原理主義」とイラクのサダム・フセインに求めている」
 
だそうで、湾岸戦争の背景にはイスラエルの暗躍があることを示唆しています。
 
2001年の9・11テロも、その後の中東各地での戦争も、もとを辿ればイスラエルの国益とか、アメリカの軍需産業の利益とかが、いろいろ混ざり合って演出された結果なのかもしれません。
 
 
いずれにしてもオバマさんが、黒人として、世界の平和をどういう風に考えているのか、興味深いところですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
デジタルネイティブ 2008年11月10日23:22
 
さっきのNスペ特集「デジタルネイティブ」。
 
物心ついたときからインターネットに親しんでいた世代が、これから大きくなると、世界が変わっていくかもしれない。
 
その時代は、彼らがオトナになる2018年頃にやってくるという内容だった。
 
デジタルネイティブの特長は以下の3つだそうだ。
 
 
●現実と仮想現実を区別しない。
 
●情報はタダであると思っている。
 
●人を肩書きで判断しない。
 
 
この中で、私のような出版業界の人間にとって、もっとも脅威であるのは、真ん中である。
 
 
情報はタダで当然。
 
 
これじゃあ本なんて誰も買わないよ。
 
売れなくて当然だ。
 
 
 
でも実際には情報はタダではない。
 
ネットで入手できるのは、上辺だけの、そして出典も明らかではない、従って引用するには心許ない情報にすぎない。
 
それ以上の、専門家の手によるしっかりした調査報告は、結局お金を出して買うしかない。
 
同じように斬新な理論や視点、プロの手による洒脱な文章、感動的な物語は、やっぱりお金を出して買わないと手に入れられない。
 
 
結局、私たち文筆業は、そこに活路を求めるしかないのである。
 
 
 
コンピューターの普及で、あらゆるプロフェッショナルが廃業に追い込まれつつある。
 
「堀内カラー」という一部上場の現像会社(業界ではプロラボという)は倒産寸前である。
 
プロのカメラマンや、デジタル対応していないイラストレーターの仕事も減りつつある。
 
その代わりに登場しているのは、中途半端な知識を持った、プロ意識に欠けるセミプロたちである。
 
もちろんデジカメを使っている私も、そのひとりなんだけどさ。
 
番組で言っていた、ネットによる社会の「平均化」は、よくも悪くも、こういう現場でも起こっているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オバマさんとユダヤ人 2008年11月09日00:17
 
前の日記の続きである。
 
オバマさんは「チェンジ」を連呼して当選した。
 
変革である。
 
アメリカの人々は、いったいどんな変革を期待してオバマさんに投票したんだろうか?
 
 
 
「人種の融和」。
 
確かにオバマさんは「ひとつのアメリカ」を強調していた。
 
 
しかし投票結果を見てみよう。
 
オバマさんとマケインの得票率は、実はたったの7ポイントしか開きがない。
 
つまりあの圧倒的な下馬評にもかかわらず、多くの票がマケイン流れたことになる。
 
その票は言うまでもなく白人票だろう。
 
読売新聞に載っていた専門家の見解によると、マケイン支持者の中で、「オバマよりマシ」と答えた人は39%を占めるという。
 
黒人大統領を否定するアメリカ白人は、残念なことに、いまだ大勢を占めていることが伺える。
 
 
また上記専門家によれば、
 
「オバマの勝因は、小口献金で多額の資金を集め、支持者を広げると同時に、接戦州に資金を集中投下した陣営の手法にあった」
 
ということで、ちゃんと戦略を練った上での勝利だったことが伺える。
 
もちろん絶大な彼の人気が奏功したことは言うまでもないのだが。
 
 
 
 
もうひとつの「チェンジ」はイラクからの早期撤退だろう。
 
しかしこれについては、前の日記で書いているとおりである。
 
オバマさんが民主党である以上、ユダヤの桎梏から逃れることはムズカシイだろう。
 
クリントンが中東和平に、なぜあんなに積極的だったかといえば、ユダヤ企業に政治献金を大量にもらっていたからである。
 
彼が善人であるからではない(と思う)。
 
 
オバマさんの真意はわからない。
 
しかし少なくとも、この人はアフガニスタンでは米軍の増派を主張しているそうだ。
 
イラクは撤退で、アフガンは兵力増強なのだ。
 
 
なぜだろうか。
 
その背景にイスラエルの思惑を指摘するのは、あながち的外れではないだろう。
 
オバマさんはイラン大統領との「対話」も提案しているけれど、これもイスラエルの国益を考えれば、だいたい見当がつく。
 
イランはシリアとヒズボラを支援している。
 
イランが引っ込めば、シリアもヒズボラもおとなしくなる。
 
逆に遠く離れたアフガンなんて、どうでもいい。
 
オバマさんの主張する融和政策が、実はかなりイスラエルの国益に沿ったものであることが想像されるのである。
 
 
 
 
最後に日本との関係だが、日本経済界は圧倒的にマケイン支持だった。
 
なぜなら民主党のクリントンは、中国関係を重視し、一方の日本には強引な市場開放を要求して、ひどく不人気だったからだ。
 
オバマさんのアジア担当大臣も中国通である。
 
 
アメリカの政策は、ブッシュの日本重視から中国重視に、大きく転換することは間違いない。
 
アメリカという後ろ盾を失った日本が、台頭する中国にどう対処するのか。
 
当然ながら外交はキレイ事では済まされないのである。
 
 
 
他にオバマさんがどんな「チェンジ」を主張しているのか、あんまりよく知らないので、これ以上は書きません。
 
しかしこれらのことをいろいろ考えてみると、やっぱりあんまり期待しない方がいいのでは……?
 
という感じは否めないような気がしますが、みなさんどう思われますか???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
過度な期待は失望のもと 2008年11月08日11:53
 
下馬評通り、オバマさんが当選した。
 
まずはネオコンのマケインが落選して、うれしいはうれしいんだが、しかしオバマさんに過度な期待をするのは、彼にとっても少しかわいそうな気がする。
 
 
なぜならアメリカの大統領は、宿命的にアメリカの国益、すなわちアメリカ企業の利益を最優先するしかないからだ。
 
 
彼がイラクからの早期撤退を主張するのも、強行策よりも「対話」を主張するのも、彼が所属する民主党を、ユダヤ系巨大企業が強力に支持するからである。
 
オバマさんはクリントンと同じく、間違いなく中東和平に積極的になる。
 
それは彼の信念もあるのかもしれないが、どちらかというと「献金の多寡」によるのだと思う。
 
彼の主張の多くは、実はユダヤ系アメリカ人の意志を代弁したものなのであり、同時にイスラエルの国益を代弁したものなのである。
 
 
 
かなり前に読売新聞のコラムに書いてあったが、マケイン、オバマ両陣営の業界別献金ランキングでは、
 
 
マケイン……石油、ガス業界
 
オバマ……IT、大学など研究機関
 
 
からの献金が顕著だったそうだ。
 
 
今回の選挙は、表面上はオバマさんの「人種」が、とかく話題にはなったものの、水面下では旧来の重厚長大の石油メジャーと新興IT勢力との戦いでもあったわけだ。
 
読売記者は、
 
「オバマ政権ならIT、教育分野で日本に市場開放の圧力が高まる」
 
と読んでいた。
 
 
そういうことをいろいろ考えていくと、史上初の黒人大統領が誕生したからといって、アメリカの基本的な政策が「チェンジ」する可能性は、実はあまりないのではないだろうか。
 
水を差すようで申し訳ないんだが、どうも過度な期待は禁物という気がする。
 
とはいっても世界中の人々が支持するように、心情的にはオバマさんなんですけどね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ボランティア」のいかがわしさ 2008年11月07日23:34
 
福井県から戻った。
 
某田舎暮らしに関する雑誌の取材である。
 
当地では、新規就農者を受け容れる制度を、いろいろと整備しているが、その中でも、農家が食事と宿泊を負担する代わりに体験希望者が農作業を手伝って労働力を提供するという「ワークステイ制度」についての取材だった。
 
そこで県庁の担当者の話を聞いているうちに、ボランティアについての話題になった。
 
勘違いしているボランティアが多いというのだ。
 
本来「ワークステイ制度」は、労働力を提供する代わりに食事と寝床を提供されるという、ギブアンドテイクの関係なのに、
 
 
「ボランティアで来ている」
 
つまり、
 
「手伝いに来てあげている」
 
という意識の連中がけっこういて、農家とトラブルになる人が多いという。
 
もちろんすべてのボランティア希望者がそういうタチの悪い連中ばかりではないことは言うまでもないが、しかし本気の就農希望者に比べて、そういう「横柄な連中」が多いそうだ。
 
 
もうひとつ迷惑な連中がいるという。
 
最近の大学では「ボランティア活動」が単位になったり、授業の一環になっている学部が多い。
 
就職活動に有利というような事情もあるんだろう。
 
ある日、某大学のゼミのグループが、林業体験実習にやってきたが、中にまったくやる気のない学生がいて、受け入れ農家にたいへんな迷惑をかけたという。
 
最後のミーティングの時間なって、そのサボり学生が、
 
「自分の仕事はパーフェクトだった」
 
と発言したところ、棟梁が大激怒して、その学生を叱責するという一幕があった。
 
 
「ボランティア」といっても、自発的な動機などなにもなく、みんなでゾロゾロやってきて、適当に作業して帰って行く。
 
もちろん全員が、そういうダメな学生ではないわけだが、タチの悪いのもいるのである。
 
 
 
というような話を聞いていて、最近読んだ本を思い出した。
 
先日、カンボジアでお世話になった大塚めぐみ氏が書いた「好き、好き、好き、カンボジア」(原生林)という本である。
 
カンボジアで旅行代理店を経営する著者の、カンボジアにたいする熱い思いが描かれた好著だが、その中に、
 
「ボランティアの中には、「私たちはボランティアだから」と、いかにも正義の見本といった口吻で接してくる者もいる」
 
 
で始まる一文がある。
 
 
ある日、とあるボランティア団体の学生が、バスの手配にやってきた。著者はボランティア団体ということで、ほとんど利益なしの金額を提示したところ、その学生は「高い」と言い、さらに「如何にも正義の味方といった口吻で」こう言ったそうだ。
 
「私達は、カンボジアの為にボランティアしているのだから、もう少し安くしてくれてもいいんじゃないの」
 
 
「彼の態度に私の神経はプツンと切れてしまい、次の瞬間大声で、
「ボランティアがなんぼのものなのですか、うちは商売しているのです。ここで働いているカンボジア人に給料を払って生活しているのです。それでもこの国の復興のお手伝いをしている方には、ぎりぎりのところまでお安くしているのです。ボランティア団体だからと言って、なんでも思い通りになると思わないでください。我が社の料金がご不満なら、どうぞご自分で、車を見つけてください」
 
 
彼はその言葉に腹を立てて、ドアを乱暴に開けて去っていったという。
 
 
著者は続ける。
 
「社会経験のない学生が、思い上がった気持ちでカンボジアに来て、恩着せがましくボランティアをやるくらいなら、観光で来て適度の現金を落とし、黙って街のゴミ拾いでもして、日本に帰った方がよほど現地のお役に立つのではないか」
 
 
これを福井県の農家に換えるとこうなるだろう。
 
 
「社会経験のない学生が、思い上がった気持ちで農村に来て、恩着せがましくボランティアをやるくらいなら、観光で来て適度の現金を落とし、黙って田んぼの草刈りでもして、都会に帰った方がよほど現地のお役に立つのではないか」
 
 
 
・自発的な意志でないボランティア
 
・自分を正義の味方だと勘違いしているボランティア
 
・他人にボランティアを強要するボランティア
 
 
 
これほどタチの悪い連中はいないのである。
 
 
だいたい「ボランティア」という言葉自体に、私なんかはイカガワシイ、いかにも偽善的なものを感じてしまう。
 
 
営利目的でいいじゃないか。
 
それが地域に貢献するなら。
 
 
 
「善意」というのは「自発的」かつ「無償」であって、人に強制されるべきものではないのである。
 
それくらい理解した上で「ボランティア」してもらわなければ、周囲が迷惑するだけだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レバノン杉 2008年11月03日12:42
 
世界遺産にも指定されている「レバノン杉」。
 
レバノン山脈のはげ山の一部に、まるで取り残されたように残っている小さな小さな森である。
 
この貧相な杉の生息地が、なぜ世界遺産なのだろうか。
 
 
世界史を振り返ると、この森林が、名だたる大国の王たちの垂涎の的であったことがわかる。
 
エジプトのファラオも、この土地のほど近くまで遠征している。歴代のファラオは、大神殿に必要な大木を、レバノンから取り寄せていた。
 
 
古代ペルシャ帝国の王も、レバノン杉を切り出して、王都ペルセポリスの大神殿を築造したという。
 
 
レバノン杉は、時の権力者だけが切り出すことが許された、たいへんな贅沢品だった。
 
 
おそらく古代の地中海交易で活躍し、西アフリカまで到達したとさえいわれるフェニキア人も、レバノン杉で大船団を建造することができたからだろう。
 
 
 
この地方に行ってみるとよくわかるが、標高が低く、起伏がなく、どこまでも荒れ地と砂漠が続き、雨にも乏しい中近東の地勢の中で、レバノン周辺だけが、例外的に標高3000mの雨に恵まれた大山脈と、広大な森林を持っている。
 
この土地をめぐって、古代エジプトに始まって、ペルシャ帝国、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、イスラム諸王朝、オスマントルコと、数多くの帝国が興亡を繰り広げてきたのも理解できる。
 
「レバノン杉」は世界の名だたる大帝国に渇望された、その華麗な歴史によって、世界遺産に登録されたのである。
 
 
 
現在のレバノンの民族、宗教が複雑に入り乱れているのも、レバノン杉を狙って侵攻してきた幾多の勢力の残滓とも言えるだろう。
 
そしてその険しい地形から、異端者が逃げ込む「駆け込み寺」のような役割を、レバノンはになってきた。
 
歴史上、レバノンにキリスト教徒が多かったのも、イスラム帝国の中で迫害されてきた人々が、この山に逃げ込んだ結果だろう。
 
そんなキリスト教徒が多いこの地域を、最初にオスマントルコから分離して保護国化したのがフランスだった。
 
フランスはミッション系の大学を建て、キリスト教徒を教育して官吏として登用した。
 
いままで2級市民として迫害されてきたとはいえ、それなりに平和に共存してきたキリスト教徒とイスラム教徒は、徐々に対立するようになっていった。
 
当時はキリスト教徒が、人口の過半数を占めていたので、この国の大統領はキリスト教から、首相はスンニ派イスラム教から、国会議長はシーア派イスラム教から、それぞれ選出されることになっていた。
 
しかしイスラム教徒の人口は徐々に増えていき、アラファトのPLOが侵入してくるに及んで、人口分布は逆転した。
 
しかし国家元首の座を握る与党のキリスト教徒は、新たに国勢調査を行おうとはしなかった。
 
調査すれば人口逆転がバレるからだ。
 
だからこの国では戦前に行われた調査が最後で、それ以降あらゆる人口調査は行われていない。
 
これがイスラム教徒とキリスト教徒が対立する大きな原因のひとつといわれている。
 
 
レバノン杉は、国旗にもデザインされているように、この国のたいへんな財産ではあるが、それがもたらした厄災は、計り知れないとも言える。
 
レバノンは、類い希な財産を持っているおかげで、大国に翻弄されてきたエジプトやカンボジアと、同じ運命にあったのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカ人の無知が世界を傷つける 2008年11月02日13:09
 
リビアがアメリカに慰謝料を払うそうだ。
 
総額1500億円。
 
もちろんアメリカは、そんな「はした金」が目的ではないだろう。
 
かつてのテロ国家に非を認めさせたこと、アメリカに屈服したという事実こそが重要なのである。
 
 
それにしてもつくづく思うわけである。
 
だったらオマエも、イラクやアフガニスタンに慰謝料払えよと。
 
 
 
有名な小咄がある。
 
沈没間際のタイタニックで、船員が乗客の男たちに、船に残るように説得する。
 
イギリス人には、
 
「あんたはジェントルマンなんだから残りなさい」
 
 
日本人には、
 
「上司の命令だから残りなさい」
 
 
そしてアメリカ人には、
 
「ここで船に残れば、あんたはヒーローになれる!」
 
 
 
アメリカ人は、いつも「正義のヒーロー」でないと気が済まない。
 
悪のファシスト日独を倒し、自由主義と敵対するソビエトを倒し、今度はテロリストを支援する「ならず者国家」リビアを屈服させた。
 
 
かつてアメリカは自らを「世界の警察」と自称して憚らなかった。
 
それが単に国益左右された、他の国となんにも変わらない独善的外国政策の結果であるとしても。
 
 
そしてもっとタチが悪いことは、おおかたのアメリカ人が、この幼児的なアメリカの正義を本気で信じていることである。
 
 
アメリカ人の無知が、世界中の多くの人を傷つけている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「トゥームレイダー」とアンジェリーナ・ジョリー 2008年11月01日18:05
 
先日、カンボジアに行ったので、改めてこの映画を、しかも続編まで見てしまった。
 
それで感想はというと、残念ながら、たいして面白くなかった。
 
ということでストーリ−はどうでもいいので、主演女優のアンジェリーナ・ジョリーについて考えてみたい。
 
 
 
カンボジアでは、この人は、たいへんな人気だそうだ。
 
理由は、この映画(一作目)の舞台のひとつがアンコール遺跡で、映画のヒットによって、外国人観光客が一気に押し寄せ、地元がたいへん潤ったかららしい。
 
特にロケで利用された「タ・プローム」遺跡は、数多いアンコール遺跡の中でも、屈指の人気である。
 
今回言ったときにも客足が途絶えることはなかった。
 
 
地元にたいへんな経済効果をもたらしたということで、彼女は恩人なのである。
 
 
 
もうひとつカンボジアで人気が高い理由があるそうだ。
 
彼女がカンボジア人の男の子を養子にしたからだ。
 
地元のガイドさん曰く、
 
「何万人の中から選ばれたんですから、ものすごくラッキーですよねえ」
 
 
調べてみると彼女は、この子の他に、エチオピア人の女の子、ベトナム人の男の子を、それぞれ養子として引き取っているらしい。
 
いずれも彼女が主演した映画のロケ地だと思う。
 
 
美談だなあと思うのが普通である。
 
 
 
しかし私はこの話を聞いて、なんだか釈然としない。
 
なぜ彼女は、同じアメリカの孤児を養子にしなかったのだろうか?
 
ニューヨークのハーレムにでも行けば、黒人の孤児がたくさんいるではないか。
 
なぜアジアやアフリカの子供たちばかりを選んで養子にしたのだろうか?
 
 
アジアとアフリカ。
 
おそらくそこに理由があるだろう。
 
 
多くの西洋人にとって、アジアとアフリカは貧困と疫病が蔓延している地域だという印象がある。
 
多くのアメリカ人にとって、アジアやアフリカは「ugly」(=醜い)であるという。
 
そういう地域の「不幸な」子供たちを、豊かなアメリカに引き取って育てるのは、彼らにとってひとつの慈善活動である。
 
 
ベトナム戦争が激化した頃、アメリカでは戦争で親を失ったベトナムの子供たちを引き取って育てようという人が大勢いたそうだ。
 
 
それは確かに美談だろう。
 
しかしその背景には、
 
「遅れているベトナムよりも、アメリカで育つ方が、子供たちは幸せに違いない」
 
という、一方的な偏見がある。
 
ベトナムは不潔で、貧乏で、遅れていて、まともな教育も受けられないだろうという偏見である。
 
おまけにキリスト教徒に育てて正しい道に導いてやろうという「善意」もあるのだろう。
 
 
アメリカは常に正しいと信じて疑わない。
 
 
本当はアジアよりもよっぽど治安が悪く、「ガラスの天井」といわれる人種差別による出世の壁があり、脂肪分の摂りすぎで三人に一人が肥満で、成人病に脅かされているにもかかわらず。
 
 
どちらで育つのが幸せかなんて、簡単に決められることではない。
 
もちろん多くのアジアやアフリカの人々はアメリカに移住することを望んでいる。
 
しかしアメリカ社会で、彼らが本当に幸せに暮らせるのかというと、ギモンではないか。
 
それは何年か前の、バージニア工科大学で韓国人学生が起こした乱射事件が物語っているだろう。
 
彼は白人社会の中で、本当に孤独に悩んでいたのだと思う。
 
 
 
 
ウィキペディアを読んでみると、この人が若い頃いじめを受けたり、自傷癖があったりしたことが書かれている。
 
きっと心根の優しい人なんだろうと思う。
 
しかしこの人が、一般のアメリカ人と変わらない、アジアやアフリカにたいする偏見を持っていて、しかも、これも一般のアメリカ人と同じく、そのことにまったく気づいていないのは、たいへん残念なことだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イラクはイギリスに賠償請求をするべきだ 2008年10月27日12:01
 
イラク北部で、キリスト教徒殺害事件が多発しているそうだ。
 
犯人はイスラム教徒で、地方選挙を前に、少数派の排除を狙った犯行といわれている。
 
 
中東諸国には、実はけっこうキリスト教徒が住んでいる。
 
エジプトやシリア、ヨルダンでも、人口の一割はキリスト教徒と言われる。
 
 
そんな中でも、イラクはさらに特殊な地域だ。
 
イラクの北部にはクルド人がたくさん住んでいる。
 
東部にはシーア派のペルシャ系住民が多い。
 
西部はスンニ派のアラブ人だ。
 
 
なんでこんなに複雑な分布になったのか。
 
それはこの国が、なんの正当性もなく、イギリス政府によって適当に線引きが行われて国境が策定されたことによる。
 
 
イギリスは、第一次大戦後、中東地域のオスマントルコの領土を分割した。
 
シリアとレバノンはフランスが、その他の地域はイギリスが保護領とした。
 
 
当時、メッカの王様だったフセイン家は、サウジ家に領土を奪われ、イギリス政府に泣きついた。
 
イギリスは旧オスマントルコの領土を分割して、フセイン家の兄弟に割り当てて王国とした。
 
それがヨルダン王国とイラク王国だった。
 
 
線引きは、時の植民大臣チャーチルが、フセイン国王と昼飯を食いながら地図に線を引いたといわれる。
 
そこに住んでいるクルド人や、シーア派系ペルシャ人、アラブ人の分布などまったく無視されたことは言うまでもない。
 
 
 
現在世界各地で起こっている内戦や紛争の、ほとんどすべての原因は、旧植民地宗主国による民族や宗教分布を無視した国境線や分割統治にあるといっていいだろう。
 
カンボジアとタイが小競り合いを起こしている世界遺産「プレアビヒア」も、あそこに国境が引かれたのは、「世界遺産」などない頃に行われた、フランスとタイ政府の妥協の産物でしかない。
 
アフリカ各地で起こっている内戦も、民族分布を無視して国境線が引かれ、それをもとに国家が樹立され、その中でただひとつの大統領のイスをめぐって対立が起こっている。
 
 
イラクの内戦の本当の犯人は、いったい誰か。
 
 
それはイギリスである。
 
 
私はイラク政府はイギリスにたいして、100兆円くらい賠償訴訟を起こしてもいいと思う。
 
 
今でもイギリスの貴族は、100年以上前に獲得した、世界中の旧植民地からのアガリ、国営企業や鉄道会社に投資した配当で食っているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南米は世界でもっとも「悲しい」 2008年10月26日17:13
 
ブラジルは世界でもっとも人種差別の少ない国だそうだ。
 
白人同士が結婚しても、生まれてくる子供が黒人だったりすることは、ごく普通だという。
 
世界中からの移民で構成され、インド人やレバノン人の商人が、けっこう儲けていたりする。
 
白人だけが儲けている、同じ移民の国のアメリカとは様子が違うらしい。
 
 
 
ブラジルに行ったとき、そのことを夢のように語っている、これから移住を考えている若い日本人に何人か会った。
 
 
しかしブラジルは、どうやら彼らが考えているような夢のような国ではないらしい。
 
ブラジルの貧富の差はものすごい。
 
わずか1割の大金持ちが、ブラジルの6割の富を独占している。
 
その割合は、世界レベルでもきわめて高い。
 
 
ブラジルの経済を左右しているのは、おそらくアメリカの多国籍企業をはじめとした、西洋の巨大企業だ。
 
読売新聞によると、アメリカの穀物メジャー最大手「カーギル」は、ブラジルの大豆輸出の6割を独占しているという。
 
アマゾンの密林が、広大な大豆畑に開拓され、CO2排出の関係で問題になっているが、この広大な大豆畑も、もとはといえばカーギルなどの巨大穀物商社の資本によるのだ。
 
 
ブラジルの経済はアメリカに牛耳られている。
 
ブラジルだけではない。南米のすべての国の経済はアメリカに握られているのだ。
 
 
カーギルと同じ巨大穀物メジャーに「ブンゲ」という会社があるが、この会社はアルゼンチンの穀物生産のほとんどすべてを握っているという。
 
「ブンゲは百姓に信用を与え、種子を売り、穀物を買い取り、そして収穫が手に入ると、次には首つり用のロープまで売る」(「穀物メジャー」石川博友 岩波新書)
 
といわれるほど、アルゼンチンで勢力を持っており、政界にカネをばらまいて独占禁止法をくぐり抜け、莫大な利益を上げているという。
 
 
おそらく南米のすべての国は、おなじような状況なんだろうと思う。
 
だから南米のいくつかの国の大統領は、ベネズエラのチャベスのように反米姿勢を鮮明にして、アメリカに煙たがられている。
 
ボリビアでも農地改革を断行しようとしたモラレス大統領が、アメリカ大使館とケンカしたりしている。
 
既得権益を握っている一握りの白人地主勢力とアメリカ大使館が結託して、反政府勢力を煽っているのだ。
 
 
 
南米は日本から遠く離れているために、あまり話題に上ることがない。
 
経済は停滞しているんだろうことはわかるけれど、アフリカのように飢餓や難民が発生することもないし、なんとなく平和にまとまっているんだろうという印象がある。
 
しかし考えてみれば、南米は、世界で最も早い時期に、白人の奴隷となり、白人に搾取され続けてきた地域である。
 
アフリカには、まだそれぞれの民族言語が生きている。
 
しかし南米では現地の言葉は、ほとんど消滅しかかっている。
 
民族教育によってほんの少し生き残っているだけで、おおかたの人々はスペイン語とポルトガル語しか話せない。
 
それだけ白人による支配が徹底しているのだ。
 
先住民は、そのほとんどが小作農で、ごく少数の白人不在地主の、広大な土地を耕しながら、地面にへばりつくようにして生きている。
 
南米では白人移住者による完璧な支配システムが確立されており、それはもはや先住民が復権する可能性もないまでに達していると見るべきだろう。
 
 
確かにこの地域には飢餓がない。
 
しかしそれは、決して先住民の幸せを意味するものではない。
 
むしろ国際社会で目立たないように、先住民に最低限の衣食住を与え、それ以外のすべての富を収奪していると言ってもいいかもしれない。
 
南米のおける白人の支配は、それほど巧妙かつ狡猾なのだと思う。
 
 
南米では、うわべの平和の裏側で、アフリカの黒人以上にうちひしがれた先住民が暮らしている。
 
そういう意味で南米は、アフリカ以上に白人支配と人種格差、所得格差が進行してしまった、世界でもっともタチの悪い地域であると言えるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ゲートウェイ21」倒産 2008年10月25日23:42
 
「ゲートウェイ21」という会社は、「留学仲介業者」なんだそうだ。
 
海外留学する人たちの斡旋業だ。
 
読売の報道によると、留学希望者1300人から9億500万円を集めて経営破綻したそうで、お金はもちろん返ってこないし、留学の見通しも立たないという。
 
 
泣き寝入りである。
 
かわいそうに。
 
 
記事はさらに続く。
 
「文部科学省によると、2004年中に海外の大学や語学学校などに留学した日本人は約8万3000人。相当数の留学生は外国語での書類作成や受け入れ先とのやりとりに仲介業者を利用しているとみられ、語学学校日本支社の元営業社員は「自分で直接手続きするのは入学者全体の1〜2割程度」と話す」
 
 
この記事を読んでギモンに思わないだろうか。
 
 
これから語学留学するのに外国語の書類作成を業者に任せてしまう。
 
受け入れ先だって、留学先の学校に照会すれば、いくらでも見つかるだろう。ネットでだって調べられるかもしれない。
 
でも、それもしない。
 
 
要するに、この人たちは、業者にすべて任せきりで、自分ではなにもしない。
 
ただ外国にさえ行けば、語学が習得できると安易に考えているのではないか、というギモンがフツフツと沸いてくるのだ。
 
 
 
かつて私は、シアトルで語学留学しているという留学生のグループに会ったことがある。
 
その中には、かなりの程度、英語が堪能な学生もいたけれど、大部分は私とたいして違いがないようなレベルだった。
 
それもそのはずなのだ。
 
彼らは語学留学しているにもかかわらず、いつも日本人と一緒に連れ立って遊んでいるのだから。
 
 
まじめに勉強しているのは、10人にひとりかふたりくらいかなあと思っていたら、この記事に書いてある、
 
「自分で直接手続きするのは入学者全体の1〜2割程度」
 
とピッタリ符合するのであった。
 
 
 
前に「NOVA倒産」について書いたことがあるが、外国人との会話が成立するには、語学力よりも話す内容(要するに話題)がないとダメなのである。
 
 
インドに行ったときに、さる製薬会社の日本人エンジニアと知り合った。
 
彼は英語が、からっきしダメだったにもかかわらず、現地工場での技術指導には、なんら問題がないという。
 
お互いがエンジニアなので、言葉で説明しなくても、お互いに理解できるわけだ。
 
日本の野球選手がメジャーリーグで不自由なく活躍できるのも、言葉なんか必要ないからだと思う。
 
 
意思の疎通というのは、そういうことなのである。
 
そしてその前提として必要なのは、スペシャリストとしての技量なんだと思う。
 
つまり自分の中に相手が必要とする「なにか」があれば、相手は必死に、こちらのことを理解しようとする。
 
その時に初めて語学の必要性が生じるのだと思う。
 
 
これは逆の場合も当てはまる。
 
フランス料理を習得しにフランスに行くからこそ、仏語が必要になる。
 
その熱意があるから、相手も教えてくれるし、勉強にも身が入る。
 
そういうもんだろう。
 
 
 
今回、残念ながら泣き寝入りすることになった多くの人たちに、そういうモチベーションとか熱意があったかというと、甚だギモンではないだろうか???
 
というわけで、被害者のみなさんには申し訳ないが、わたしはかれらにはあんまり同情しないんだけど、まあでも、ほとんどの人は、「学生時代の思い出づくり」で出かけるんだろうから、あまりキツイことを言うのもヤボかもしれない。
 
でもやっぱり、ちょっと安易すぎるんじゃないの? 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカの食料戦略 2008年10月24日00:29
 
日本はアメリカの食いものを食わせられている。
 
これが現在の日本の状況である。
 
 
マクドナルド、ケンタッキー、ピザハット。
 
この3つの企業は互いに競合しない品揃えで、世界中に広がっている。
 
おそらくアメリカの国策で。
 
 
エジプトに行ったとき、カイロのアメリカン大学の校門前に、この3つが仲良く店舗を並べているのが印象的だった。
 
この3つの企業が先兵として進出し、アメリカの食文化を「カッコイイ」と刷り込ませ、アメリカの食品を輸入させる。
 
それが現代のアメリカの食糧戦略なのである。
 
 
 
さっき読了した「穀物メジャー」(石川博友 岩波新書)。
 
1981年初版と、けっこう古い本だが、興味深いことが書かれていたので紹介しよう。
 
 
かつてアフリカのザイールに、アメリカの穀物メジャーが、ほとんど独占的に小麦を輸出していた。
 
しかし実は、ザイールでパン食が始まったのは、つい最近のことだという。
 
 
「ザイールが外国産小麦に依存するようになったのは、近年のことで、それまではとうもろこしとキャッサバが主食で、パンはむしろ全く馴染みのない食物であったということである。ザイールは一九六〇年にベルギーから独立して以来、アメリカ政府の計画の下にアメリカ小麦を輸入し、都市や町にパン屋が生まれ、輸入小麦粉を中心とした新しい食糧供給システムが形成されたのである」
 
 
つまりザイールで自国の小麦粉を消費させるために、住民の食生活を変えたわけだ。
 
おそらくそこには、テレビやラジオによる様々な啓発活動があったに違いない。
 
「アメリカはカッコイイ」
 
「カッコイイアメリカ人はパンを食っている」
 
「だからパン食はオシャレである」
 
 
そういう「刷り込み」を通じて、アメリカは黒人の嗜好をパンに変えていったに違いない。
 
 
この本の著者が指摘しているように、そういう戦略は、当然ながら日本でも行われている。
 
戦後、日本でパン食がどんどん普及していったのはご存知の通りだ。
 
給食でパンが出る。
 
朝食はパンを食う。
 
いまではそれがごく普通の日本の食事になっている。
 
しかし原料の小麦は、ほとんどがアメリカからの輸入なのである。
 
 
 
パンだけではない。
 
「ビフテキ」「ハンバーガー」「ピザ」
 
いずれも、ものすごい高脂肪で、決して身体にいい食いものではない。
 
 
特に牛肉なんか、これほど環境に悪い食いものはない。
 
牛は肥育に時間がかかり、しかも子供を一頭しか産まない。
 
ブタや鶏に比べたら、環境負荷は莫大にデカイ。
 
しかしそのことを誰も咎めようとはしない。
 
なぜだろうか。
 
なぜなら牛肉は、西洋人がもっとも好むごちそうだからだ。
 
 
 
私たちはアメリカの食料戦略に見事に乗せられている。
 
その結果、日本人の肥満と成人病率はどんどん高くなり、日本の食糧自給率は40%にまで落ち込んでしまった。
 
今回の穀物高騰でよくわかったように、日本はいつ食糧危機が起こってもおかしくない状況だ。
 
 
 
パン食の普及で、私たちの食生活が豊かになったのは間違いないから、一概に悪いことだとは言えないだろう。
 
しかし食文化の西洋化が、やつらの長期的な戦略であることを、私たちは知っておいていいだろう。
 
みんな、お米をもっと食べよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カンボジアとエジプト 2008年10月23日01:36
 
カンボジアとエジプト。
 
一見して、まったく共通点のなさそうな両国である。
 
かたや砂漠のイスラム国家。
 
かたやインドシナのジャングルに埋もれそうな小国だ。
 
 
しかしこの両国、ある一点で非常によく似た特性を持っていることに気がついた。それはなにかというと、
 
「大河(大湖)がもたらす肥沃な土壌」
 
である。
 
もう少し具体的に説明しよう。
 
 
 
「エジプトはナイルの賜」というヘロドトスの言葉があるように、エジプトはナイル川抜きには語れない。
 
周辺が広大かつ不毛な大砂漠であるだけに、ナイル川の持つアドバンテージは計り知れない。
 
おそらくここに古代の大帝国が発生したのも、この川がもたらす富をベドウインに奪われないように、ものすごく早い時期から農民たちが結束した結果だろう。
 
 
トインビーによると、エジプトは、その民族的な最盛期を紀元前数千年前に向かえて、あとはひたすら下り坂なんだそうだ。
 
ずいぶん失礼な分析だが、実際その後のエジプトは征服に次ぐ征服を蒙ってきた。
 
古くはアッシリアが、次にアレキサンダー大王、続いてローマ帝国が、さらにイスラム勢力が、近世ではオスマン帝国が、そして近代ではナポレオンやイギリスが、次々にエジプトを征服する。
 
それに対してエジプト人は反乱を起こすこともなく、唯々諾々と支配者を受け容れてきた。
 
まるで支配者が入れ替わっても、自分たちにはなんの関係もないかのように。
 
 
 
一方のカンボジア。
 
 
カンボジアの歴史も征服に次ぐ征服である。
 
最盛期は十二、三世紀頃のアンコール王朝で、その後、この国は下り坂だ。
 
モンゴルこそ来なかったものの、それに押し出されて南下してきたタイ族とベトナムに、代わり番こに侵略される。
 
そしてフランスの植民地になり、最後にはポルポトの大虐殺という悲劇があった。
 
この間、カンボジア人は頭上の嵐が過ぎ去るのを待つようにして、ひたすら地面にしがみついて生きてきた。
 
まるでエジプトの人々と同じように。
 
 
 
彼らが支配者に抵抗することもなく、地面にしがみついて生きてこられたのは他でもない。
 
エジプトにはナイル川が、カンボジアにはトンレサップ湖があったからである。
 
これらの無限の富を生み出す至宝があったればこそ、彼らはどんな民族的苦難にも耐え忍ぶことができたのである。
 
 
 
この両国が、同じような被征服の歴史を持つのは、おそらく偶然ではないだろう。
 
彼らは歴史上、必然的に狙われる立場に常にいたからだ。
 
そして人がうらやむ肥沃な土地での暮らしを謳歌して、たいして努力もせずに生きてこられた人々であったことも共通しているのである。
 
大河と大湖が生み出す肥沃な土地にしがみついていれば、どうにかこうにか生きていけるという絶対の自信があればこそ、彼らは支配者の圧政に屈せず、しぶとく生き延びることができたのである。
 
 
エジプトとカンボジアは、その気質と、それをはぐくんだ地理的条件が、非常によく似ているのである。
 
……という単なる思いつきの比較文化論でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サンゲリア 2008年10月22日01:12
 
十数年ぶりに観た「サンゲリア」。
 
ゾンビファンなら誰でも知っている古典の名作だ。
 
やっぱ、いいねえ。
 
シーツにくるまれた緩慢なゾンビ。
 
最高だね。
 
 
 
そういう話はいいとして、今回じっくり観てみて、興味深いことがいくつかあったので、備忘録代わりに書き出してみたい。
 
 
以下、ストーリーに触れますので、これから観る方はご遠慮下さい。
 
 
 
島を訪れた四人が、メナード医師の自宅でゾンビに食われる奥さんを目撃して脱出する途中、たまたま休憩したのは、400年前のスペインの征服者たちの墓地だった。
 
次々に蘇ってくるゾンビのおぞましさは、ご存知の通りだ。
 
 
ここでひとつギモンが起こる。
 
 
なぜスペイン人の墓なんだろう。
 
地元民の墓でもいいじゃないか。
 
そこに制作者の悪意を読み取るのは、深読みしすぎだろうか。
 
 
スペインはカリブの島々の原住民を大虐殺した張本人だ。
 
そいつらが、ブードウーの呪いで、おぞましい姿になって蘇る。
 
それはある意味で、非道な征服者に対する罰ではないか。
 
わざわざ400年前の征服者をゾンビに貶めるところに、制作者のスペインに対する、ある種の悪意を、私は感じた。
 
 
 
もうひとつ気づいたこと。
 
全編を通して、ゾンビ化するのは、ほとんどすべて原住民なのだ。
 
西洋人で「おぞましいタイプ」のゾンビになるのは、「島の唯一の白人だ」とメナード医師がいっていた中年男ひとりだけ。
 
メナード医師も、その奥さんも、ラテン系白人の看護婦も、同じくゾンビに食われたのに、なぜかゾンビになって復活しないのだ。
 
四人組のツレの女性は、ゾンビになっても美貌を保っていた。
 
 
醜いゾンビに成り下がるのは、すべて原住民の黒人たちなのだ。
 
これはどういう制作者の意図の表れなんだろうか。
 
それとも偶然だろうか……?
 
 
 
ちなみに裏話として、ゾンビ役の男性は主に7人兄弟のイタリア人だったそうで、だからよく見ると、ゾンビは白人が多い。
 
まあそれは低予算映画ということで納得できるわけだが。
 
 
 
 
今回借りたのは「25周年記念版」で、音声を変えると主演俳優のインタビューを聞きながら鑑賞できる。
 
そこで、このイギリス人俳優が変なことを言っていた。
 
この俳優はその後、三作のゾンビ映画に出演したそうだが、そのひとつが、予算節約のために、ゾンビ役がベトナム人だったそうだ。
 
 
「ベトナム人は菜食主義者でね、撮影で肝臓を食べたら、あとで具合が悪くなったそうだよ」
 
 
この人はベトナム人とインド人を間違えているのではないだろうか。
 
ベトナム人にも菜食主義者はいるんだろうが、多くの人は肉も魚もよく食べる。
 
要するに「あっちの方の連中はベジタリアンだ」という先入観が、この人にはあるんだろう。
 
一般の西洋人の、アジアに対する認識なんていうのは、その程度のものでしかないんだなあと、改めて思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サイテーの宗主国ポルトガル 2008年10月21日00:20
 
最近気づいたんですが、高山正之氏の手による週刊新潮のコラム「変見自在」は、私がここの日記で書いている主旨と非常に近いことを、つい最近知りました。
 
単行本もいくつか出ているそうなので、近々買ってみようと思っています。
 
 
それで、先週号の東チモールについての話はこんな感じだった。
 
 
「宗主国ポルトガルは、原住民の反乱を恐れて道らしい道も作らず、まして島民のための病院も学校も何も作らなかった。
首都ディリにさえ商店はなかった。島民はニッパヤシで葺いた、家具もない粗末な家に住み、階下に豚を飼っていた。(中略)彼らの財産はその豚と土器と火打ち石だった」
 
 
イギリスやフランスは、たとえそれが上意下達の一方的な、そして独善的な政策だったとしても、鉄道を敷いて、病院を建て、学校教育を普及させた。
 
しかしポルトガルはそれすらしない。
 
土民に学問は必要なく、搾取するだけでいいと考えていたようだ。
 
そのやり方は、16世紀以降の南米で、インディオや黒人に対して行われてきた奴隷に対する扱いと、たいして変わらない。
 
 
そしてそういう、ある意味で稚拙な搾取形態は、当然ながら非常に効率が悪く、いつの間にか産業革命を終えたイギリスやフランスなどに追い抜かれてしまう。
 
 
ポルトガルは歴史上イギリスとの関係が非常に深い。
 
ポルトガルのワイナリーの経営の多くがイギリス資本なんだそうだが、ポルトガルはイギリスに莫大な借金をしていて、その返済に、せっかくの宝の山であるブラジルの「アガリ」を、ほとんどイギリスに持っていかれてしまったという。
 
要するにポルトガルは、イギリスの属国のような位置にあったと言えるだろう。
 
そしてその関係は、実は今でもたいして変わっていないのではないかと私は思う。
 
 
いずれにしても稚拙な植民地経営を、しかもけっこう最近までアフリカで続けていたポルトガルも、ついに戦費の増大と治安の悪化に耐えきれずに放棄してしまった。
 
 
ポルトガルが支配していた、アンゴラとモザンビークは、アフリカ諸国でも貧困の度合いが著しい国である。
 
それはついこの間まで内戦が続いていたせいもあるだろうが、ポルトガルの搾取が、どこの国よりも苛烈であったことにもよるのではないだろうか。
 
道路も学校も病院も作らず、ゴムのプランテーションで、無学の黒人をこき使って「アガリ」をせしめ続けた、ポルトガル人の「旦那」が、植民地の放棄と同時に、無一文になって一斉に祖国に帰還し、その多くがホームレスになったそうだ。
 
私がこの国を訪れたときにも、公園にたくさんの中年の男達がたむろしていて、私たちが通りかかると、「おい! 中国人!」という差別的な声がかかった。
 
 
彼らは被害者であり、加害者である。
 
しかし黒人は被害者でしかない。
 
 
ポルトガル人は、スペイン人にはない哀愁が感じられて、私は好きなんだが、その歴史を見ると、これほどアクドイことをした国もないよな、と思う。
 
 
この国の人々は、大航海時代の幕開けとなったエンリケ航海王子の大事業を心から誇りにしている。
 
しかしそれがインディオや黒人たちの暗黒時代の始まりであったことに、どれほどの人が思いを寄せているのか、はなはだギモンに思えてくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
世界同時食糧危機 2008年10月20日00:38
 
この間から2回連続のNスペの特集。
 
この日記で何回か書いたことと、ほとんど同じ内容で、というよりも、同じ内容になるに決まっているんだけど、アメリカの横暴を指摘する内容だった。
 
世界の穀物はアメリカが握っており、穀物相場を釣り上げて大儲けをしたのはアメリカの農民なのであった。
 
その一方で、エルサルバドルでは穀物が不足して、飢餓状態に陥っている。
 
世界中の貧乏人から食いものを取り上げて、アメリカだけが肥え太っているのが、現在の状況である。
 
 
 
アメリカという国は本当にロクでもない国だ。
 
 
というのは、みんな同意見だろう。
 
 
 
しかしこの国の外交戦略というのは、まったく侮れない。
 
農業政策が、戦後間もなくから、すでに国家戦略に位置づけられていたという。
 
アメリカは多額の補助金で、農家を手厚く保護し続けた。
 
それはこの国がそれだけの余裕があるからできるのであって、自動車を売るのに躍起になって、農業を切り売りするしかなかった日本とは事情がまったく違う。
 
それだけ見てみても、アメリカという国には、日本はまったく勝ち目がないことがわかる。
 
 
 
国家の外交戦略の基本は安全保障にある。
 
だから日本が誰になんと言われようと、欧米のマスコミに「首相の顔がない」とか「存在感がない」とか悪口を書かれようと、アメリカの金魚の糞となって必死にくっついてきたのも、それが日本の安全保障に叶っていたからに他ならない。
 
その状況はこれからもずっと変わらないだろう。
 
 
ハンチントンという学者は、最終的に西洋価値観と東洋価値観が衝突し、戦争になると予言したが、この人によれば、日本は西洋側に加担するそうだ。
 
 
日本は最後までアメリカの金魚の糞なのである。
 
 
 
アメリカがどんな横暴を世界中でしようとも、日本はそれに反対を言うことはできない。
 
なぜなら日本はアメリカと一蓮托生なのだから。
 
アメリカに食いたくもない牛肉とトウモロコシ飼料を売りつけられても、喜んで買うしかない。
 
その結果、成人病が増えても、誰も文句を言えない。
 
 
番組では、日本でもコメが見直されていて、飼料用にコメを増産すれば、輸入飼料分くらいラクにまかなえるという。
 
しかしそう簡単にはいかないことは、ちょっと考えればわかることだ。
 
だって日本は、自動車を売るために、イヤでも農産物を輸入しなければならないからだ。
 
 
結局日本の農家は虐げられ続け、日本は穀物をアメリカに頼り続け、首根っこを押さえられ続けるのである。
 
 
それが日本の置かれた、悲しい現実なのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤痢たらい回し 2008年10月18日00:16
 
カンボジアで同行したカメラマン阪口が赤痢に感染して、熱と腹痛で一日入院した。
 
その病院の入院費が異常に高額でびっくりしたのだが、そのことはまた今度、書こうと思う。
 
 
 
私の方は、同じメシを食っていたにもかかわらず、まったく元気で帰国した。
 
下痢もしてなかったので、検疫も素通りした。
 
しかしその日の午後から下痢が始まり、下腹部もなんとなく張っている。
 
 
 
赤痢なんて病気は、伝染病の中でも軽い方で、放っておいても自然に治ってしまう軽い病気である。
 
 
しかし私は左手でお尻を洗う生活をしているのである。
 
 
だから手には必ず赤痢菌が付着してしまう。
 
よく手を洗ったとしても、知らぬ間に感染源になってしまう可能性もある。
 
近所には子供もじいさんばあさんも多い。
 
もし感染が広まり、しかもその発生源が私だということがバレたら、二度とこの町には住めなくなるだろう。
 
 
 
ということで心配なので本日、近所の病院に行ってみることにした。
 
平日の小さな病院なので、地元のおじいちゃん、おばあちゃんで混雑していた。
 
若いモンは私くらいのモノだ。
 
見るからに健康そうな私を怪訝そうに見やる受付の看護婦に、私は小声で言った。
 
「あのー、赤痢に感染したかもしれないんですけど」
 
その瞬間、看護婦の表情が凍りつき、まるで死に神にでも出会ったかのような顔で、私を見返した。
 
「ちょ、ちょ、ちょっと待っていてください!」
 
そして一歩足を踏み出したかと思うと、思い出したように振り返って叫んだ!
 
「あ! 後ろの待合室に回ってください!」
 
看護婦はあたふたと駆けていった。
 
診療所の裏側の、誰もいない薄暗い待合室のベンチに座って待っていると、診察室から看護婦と医者らしい人のぼそぼそ相談する声が聞こえてきた。
 
そして困惑した顔の看護婦さんが戻ってきた。
 
「あのですね、うちではちょっと対応しきれないので、総合病院に行ってもらった方がいいと思うんですよね」
 
看護婦の顔には、「謝罪」と同時に、明らかに「迷惑」という文字が浮かんでいた。
 
 
診察室からマスクにゴム手袋までした医者が出てきた。
 
そしてできるだけ私に近づかないという姿勢を鮮明にしながら、早口にしゃべり出した。
 
「うちでは赤痢の対応はできないんですよ。いま院長にも確認したんですけど。赤痢というと、まず隔離病棟に入院ということになりますから……」
 
 
 
実は私は、診察を受ける前に、ここの病院に電話していた。
 
それで赤痢の検査を受けたい旨を伝えると、
 
「一週間ほどかかるが検査は可能だ」
 
という返事だった。
 
 
おそらく診察ができないわけではないのだろう。
 
どちらかといえば、「赤痢患者がいる」ということが知れ渡ると、他の患者が離れてしまう、そのことを恐れているのに違いない。
 
 
まあその気持ちはわからなくもない。
 
赤痢といえば、一昔前まではコレラと並んで、重大な伝染病だったんだから。
 
 
しかし今では世界的に、赤痢菌自体が軽症化して、法定伝染病の中でも、「O157」なんかよりもずっと軽い扱いである。
 
この医者はそのことを知らないらしい。
 
田舎で町医者をしていれば、伝染病の知識なんか必要ないのかもしれないが、このアワテぶりは失笑モノだ。
 
 
 
ともあれ診察してくれないなら仕方がない。
 
 
いったん家に戻って、わりと大きな私立病院に電話して事情を説明した。
 
受付の女性は何度も保留を繰り返して医者らしい人物を相談していたが、最終的な返答は以下のようなモノだった。
 
「まず保健所に電話して、事情を説明して相談してみてください」
 
やはりここの病院も「診察拒否」なのであった。
 
 
 
仕方ないので保健所に電話した。
 
担当の女性医師は、さすが役所の専門家だけに、かなり丁寧な対応で、病状や感染の経緯などをくわしく聞いた上で、
 
「保健所では検査はできますが、診察や投薬はできないので、市立総合病院をご紹介しますから、そちらに行って医師の診察を受けて下さい」
 
とのことだった。そして、
 
「トイレのあとはよく手を洗って下さい」
 
と当たり前のことを付け加えて電話が切れた。
 
 
 
市立総合病院は、このあたりでは場違いなほど巨大な建物で、勤務医は100人を超えるという大病院であった。
 
初診の受付時間は、とっくに終了してたが、私が、
 
「保健所の紹介で……」
 
まで言うと、看護婦たちは、
 
「ああ。この人が。赤痢の」
 
と、なんだか呆れたような顔をして私を見返した。
 
そこには赤痢などという、うんこから感染する不潔な伝染病の保菌者への、一種の差別的な視線があった。
 
 
それでも簡単な問診を受けて、特別に医師の診察を受けることができた。
 
その女医も「赤痢の患者など初めてだ」と二度も言った。
 
 
女医さんは検便のセットを私に手渡しながら、
 
 
「これにこのへんまで「して」、こっちのこの綿棒の先っぽに便をつけて、こっちの試験管の奥に培養液がついてますから、そこになすりつけて下さい。トイレはそっちです」
 
 
と事務的に指示して、診察は終了した。
 
「赤痢だった場合、やはり家の中は消毒されるのか」
 
という私の質問にも、
 
「そういうことになりますね」
 
という返答だった。
 
 
トイレに行くと奇跡的に、うんこが出たので、それを容器に受け止め、綿棒の先っぽをくっつけ、さらにそれを培養試験管になすりつけるなどという、普段やったことにない一連の作業をこなし、それらの「使用済み検便グッズ」を、かなり恥辱を感じながらも看護婦さんに手渡して、無事に解放された時には、私はどっと疲れていた。
 
抗生物質を含めた診察料は4200円だった。
 
 
これらの苦労の結果が判明するのは来週の水曜日である。
 
赤痢だった場合、しばらく入院ということになるかもしれないが、久しぶりにゆっくり読書ができるかと思うと、それも悪くないよな、と実は思っている。
 
 
 
今回の騒動で思い知ったことは以下の2つだ。
 
 
・どうせ検便を受けるなら空港でやる方が数段ラクだ。
 
・医者というのは所詮、患者の健康なんかよりも営利の方が重要なんだよなという当たり前の事実。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かわいそうなカンボジア 2008年10月17日12:10
 
歴史上この国は、韓国やポーランドと同じく、亡国の憂き目に何度も遭っている、かわいそうな国である。
 
 
世界地図を広げてもらえばわかるが、カンボジアの海岸線は著しく少ない。
 
西からタイが、東からベトナムが浸食して、まるで巾着袋のようにすぼまっていることがわかる。
 
この国境線が、そのままインドシナの力関係をよく著しているのである。
 
 
 
カンボジアの最盛期は1000年〜1300年頃のアンコール王朝である。
 
超有名なアンコールワットが建設されたのもこの頃だが、その後国運は下り坂になる。
 
西からシャム(タイ)が攻め込んでくる。
 
東からは越南(ベトナム)である。
 
 
 
カンボジアの人口はプノンペン周辺に、その三分の二が集中しているそうだ。
 
プノンペンは水上交通の要衝だが、土地は地味が悪く、作物の栽培には適していないという。
 
なぜここに、いまでも多くのカンボジア人が集中しているのか。
 
それは西のシェムリアップがタイに奪われ、南東部のメコンデルタをベトナムに奪われ、逃げ帰ってきたカンボジア人が、この土地に集住した結果なのである。
 
 
「十九世紀後半、この地を訪れた西欧の人々が目の当たりにしたのは、無気力なカンボジア人、敗北した民族、征服され、森林に逃げ込んだ民族であったという」(「カンボジア」ジャン・デルヴェール 石澤良昭・中島節子訳 白水社)
 
 
 
 
それに加えて日中戦争以降、大量の華僑が流れてきて住み始めた。
 
現在のカンボジア経済は華僑が握っているという。
 
カンボジアの経済構造を簡単にいえば、
 
 
大資本=華僑
 
小売業=ベトナム人
 
農家=カンボジア人
 
 
となる。
 
カンボジアにはシンガポール系の資本がかなり入っているそうで、最近では韓国系資本も入っている。
 
 
その一方で、カンボジア人の9割は農業を営んでいる。
 
雑貨屋とかレストランを営んでいるのは、ほとんどすべて華僑かベトナム人である。
 
 
 
カンボジアを植民地としたフランスは、華僑とベトナム人を優遇した。
 
特にベトナム人を下級官吏として多く採用したので、カンボジア人はベトナム人を憎んだという。
 
原住民の不満を、フランスではなくベトナムに向かわせる「分割統治」の基本であった。
 
 
というわけで今回の銃撃戦だが、世界遺産という巨大な利権が絡んでいるだけに、両国とも一歩も譲れないわけだが、上述のような歴史を鑑みると、やはりカンボジアを支持したい。
 
残念ながら、この国には、アンコール王朝の遺産しかないのだから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原油高騰、穀物高騰の本当の犯人は誰だろうか? 2008年10月02日19:40
 
アメリカという国は、ヨーロッパで発生した資本主義、自由主義という思想を、拡大再生産した国だと言われる。
 
ホッブスやロックが考えた基本的人権というものを、ジェファーソンがアメリカ独立宣言で集大成した。
 
アメリカ資本主義は、西洋個人主義が極限まで肥大した結果の、完全完成型なのである。
 
 
そこでは欧州旧世界のシガラミがいっさいなく、階級制度は否定され、ヨーロッパの食い詰め者がわんさか新大陸を目指した。
 
それは当時のイギリス植民地だったアイルランドから大量の移民がアメリカを目指したことからもわかるだろう。
 
ヨーロッパの貴族制度は、この国には根付かなかった。
 
 
それが機会均等と自由競争を呼び起こし、この国の活力につながり、19世紀後半からの大発展につながったことは言うなでもない。
 
「アメリカンドリーム」という言葉は、要するにイギリスのような旧世界ではチャンスに恵まれなかった下層の人々が、シガラミのないアメリカに夢を託した時代の言葉なのである。
 
 
 
しかし現在、アメリカでは過剰な自由競争が行われるようになってしまった。
 
能力のある人は、黒人だろうが中国人だろうが、アメフトでもITでも、成功するチャンスはある。
 
「ガラスの天井」という言葉は確かにあるけれども、ある程度は這い上がることが許される。
 
 
 
しかし一方で、ハンデを背負っている人に対しては、なんの保障もない。
 
儲けるヤツは儲けさせて、儲けないヤツはほったらかし、というのがこの国のやり方なのだ。
 
 
「自由主義」という言葉は、非常に耳ざわりのいい言葉だが、極論すれば強者を優遇して弱者を排除する、非常に冷酷な社会制度なのである。
 
 
 
 
この考え方は、この間までの原油高騰、穀物高騰での米国政府の態度でも明確だった。
 
 
原油価格が異常に上昇したのは、産油国が増産を渋ったことだけが原因ではない。
 
これらの先物取引に、投資家のカネがごっそりと注ぎ込まれたからだ。
 
そしてアメリカ政府は、それを食い止めようとはしなかった。
 
これらの投資家が儲ければ儲けるだけ、ごっそり税金が入るからだ。
 
原油暴騰で儲けたのはアラブの王族と投資家だけではない。
 
アメリカ自体も儲けたのである。
 
 
 
穀物高騰でも同じことがいえるだろう。
 
バイオ燃料がエコロジーだと言って、トウモロコシを燃料に回し、穀物相場が釣り上がり、途上国でパンが暴騰して、世界中で暴動が起こっても、アメリカは見て見ぬふりをした。
 
そしてインドやタイのような穀物生産国が、自国の穀物を売り渋るからだと主張して、バイオ燃料への転化ををやめようとはしなかった。
 
 
なぜか。
 
なぜなら、アメリカが世界最大の穀物生産国だからである。
 
アメリカは莫大な補助金を農家に支払って、自国の農業を保護している。
 
穀物相場が上昇すれば、アメリカは儲かるのである。
 
 
 
そういう風に考えると、今回の原油高騰、穀物高騰が、
 
「誰かに周到に仕組まれた計画的な犯行だったのではないか」
 
というギモンが起こってきはしないだろうか。
 
そしてその尻馬に乗って儲けたゴールドマンサックスのような詐欺師同然の連中を、米国政府は、またしても税金で助けようとしている。
 
 
 
 
アメリカも、これら投資家も、法律に触れるような犯罪は犯していないかもしれない。
 
彼らは合法である。
 
 
しかし決して正義ではない。
 
 
 
そして最後に、富裕国アメリカが世界中の貧乏な市民から小銭をせびり取るような、今回の原油急騰、穀物急騰という事件を、誰ひとりとして非難しない、というよりも「できない」のは、世界がアメリカを中心とした西洋人によって、完全に牛耳られているからに他ならない。
 
 
私たちには、彼らの不正を告発する正義さえも許されてはいないのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカ金融業界トップの年俸 2008年10月02日00:25
 
この間の読売新聞に、アメリカ金融業界トップの年俸が出ていて、あまりの巨額にびっくり仰天した。
 
日本の社長なんかとは、それはもうケタが違う金額なのだ。
 
いくつか挙げてみよう。
 
 
 
ゴールドマンサックスCEO 74億円
 
リーマンブラザーズCEO  36億円
 
JPモルガンCEO     29億円
 
メリルリンチCEO     18億円
 
バンクオブアメリカCEO  17億円
 
 
 
 
これは生涯賃金ではない。年棒である。
 
 
ネット情報によれば、トヨタの役員報酬は、1人あたり1億2200万円なんだそうだ。
 
天下のトヨタでもそんなものだ。
 
GMの社長も年俸1億円らしい。
 
そう考えると、こいつらの給料が信じられないほど高いことがわかる。
 
 
 
なんでこんなにも年棒が高いのか?
 
それだけ会社が儲かっているからである。
 
なんでこれらの会社は儲かったのか?
 
それは昨今の石油高騰、穀物高騰が象徴するように、先物取引に大金を突っ込んで値段を釣り上げ、ごっそりと差益を稼いだからに他ならない。
 
私たち世界中の一般市民ひとりひとりから、少しずつ、ほとんど詐欺のようにカネをかすめ取って、彼らは肥え太ったと言っても過言ではないだろう。
 
こいつらが荒稼ぎしたツケに、70兆円というアメリカ市民の血税が使われることに、アメリカ議会が大反対したのも、まったく正当なのである。
 
 
 
こいつらからすれば、サブプライムローンでウサギ小屋みたいな家を買う貧乏人なんて、ゴミクズのようなものなんだろう。
 
アメリカは私たち日本人が想像するよりも、もっともっとすごい格差社会なのである。
 
 
 
 
欧米社会は競争社会だ。
 
だから才能のある者は、どんどん出世していくが、一方で負け組の連中はどこまでも落ちていく。
 
以前、アメリカの医療費がとんでもなく高いことを書いたけれど、生きる能力のない者は、アメリカでは当然のように敗者なのである。
 
西洋人が作りだした社会制度が、いかに不完全なものかがわかる。
 
 
 
こういう社会が幸せな社会かといえば、答えは当然ノーだ。
 
しかし恐ろしいことに、その異常な格差社会に、日本が徐々に近づいていっている。
 
 
欧米に追随して民主主義、資本主義の正義を信じてきた私たちが、最終的に辿り着くのは、大企業の社長の年棒が何十億円で、肉体労働者の年収が200万円そこそこの、恐ろしく不平等な社会なのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海外旅行で経験する「人種差別」 2008年10月01日04:47
 
今日、以下のHPを見つけたので紹介しようと思う。
 
http://reekan-j.hp.infoseek.co.jp/swetoho12.html
 
 
著者はスウエーデン在住の日本人女性。
 
六本木でスウエーデン女性が日本人相手に売春しているという報道を見てゲキコウした友人たちに対して、著者は以下のように反論した。(抜粋します)
 
 
「わたしゃ慣れっこだったから、みんなのように取り乱すことなく、冷静でかつイヤミたっぷりに反撃したよ。“じゃあさ、みんなに聞くけど、みんなロンドンやパリで売春するスウェ―デン人について、どう思う?ストックホルムの売春婦はどう?みんな売春婦に対して軽蔑するか、さもなければ無関心でしょ?ところが、体を売る相手が日本人やアラブ人の男だったら なぜ急に態度が一変してスウェ― デン人売春婦に同情するの?”
一同、気まずい顔をして黙り込む。“普段内緒にしていた あなたたちスウェ―デン人の潜在意識がここで顔を出していると私は感じるよ。つまり、あなたたちはスウェ―デン人で白人、黄色ヤロ―(=gulingar)やアラブヤロ―(=blattar)よりも優位な人種だと信じている。それなのに、下等な人種に仕えるスウェ―デン人の存在が許せない、黄色ヤロ―のクセに高慢だって思っているんでしょ? 私はあなたたちこそ、立派な人種差別主義者だと言いきれるわね。どう考えているのか、私に説明しなくてもいいのよ、ただ、あなたたちの心に尋ねてみて、あなたたちは私達黄色ヤロ―を低く見ているから、そこまでヒステリックに反応するんでしょ?”」(詳しくはHPを参照)
 
 
この後、友人たちは、目に涙を浮かべて謝罪したそうだ。
 
 
多くの白人の潜在意識に、「黄色ヤロー」や「アラブヤロー」に対する侮蔑が潜んでいることはよくわかる。
 
 
私もイスラエルで似たような経験をしたことがある。
 
モロッコに行く航空券を買うために、ロンプラに載っている旅行代理店に行ってみた。
 
ドアを開けると、店内のすべての白人の目が、私と嫁さんに向いた。
 
私は気まずい気分ながら、待合いのイスに腰かけた。
 
ほどなくしてカウンターの女性に呼ばれた。
 
モロッコに行く航空券を探している旨を伝えると、女性は、かなりおざなりな態度で応対した。
 
「日本人はビザはいるんじゃないの? 調べてからもう一回来なさいよ」(オマエのコンピュータですぐ調べられるだろ)
 
「モロッコは往復チケットでないと入国できないわよ」(他の旅行代理店では片道で発券してくれた)
 
「一番安いのはエールフランスで、往復で650ドル(確か)です。それ以上安いチケットはありません」 (トルコ航空で500ドルだった)
 
 
最初から私たちを相手にしていない態度なのである。
 
我々が思案している途中でも、この女は別の仕事を始めてしまった。
 
私は一応礼を言って席を立った。
 
彼女はにこりともせずに「どういたしまして」と言った。
 
 
 
こういうイスラエル人の態度には、なんとなく心当たりがあった。
 
エルサレムのホロコースト博物館に行ったとき、ナッパ服を着て歩いている出稼ぎ中国人の掃除夫を見かけたのである。
 
イスラエルでは中国人は、そんなような位置づけでしかない。
 
もっと広く言うと、日本人も含めた東洋人は、肉体労働者であって、白人系イスラエル人からすると下等な連中でしかない。
 
 
私たちがハナから相手にされなかったのも、出稼ぎ東洋人に対する侮蔑があったからに他ならない。
 
 
もちろんそういうレイシストなイスラエル人だけではない。
 
空港で応対した女性は、最後まで私たちを「Sir」と呼んでいたし、宿のスタッフも東洋人を差別することはいっさいなかった。
 
しかしレイシストは存在する。
 
 
 
世界中の西洋人の多くは、日本のことなんて知りもしないし、知ろうとも思っていない。
 
日本になんか、まるで興味がない。
 
彼らの目はヨーロッパとアメリカに向いており、それ以外の世界、アジアやアフリカや中近東は、最初から相手にしてない。
 
残念なことだが、それが現実である。
 
そして上記のHPにもあるように、ときおり西洋のメディアがアジアや日本を取り上げるのは、ゲイシャだとか、男尊女卑とか、AIDSとか、貧困とかでしかない。
 
もともと興味がない地域なんだから、普通のニュースを報道しても、視聴率は稼げないんだろう。
 
 
 
おそらく通常のパックツアーに参加して、みんなで一緒に行動している限り、こういう差別を経験することはないだろう。
 
高級ホテルや高級レストランの従業員は、そういう教育を十分に受けているからだ。
 
 
しかし一歩、一般の人々が利用するレストランにでも行ってみれば、東洋人であることが、いかに異質かを肌で感じるに違いない。
 
 
日本人は土木作業員か、中華料理店の従業員でしかない。
 
私たちは、そういう現実をもっと知っておいてもいいだろうと思う。
 
 
中国人蔑視についての省察は、
 
 
をご覧ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パキ、米軍交戦はヤラセではないか 2008年09月29日22:56
 
パキスタン領内の、いわゆる「部族地域(トライバルエリア)」は、ビンラディンの潜伏地域で、アルカイダの根拠地となっているそうだ。
 
最近、この地域に米軍が単独で、しかもパキ政府に無許可で攻撃を仕掛けて問題になっている。
 
先日も米軍ヘリにパキ軍が発砲したといって問題になった。
 
 
しかしこの事件、よく考えてみると、非常にヤラセクサイ。
 
 
パキとはいっても同盟国なんだから、事前通告なしで勝手に攻め込むというのは、どうも考えにくいではないか。
 
 
 
最近読了した「日本外交 現場からの証言」(孫崎享 中公新書)は、きれい事では済まされない外交のなんたるかを説いた、かなり面白い本である。
 
 
たとえば日露戦争を仕掛けたのは、実はドイツだったという。
 
ドイツは長年、ロシアの脅威が深刻であった。
 
そしてもう片方の隣国フランスとも敵対している。
 
ロシアの脅威を除くには、極東の日本と戦わせればいいが、日本が単独で開戦することはあり得ない。
 
そこでイギリスと手を結ばせた。
 
日英同盟は成立し、日本はロシアと戦争し、ロシアは敗戦と革命でメチャクチャになり、ドイツは心おきなくフランスと戦争することができたわけだ。
 
 
また太平洋戦争を仕掛けたのは、イギリスのチャーチルだったという。
 
チャーチルはドイツの度重なる空襲で、いつドイツに降伏してもおかしくなかった。
 
なんとかアメリカに参戦を決意させたい。
 
 
しかしアメリカは、開戦には消極的だった。
 
当時イギリスは負けこんでいたし、ドイツに投資しているアメリカ企業がたくさんあったので、財界はドイツに好意的だった。
 
そこでチャーチルは、あらゆるロビー活動で、親ドイツ派を政治の中枢から排除した。
 
一方でアメリカ政府を動かして、日本に対する石油禁輸措置を実施させた。
 
これによって日本は、南方の油田を確保する必要性から、戦争に大きく傾いていった。
 
 
その結果は周知の通りで、アメリカが参戦して、イギリスは危機を脱したのである。
 
 
要するに日本は、イギリスの危機を救うために戦争をやらされたのだ。
 
 
 
史実というのは、「それによって誰が得をしたか」を見ていくことで、ウラに隠された事実が見えてくる。
 
 
今回の「パキ、米軍交戦」を考えてみよう。
 
米軍にとっては、それまでパキ政府が難色を示していた部族地域を攻撃して、テロリストの基地を破壊することができる。
 
一方パキ政府は、米軍の戦争行動を全面的に容認すれば、国民からスカンを食ってしまう。
 
ただでさえ不人気な政府なので、これ以上国民の支持を落としたくない。
 
しかしテロリストをほったらかしにしておくと、アメリカから文句が来て、大事な援助が減らされてしまいかねない。
 
 
そこで米軍が単独攻撃をして、あとでパキ政府が抗議するというシナリオを作った。
 
そこに両者の「落としどころ」があったのではないだろうか。
 
 
 
この本を読んでいると、外交というのは、本当に欺瞞の世界であることがわかる。
 
そして経済大国日本の立場が、世界でちっとも評価されないのは、結局は世界が西洋を中心に回転しており、その中で日本が代表するアジアの価値観は、亜流であり、異端であるからに他ならないのだということを思い知らされるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
AIDSアメリカ謀略説 2008年09月28日22:52
 
AIDSやエボラ出血熱は、アメリカの細菌兵器が漏洩したことによって、世界中に広まったのだ。
 
というウワサは、一度は聞いたことがあるだろう。
 
 
もっともらしい説である。
 
アメリカ国防省なら、ウラでなにをやっていてもおかしくない、というコンセンサスが、私たちの中には定着しているからだ。
 
 
しかし前に読んだ、「現代の感染症」(相川正道 長倉貢一 岩波新書)によると、なんと100年前に、すでにエイズらしい症状の患者が確認されているそうだ。
 
 
「エイズ関連症であるカポシ肉腫を報告した、オーストリア人医師カポシは、一八六八年から一八七一年までに、五人のカポシ肉腫の患者を診察し、報告しています。この一世紀前の患者は、あらゆる点でエイズだったように思われます。内臓にはカポシ肉腫が広がり、肺には正体不明の病変(おそらくカリニ肺炎)がありました。また、当時のウイーンは同性愛の中心地として有名でした」
 
 
 
さらに「現代ウイルス事情」(畑中正一 岩波新書)には、次のような仰天事実が報告されている。
 
 
「第一次世界大戦が終わった頃から欧米の医学界では若い男性の睾丸をを老人に移植すると若返ると真剣に考えられていた時代があった。このためたくさんの高齢者にこうした手術が施された記録が残っているが、なにしろ不老長寿を求める人数にくらべてドナーの数には限りがある。そこで外科医は類人猿やサルの睾丸を使用し始めた。特にチンパンジーの睾丸が愛用されたのは人間に近いことの他に、睾丸がことのほか巨大で印象深いものがあったからに違いない。チンパンジーから一物を取り出し、スライスして男性の下腹部や陰嚢に移植したのである」
 
 
このような手術によって、睾丸と一緒にエイズウイルスが人間に入り込む機会を与えたことは十分に考えられるという。
 
 
要するに自業自得だったわけだが、なんともアホらしい。
 
 
 
 
ところで狂牛病については、こんな報告があったので、ついでに紹介しよう。
 
狂牛病は、現在では羊の内臓などを牛に食わせたことが原因といわれているが、
 
 
「ガジュセックは、すべての感染性海綿状脳症(狂牛病系の病気)には、スクレイピー(ヒツジ)が関与する、との説を提唱しています。その証拠に、イスラエル在住のリビア系ユダヤ人ではヤコブ病の発症率は他のイラク系や中央ヨーロッパ系ユダヤ人にくらべ、異常に高いことをあげています。リビア系ユダヤ人はヒツジの眼球を好んで食べる習慣があり、スクレイピーに感染したヒツジの眼球を食べた結果であろうと考えたのです」(「現代の感染症」)
 
 
この説には異論もあるそうだが、もっともらしい説ではある。
 
 
眼球というのは解剖学的には脳の一部とみなされるそうだ。
 
パプアニューギニアには「クル」という奇病があり、頬が釣り上がったまま、まるで笑ったような表情で死んでしまうという。
 
この病気を発症する部族には、戦闘で殺した兵士の脳みそを生のまま食べる習慣があったそうで、その関連が指摘されている。
 
 
 
エボラ出血熱もそうだけれど、人間あるいは自然界のタブーが破られたところに根本的な原因があることは興味深い。
 
 
きっと神様が、人間の慢心を戒めているのに違いない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北欧は本当によくできた国なのか? 2008年09月24日20:21
 
「あの北欧でも、こんな凶悪事件が起きるのか」
 
と意外に思う人が多いと思う。
 
北欧といえば、
 
「世界でもっとも発達した福祉社会を実現した先進国」
 
というイメージが定着してるからだ。
 
 
しかしこのニュースでも指摘されているとおり、フィンランドは世界で3番目に銃の所持が多い国、つまり世界有数の銃社会なのであり、昨年にも似たような事件が起こっている。
 
秋葉事件に匹敵する凶悪事件が2年連続で起こるという異常さは、北欧が、私たちが思っているような理想を実現した先進社会なんかではないことを、明らかにしているだろう。
 
 
 
よく報道されるように、どこかの団体が調査した結果によると、北欧は、
 
「世界でもっとも子育てに適した国だ」
 
とか、
 
「ひとりの落第生も出さない教育制度が行き届いた、スバラシイ国だ」
 
などと世界中で宣伝されるわけである。
 
 
そんなにスバラシイ教育の国で、なぜこんな凶悪事件が、2年も立て続けに起こるわけ?
 
 
この事実は、北欧の諸国が、理想社会でもなんでもない、他の先進国と同じ病気を抱えた普通の国であることを物語っているだろう。
 
 
 
彼らが様々な団体の調査結果を通して、自分たちの高度に発達した福祉社会を自慢したがるのは他でもない。
 
彼らが自分たちの確立した「先進福祉国家」のイメージを躍起になって維持しようとしているからだ。
 
自らのブランド、既得権益を維持するために、どうでもいいような自己満足の社会調査を行って自画自賛し、宣伝して、
 
「さすが、北欧はスバラシイ」
 
という虚像を世界中に配信し続けているだけなのである。
 
 
 
実際、こういうテロ以外の「不可解な凶悪犯罪」は、途上国の方が圧倒的に少ない。
 
銃の所持率世界二位のイエメンに行ったとき、地元の人が言うには、
 
「子供が親を殺すなんて事件は、もう20年くらい起きてないよ」
 
と言っていた。
 
先進国の人々の方が、精神的には、間違いなく病んでいるのである。
 
そしてそれは北欧であっても例外ではない。
 
 
私たちは「北欧」という幻想を、そろそろ捨て去るべきではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリオットホテルに行ったことあります  2008年09月23日12:55
 
イスラマバードのマリオットホテル。
 
泊まったことはないけど、一度行ったことがあります。
 
市内中心部に建つ、パキスタン有数の高級ホテルです。
 
 
ここのホテルは、おそらくイスラマバードで唯一の酒屋を併設しています。
 
イスラマバードでは他に「セレナホテル」でも、ルームサービスで酒の提供があるようです。
 
ロビーには西洋人がたくさんいて、黒塗りベンツがたくさん停まってました。
 
逆にパキ服着た人をひとりも見かけませんでした。
 
庶民からかけ離れた生活をしている一部のセレブ御用達の社交場が、このホテルだったわけです。
 
 
 
よって、このホテルがテロリストに狙われたのは、ある意味で当然とも言えるでしょう。
 
 
 
パキスタンで「合法的」に外国人が酒を飲むためには、「飲酒許可証」を取得することが必要です。
 
我々はこれを取得してマリオットホテルの酒屋でビールを購入いたしました。
 
その詳細については↓
 
http://www.sakaguti.org/honmon%20page/pakistan/rawarpindi/rawarpindi.htm
 
 
 
実物を見ているだけに、あの火災現場の写真は衝撃でした。
 
報道では、「厳重な警備体制を破ってトラックが突入」とかなんとか言われていますが、少なくとも我々が行ったときは、タクシーで車寄せに横付けOKでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ALWAYS 三丁目の夕日2」と「戦友」 2008年09月22日18:16
 
「ALWAYS 三丁目の夕日2」。
 
一作目と同じく、ほのぼのとして心温まる映画だった。
 
 
そのストーリーはともかくとして、興味深いシーンがあった。
 
 
 
父親役の堤真一が、戦友会に顔を出す。
 
そして戦友の後輩を連れて上機嫌で家に帰る。翌日になって、
 
「あれ? あいつはどこに行ったんだ?」
 
妻役の薬師丸ひろ子は、
 
「やあねえ、お父さんったら。昨日はずっとひとりだったじゃないですか」
 
あの後輩は、実は戦死していたのだ。
 
 
 
そのシーンを観ていて、前に硫黄島に行ったときに、同じ遺骨収集ボランティアの学生から聞いた話を思い出した。
 
彼がパラオに収集作業に行ったときのことだ。
 
夜になって、同行していた80過ぎのおじいちゃんが、一升瓶を片手にどこかに出かけようとしていた。
 
「こんな夜中にどこに行くんですか?」
 
「ちょっと戦友に会いに行こうと思ってな」
 
そしておじいちゃんは、深夜のジャングルに消えていった。
 
 
翌朝、おじいちゃんが戻ってきた。
 
「おじいちゃん、戦友に会えましたか?」
 
「おう。会えたよ。久しぶりに一緒に酒を飲んだよ」
 
そこは、おじいちゃんの部隊が全滅した場所だったそうだ。
 
 
 
 
戦友の絆というものは、私たちが想像する以上に強いものらしい。
 
日本兵の多くが玉砕の道を選んだのも、
 
「先に死んだいった戦友に申し訳が立たない」
 
という気持ちが強かったためだ。
 
 
 
戦友の絆の強さはアメリカでも同じことらしい。
 
「イラクで市街戦に参加する米兵の多くは、自分と戦友を守るために戦っているのだ」
 
と、確か読売でインタビューを受けた米軍の高官が話していた。
 
 
ランボー」も、PTSDで自殺してしまった戦友を、知らずに訪ねていったベトナム帰還兵の話だった。
 
 
 
しかし死んだ戦友に対する気持ちには、温度差があるようだ。
 
 
孤立した部隊がさっさと投降するのは当然と考える西洋人が、戦友に殉死するなどという日本の考え方が理解できないのは当然だと思う。
 
「優勝劣敗」の西洋では、おそらく、死んだ戦友は、
 
「生き残る能力に欠けていた者」
 
とみなされ、状況判断を誤った者が死んでしまうのは当然、と考えられるだろう。
 
 
 
しかし日本では、戦争で生きるか死ぬかというのは、かなりの部分が「運に左右される」と考える人が多いのではないだろうか。
 
死んだ戦友と生きている自分は紙一重だ。
 
死ぬのは自分だったかもしれない。
 
だから自分が生きていることに罪の意識を感じてしまう。
 
それが玉砕という結論になってしまうんだろう。
 
 
 
だからといって、多くの命が失われしまうことが、正しいことなのかどうか、私には判断できない。
 
 
しかし少なくとも、日本軍の玉砕は「戦友に殉じる」という崇高な気持ちの現れであることは間違いない。
 
 
そういう日本人の気持ちを理解せずに、「玉砕は野蛮で、犬死にだ」と決めつけてしまう西洋の考え方に、私は彼ら特有の独善性を見るのである。
 
 
 
付記
 
この文章は、前に書いた「硫黄島からの手紙」に関連していますので、そちらもあわせてお読み下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9.11テロの真相 2008年09月19日02:58
 
最近よく話題になっている「9.11テロ」のヤラセ説。
 
アメリカ政府の謀略だとする説が、あっちこっちで指摘されている。
 
 
確かにアメリカという国の歴史を紐解くと、最初に自分とこを攻めさせて、世論を開戦に向かわせるというパターンが非常に多い。
 
 
有名なところでは真珠湾攻撃。
 
日本の開戦を予測していた米国政府が、真珠湾攻撃の情報を黙殺して、開戦に誘い込んだというのは有名な話だ。
 
 
米西戦争。
 
メイン号爆沈事件というのが発端だが、これもスペイン人の仕業と決めつけて世論を煽り、開戦となった。
 
 
南北戦争。
 
リンカーンは、南部に孤立するサムター要塞を、わざと南軍に攻撃させた。これによって北部で「疾風のような愛国心」が巻き起こったという。
 
 
 
以上見てもわかるように、アメリカという国は、わざと自国を攻撃させて世論を開戦に傾けるという手法を過去に何度も使っている。
 
「9.11テロ」でも、テロの情報が事前に入手されていたのを、政府が黙殺した可能性は十分に高い。
 
その結果、中東の石油利権はアメリカの手に渡り、巨大な軍事産業は、ソ連崩壊後も干されずに済んだわけだ。
 
 
 
 
歴史の本を読んでみると、「戦争後の武装解除」が、いかにムズカシイものか、という事実が見えてくる。
 
古いものだと、戦国時代、豊臣秀吉が天下統一してから行った文禄、慶長の役。
 
仕事がなくなったサムライに仕事を与えるのが、その主な理由だった。
 
フランスを統一したナポレオンも、対外戦争を熱心やっている。
 
明治維新後に西郷どんが主張した征韓論も、同じ意味あいで理解できるだろう。
 
 
 
アメリカは大戦後の武装解除をすることなく、軍事力を肥大させ続けて今日に至っている。
 
その結果、世界中で戦争のタネがまかれ、情報操作によって世論は戦争に傾き、大勢の一般市民が死んでいく。
 
アメリカの軍事支出は、世界二位のイギリスの10倍、つまり一ケタ違うそうだ。
 
それほどの武器が、いったいなんのために必要なんだろうか? 
 
というのは素朴なギモンだが、要するに造り続けないと景気が悪くなり、そのためには戦争が必要なんだろう。
 
もうやめてくれーと言いたいですよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サラ・ペイリンとネガティブキャンペーン 2008年09月15日01:02
 
保守党マケインの副大統領候補に推されて、一気に著名人になったこの人。
 
ペイリン人気で、オバマ人気が陰っているそうだ。
 
その意味では、彼女の起用は大成功だったんだろう。
 
 
しかしこの人、私はあんまり好きではない。
 
 
アメリカ人に人気が高いということは、その考え方がきわめてアメリカ人的であることを物語っている。
 
読売新聞によると、この人は、つい最近まで、
 
「地球温暖化は人間が引き起こしたものではない」
 
と主張していたそうだ。
 
この言葉が、現在のアメリカの大量消費文明を代弁する言葉であることは言うまでもない。
 
 
私は10月のアラスカに行ったことがある。
 
すでに雪がちらつく時期だったけれど、住民たちは家の中では余裕で半袖だった。
 
こういう暮らしは、私が育った北海道も同じようなものなので、あまり非難はできないのだが、それにしても今の世の中で誉められる生活ぶりではないことは確かだ。
 
北極の氷が溶けて、多くの島が水没の危機に向かっているのに、「自分たちのせいではない」と平気で言っていられる厚顔さ。
 
 
しかもマケインが地球温暖化対策を政策の柱のひとつにしているので、最近は、温暖化に人間の活動が関係していることを認める発言をしはじめたそうだ。
 
副大統領に推挙されると、簡単に持論を曲げる。
 
読売は、この人の「野心家ぶり」がよく現れている、このエピソードを、若干皮肉っぽく報じている。
 
 
この人、地元ではやり手の市長として有名だったそうだが、一方で政敵を次々に左遷するような強硬な人だったという。
 
実にアメリカ人らしい独善的なやり方である。
 
 
そういう強引なやり方は、大統領選のネガティブキャンペーンでも言えることだ。
 
オバマはマケインについて、
 
「あいつはパソコンができない。電子メールを打ったこともない。時代遅れだ」
 
と言ってこき下ろしているそうだ。
 
日本のじいさん政治家の中で、いったい何人がパソコンできるんだろう?
 
そしてそのことが政治家の資質と、なにか関係があるのか?
 
 
いずれにしても、こういうアメリカの醜い部分が、選挙になると如実に表れてくる。
 
アメリカ流のネガティブキャンペーンは、一度ペプシがCMでやったことがあるけれど、ついに日本では定着しなかった。
 
それはやはり、
 
「相手をこき下ろすことが自分の利益につながる」
 
という発想が日本にはないからだと思う。
 
日本人から見るとあまりに露骨で醜いアメリカ的非難合戦は、毎度のことだけど、見ていてうんざりさせられる。
 
 
どっちが大統領になっても、実はたいして変わらないような気もするけれど、日本の国益を考えれば、マケインの方が断然いいんだろう。
 
個人的には、オバマに勝ってみてほしいんだけど。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アベマリアとコーラン 2008年09月11日23:27
 
アベマリア。
 
教会での聖歌隊の合唱なんかを聞いていると、荘厳なフンイキである。
 
アレを聞いて、
 
「一種異様な旋律だ」
 
とか、
 
「背筋が寒くなる思いがした」
 
などという感想を持つ人は、まずいないだろうと思う。
 
 
 
一方のイスラム教のコーラン。
 
モスクで生のコーランを聞くと、アベマリアと同じように、その旋律の美しさに心を打たれる思いがする。
 
コーランはアラビア語で書かれたもの以外の、あらゆる翻訳は認められないんだそうだ。
 
それはただひとつ、あの美しくも荘厳な旋律によるのだと思う。
 
 
すべてのイスラム教徒は、毎週金曜日の礼拝の時、あのコーランの旋律に引き込まれ、同時に回教徒同士の一体感を体験するのだそうだ。
 
 
 
しかし多くの日本人はコーランを「ブキミだ」と感じているのではないだろうか。
 
ゾンビ映画の「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、ある種の細菌によって(?)死亡した死人がゾンビになって人を襲うという映画なのだが、その冒頭部分に、モスクで集団礼拝するイスラム教徒の姿が、チラッとだけ登場する。
 
イスラム教徒によるバイオテロの恐怖を臭わせる制作者の意図が透けて見えるのである。
 
コーランはもちろん、そういう一部のイスラム原理主義者の経典でもあるわけだから、一般の人々は、コーランをも「危険なもの」「不気味なもの」と考えてしまう。
 
 
 
しかし、その旋律は、アベマリアに優るとも劣らない美しさなのである。
 
そしてその荘厳な響きと、キリスト教などにはない、きわめて現実的な教義ゆえに、万人に受け容れられて世界宗教に発展したのだ。
 
(「現実的な宗教」というのは、たとえばキリスト教では、のちにイエスは数々の奇跡を起こしたとして神様に祭り上げられたわけだが、イスラム教では、イエスは人間であると断言している。ムハンマドも人間であるとする。現代人にとって、キリスト教とイスラム教と、どっちが信じるに足るかと言えば、これはもう間違いなくイスラム教ではないだろうか)
 
 
アベマリアを「美しい」と感じ、コーランを「ブキミだ」と感じる現代日本人は、明らかに西洋文明の悪しきモノサシを模倣してしまっている。
 
 
一度でいいから、モスクでホンモノのコーランを聞いてみてほしい。
 
そしてイスラム教が世界に広がっていった1000年前の人々の気持ちになって、その旋律に耳を傾けてほしい。
 
そうすれば、この宗教が、どうしてこれほど世界で受け容れられたのか、その理由がわかるはずだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
欧州で人気のダライ・ラマ 2008年09月10日22:28
 
ずいぶん前の新聞に、
 
「欧州で人気のダライ・ラマ」
 
という記事が載っていた。
 
ドイツでは、その人気は「人気ロック歌手なみ」なんだそうだ。
 
英、独の7都市で開催された集会では、合計8万人の聴衆が集まったという。
 
 
 
なんで彼らは、これほどまでに一介の僧侶をもてはやすんだろうか。
 
 
 
もちろん私は、ダライ・ラマに対して悪意があるわけではない。
 
けれどもチベットにとりわけ同情する立場でもない。
 
公平な中立の立場である。
 
その中立の立場から、この現象を見ていると、そこには欧米のグローバリズムに敵対する国家、つまり独裁国家や軍政や共産主義国家への対立項として持ち上げられた人物としてのダライ・ラマが浮かび上がってくる気がする。
 
 
たとえば、この日記で何度も取り上げている、ミャンマーの軍事政権VSスー・チーさん、あるいはパキスタンの軍事政権VS故ブット元首相などである。
 
いずれも人権を抑圧する悪の国家と「民主化」のシンボルだ。
 
 
 
実際はどうだかわからない。
 
 
しかし善玉に祭り上げられた人物は、ふたりともオックスフォードだかケンブリッジに留学経験のある、ヨーロピアナイズドされたインテリで、いずれも西洋人に人気の高い人物なのである。
 
 
彼女たちとダライ・ラマを単純に同列に並べて論じるのは、もちろん乱暴な話なんだが、しかし西洋人の異常な人気の裏には、確かに「アンチ中国」のニオイが感じられる気がする。
 
チベット人の人権を抑圧する悪の国家中国と、これに対抗して戦う正義の味方ダライ・ラマという構図である。
 
 
もちろんダライ・ラマは、そういう西洋人の描く単純な対立構図を利用しているんだろう。
 
 
 
ダライ・ラマがいいとか悪いとかいう話ではない。
 
 
西洋人の思想を体現する人物を、無条件で善玉に祭り上げ、西洋の思想に反する体制は悪と決めつけて非難するやり方が、わたしたちにとっても本当に正しいのだろうか、と私は思うのだ。
 
 
 
 
アメリカの経済制裁に屈して大量破壊兵器の廃棄に応じた、かつての「ならず者国家」のリビアの市場開放を、ライス国務長官は「リビア・モデル」と名付けたそうだ。
 
 
自分たちの意に沿う国は善良な民主国家で、そうでない国は「ならず者国家」なのである。
 
 
 
言うまでもないことだけど、世界中の多くの国にとっては、アメリカこそが「ならず者国家」なんだけどね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンゴラ 節目の選挙 2008年09月04日21:51
 
 
子供のころに世界地図帳を眺めていて、ギモンに思ったことがある。
 
その地図帳では、独立国の国名は赤字で記されているのだが、アフリカには黒字の国がいくつもあったからだ。
 
これらの国が独立国ではなくて、いまだ西洋諸国の植民地であることを知ったのは、ずっと後になってからだ。
 
(蛇足ながら説明しておくと、私が眺めていた世界地図帳は、私の母親のものだったので、おそらく1960年代の地図だったんだろうと思う)。
 
 
その黒字で示された「地域名」の中に、アンゴラもあった。
 
 
 
アンゴラという国は、長らくポルトガルの植民地だった。
 
ポルトガルは、大戦後も一貫して植民地に固執し続けた、西洋諸国のひとつだ。
 
しかし独立運動が激化して、大量の兵士の犠牲と、莫大な戦費に耐えきれなくなって、植民地を放棄した。
 
 
 
同じことがアルジェリア独立戦争でも行われている。
 
フランスは執拗にアルジェリアに固執した。
 
地中海岸の三県は、すでにフランス本国の一部になっていたくらい、フランス人の植民が進んでいたからだ。
 
しかし爆弾テロによる大量の犠牲者と戦費の増大に耐えきれなくなって、1962年に、ついに独立を許した。
 
 
 
同じことをポルトガルは、アンゴラでやっていたわけだ。
 
しかもこの国は、アンゴラが独立する1975年まで植民地経営を続けていた。
 
ポルトガルという国は、かつての植民地だったブラジルに追い抜かれたほどの斜陽国家である。
 
行ってみたら、寂れた漁村のような国だった。
 
 
 
 
そういえばつい最近になって独立した東チモールも、この国の植民地だった。
 
斜陽国家らからこそ、独占市場である植民地を、いつまでも手放すことができなかったんだろう。
 
見苦しくも憐れである。
 
 
ポルトガルでは現在でも、アンゴラから無一文になって帰国した、何万人か知らないけれども大量の難民が、社会問題になっているそうだ。
 
彼らはかつて、黒人を使役して大規模農場を営んでいた「旦那様」である。
 
私はアンゴラに行ったことがないから、断言はできないけれど、西アフリカのフランス人が恐ろしく尊大な連中だったのを見てみると、状況はそれほど変わらなかったのではないかと思う。
 
 
 
タイトルの記事は読売新聞に掲載されていたものだ。
 
アンゴラで内戦後発の議会選挙が行われるのだという。
 
旦那様を追い出して以降、初めての普通選挙だ。
 
新聞の論調は、ずいぶん希望に満ちた、明るい調子で書かれているけれど、残念ながら私にはそう楽観視ができるとは思えない。
 
 
せめてケニアの大統領選挙のように、内乱に発展しないことを祈るばかりだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
divide and rule 2008年08月31日13:55
 
 
日本語では「分割統治」と訳されるこの言葉は、帝国主義時代のイギリスの植民地政策で必ず登場する歴史用語なんだが、世界史の教科書では、あまり登場しないように思う。
 
しかしこの言葉は、西洋諸国による植民地経営を知る上で、不可欠な統治概念であった。
 
 
 
「分割統治」とは、いったいどういうものだったのか。
 
 
 
例えばインドの場合。
 
イギリスは、それまで平和的に共存していたヒンズー教徒とイスラム教徒を、故意に対立させるような政策をとった。
 
 
インド総督のカーゾンという人物は、もっともイギリス統治が長く、従って民族運動も活発なベンガル州を、イスラム居住区(現在のバングラデシュ)とヒンズー居住区(インドの西ベンガル州)に分割する法律を制定した。
 
さらにヒンズー教徒のインド国民会議派に対抗して「全インド・ムスリム連盟」を創立した。
 
これがその後のパキスタンの分離独立につながる大きな流れになったことはいうまでもない。
 
 
西洋人にとって、イスラムは長年の敵だったので、イギリスは「友好的なヒンズー」と「攻撃的なムスリム」を峻別して、ヒンズー教徒を優遇する政策をとった。
 
こうしてイスラムとヒンズーの民族対立をあおり、インドの統一的な民族運動を阻止して内部分裂を計り、民衆の不満を植民地政府から回避しようとしたのだ。
 
 
同じようなことは、中東イスラム諸国におけるシーア派とスンニ派の対立、ユダヤ教徒とイスラム教徒の対立、あるいはインドシナにおけるベトナム人と、カンボジアやラオス人の対立、またインドネシアにおける華僑とムスリムの対立など、世界中で行われた。
 
 
四方田犬彦氏によると、韓国での全州(百済)と慶州(新羅)の対立は、実は戦後に始まったそうだが、そこに日本の朝鮮総督府による「分割統治」の傷跡を見ることも可能かもしれない。
 
 
 
現在、世界中で起こっている紛争の元凶のかなりの部分は、間違いなく西洋諸国による「分割統治」が関係している。
 
 
しかしその史実が、歴史の教科書で大きく取り上げられることはない。
 
 
世界の歴史は、実に西洋人に都合よく「宣伝」されていることがわかるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
IRAQ 2008年08月30日00:23
 
 
「IRAQ」という映画を観た。
 
ハリウッド映画というのは、たとえ全体のトーンが自己反省的だとしても、よく観察するとそうでもない、というのはこの日記で何度も書いていることだが、この視点はまるっきり正反対である。
 
つまりイスラムから見たイラク戦争なのである。
 
なぜならこの映画、トルコ映画なのだ。
 
 
冒頭から駐留米軍の横暴が、これでもかと描かれていて、たいへん興味深い。
 
たとえば、罪もないイラク人の結婚式に、米軍が乱入して、参列者をことごとく拘束し、抵抗した者は射殺する。
 
もちろんそれが現実にあったかどうかはわからないが、アブグレイブ収容所の虐待ぶりを見ていると、似たようなことはしていたのかもしれない。
 
 
その収容所では、捕らえられたイラク人の腎臓が、臓器売買されている。
 
冷凍保存された腎臓の空輸先には、「テルアビブ、ニューヨーク、ロンドン」などと書かれている。
 
うーむ。
 
そこまで露骨かよ。
 
 
 
いずれにしても、アメリカ人にとってイラク人なんて、この映画で描かれているとおり、ハナクソみたいなものなんだろうと思う。
 
 
映画の中で駐留米軍の重要人物のこんなセリフがある。
 
 
「トルコ人はムダに誇り高く、体面にこだわる。トルコはアメリカに頼りっぱなしだった。パンツのゴムまでもだ。生産力はゼロ。アメリカからの支援金を国内で奪い合う。まるで物乞いだ」
 
 
 
しかしそういう横暴というのは、実はアメリカ人に限ったことではない。
 
私はシリアの外国人登録所で、いつ果てるともなく続くイラク人出稼ぎ労働者の長い長い行列を見たことがある。
 
イランでは、出稼ぎアフガニスタン人が、役人を前にオドオドと順番を待っている姿を見た。
 
そのイラン人出稼ぎ労働者は、ドバイの入官で、イヤミとしか思えないほど長々と待たされる。
 
 
不法就労のタイ人は、日本の入国管理で厳しく取り締まられるが、そのタイでは出稼ぎミャンマー人やラオス人がバカにされる。
 
おそらくタイ人が日本で受ける差別よりも、もっとひどく。
 
 
一等国家の国民は、二等国家の国民をハナで笑い、二等国家の国民は、三等国家を虐待する。
 
 
残念ながら世界は、そのような序列ができてしまっている。
 
 
そしてその程度は、二等国家の三等国家に対する方が、よりキビシイのである。
 
 
 
 
もうひとつ、この映画で興味深かったのは、イラク人を虐待するリーダー格の悪玉軍曹の名前が「ダンテ」というのだ。
 
 
ダンテというと、「神曲」という詩編を書いた人で世界史に名をとどめるわけだが、聞いた話では、この作品の中では、ムハンマドが地獄で炎に焼かれる(確か)という描写があるそうで、イスラム教徒にはたいそう評判が悪い。
 
 
私たちには、
 
「壮大な詩編を書いた、イタリアルネサンス期の天才」
 
というイメージがあるわけだが、しかしちょっと調べてみると、この作品、単なるキリスト教徒の自己満足に過ぎないことがわかってくる。
 
ともあれ、そのダンテの名を、イラク戦争での虐待の中心人物に冠するあたり、イスラム教徒の相当な恨みがこもっているのだろうと思われた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
世界地図のギモン 2008年08月22日11:55
 
 
お読みになる前に世界地図を広げてください。
 
 
 
世界地図を眺めていると、妙なカタチをした国が多いことに気づく。
 
 
たとえばアフリカのガンビアという国。
 
ザンビアではなくてガンビア。
 
西アフリカのセネガルという国に三方を囲まれた、ヨコに細長い国である。
 
 
なんなんだこの国は。
 
 
と思うわけである。
 
 
 
ガンビアはイギリス領だった。
 
周辺を取り巻くセネガルはフランス領。
 
そしてガンビアの中央には、ガンビア川という川が流れている。
 
もうおわかりだろう。
 
イギリスはフランスから、物流の要である河川の周辺だけを確保して、そこが分離独立したのが、ガンビアという国の正体なのだ。
 
 
そういう意味で、この国はイギリスとフランスの力関係を象徴していると言えるかもしれない。
 
 
 
コンゴ民主共和国という国がある。
 
かつてはザイールと呼ばれた。
 
アフリカ中央部の、熱帯雨林の密集した地域にある国だ。
 
この国は珍しくベルギー領だったそうだ。
 
アフリカ奥地探検をしたスタンレーが、ベルギー国王に「献上」したんだそうだ。
 
従って当初は国王の私有地だった。
 
この国王はレオポルド2世というが、相当あくどいことをやっていたらしい。
 
ゴムのプランテーションで、目標の生産が確保されないと、黒人の手足を容赦なく切断したという。
 
その数は100人にひとりにも達したそうだ。
 
黒人虐待はひどいものだったらしい。
 
 
それでこの国、よく見てみると、海へ出る間口が非常に狭いのである。
 
ザイール川の河口だけ、申し訳程度に開口している。
 
その北端はアンゴラの飛び地である。
 
この国は、アフリカを分割した「ベルリン会議」で、ベルギー国王への帰属が承認されたが、おそらく重要な海岸部は他国に分捕られてしまったんだろう。(あるいはアンゴラ宗主国のポルトガルが譲歩して、河口部だけを割譲したのかもしれないが)
 
 
 
 
南アフリカの中に、レソト、スワジランドという、陸の孤島のような国がある。
 
この「太陽の黒点」のような国はいったいなんだろうか。
 
 
 
おそらく南アの白人支配を逃れた黒人国家だろうとは想像していた。
 
実際はどうかというと、両国とも、イギリスの保護領だった。
 
歴史で習ったとおり、南アでは19世紀後半にボーア戦争というのがあった。
 
開拓移民のオランダ系住民ボーア人と、金鉱山発見で侵略してきたイギリスとの戦争である。
 
このとき、一部の黒人は、対立部族抗争やボーア人の圧迫から逃れるために、イギリスに保護を求めた。
 
幕末の日本と同じである。
 
その連中が、そのまま英保護領となり、独立したのが現在の両国なのである。
 
 
現在でも、両国とも英連邦の一部である。
 
レソトは南アフリカ有数の山岳地帯で、経済もあまり発展していない典型的な後進国である。
 
スワジランドは、いまだ白人が権力を握る国で、アパルトヘイトのころに経済制裁を受けていた南アの企業が、この国を隠れ蓑にして工業生産を行っていたそうで、そのせいで工業化が進んでいるという。
 
 
 
現在の世界地図が、大国の思惑に左右された結果であって、現実の民族や宗教分布とは、ほとんど関係のない線引きが行われている場合が多いということに気づくのである。
 
 
鶴見良行という学者は、国家とか国境という概念のいかがわしさを生涯指摘し続けた人だったが、しかしそうやって人工的に、従って現地の状況を無視して引かれた国境が、現実には、残念ながら機能してしまっているのが今日である。
 
 
そのことを、私はラダックに行って改めて感じた。
 
 
(ラダックはインド北部、パキとインド国境付近の山岳地帯で、かつてシルクロードの中継地として発達したが、現在はまったくの辺境として取り残されてしまっている。政治的国境が経済に多大な影響を及ぼす好例だと思う)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28週後… 2008年08月19日14:49
 
 
前作「28日後…」の続編。
 
監督が変わって、映画の雰囲気もガラッと変わり、おそらく制作費もドーンと増えたんだろう。
 
ハリウッド的なスペクタクル映画に仕上がっている。
 
なんといっても、登場人物の数が前作と比較にならない。
 
もっとも経費のかかる人件費が豊富なんだろう。
 
前作のチープさが、わりと私は好きだったので、その点は変な意味で残念である。
 
 
ともあれ、映画のストーリーを。
 
 
 
人間を凶暴化する「レイズ・ウイルス」が爆発的に広まり、廃墟となったロンドンに、復興のために続々と人々が戻ってきた。
 
そんな中、映画では、ある家族にスポットが当てられる。
 
奇跡的に生き残った父親は、実は妻を見殺しにして助かったのだが、そのことを隠して、避難先のスペインから帰国した子供たちを迎える。
 
しかし死んだと思っていた母親は、自宅の屋根裏に隠れて生き残っていた。
 
保護された母親は、感染しても発病しない「免疫保持者」だったのだ。
 
そのことを知らずに接見した父親は、たちまち感染。
 
凶暴化して人々を襲い始める。
 
悪夢がまたしても始まり、隔離地域は阿鼻叫喚となる。。。。
 
 
 
 
映画では、父親の「負い目」が執拗に描かれる。
 
妻を見殺しにして、自分だけ助かったことに対する「負い目」である。
 
監督が「この映画のテーマは家族だ」と言っていたとおり、父親と子供たちの葛藤が鋭く描かれる。
 
 
父親はゾンビになってしまうが、どこまでも子供たちを追いかける。
 
そして最後は娘に射殺される。
 
 
 
無惨なゾンビの姿になって、しかも最愛の家族を襲い、最後は娘に射殺されるという、救いのない役回りを、父親は追わされている。
 
 
その根拠は、
 
「妻を見殺しにして、自分だけが助かった」
 
という、その一点に収斂される。
 
 
 
そこに卑怯者を徹底的に非難するという西洋人の性癖が、顕著に現れているように思われる。
 
 
 
たとえば日本ではどうだろうか。
 
広島で起きた、中学生によるバスジャック事件。
 
あのとき確か、乗客のうちの何人かの男性が、窓から脱出したと思う。
 
他の乗客には、女子供もたくさんいたにもかかわらず。
 
しかしそのことは日本では、それほど問題にはならない。
 
非常事態の中では、仕方がなかったのだと判断される。
 
 
 
 
しかし西洋では違うようだ。
 
女子供を置き去りにして、自分だけが逃げて助かるなどというのは、言語道断なのだ。
 
タイタニックの時にも、同じことが問題になった。
 
唯一乗船していた日本人が助かったのは、
 
「女子供を押しのけて、救命ボートに乗ったせいだ」
 
という根も葉もない風評がたった。
 
西洋人はそんな卑怯なことはしないが、東洋人は平気でやるという、という当時の人種偏見によるものだった。
 
 
 
「強い者は弱い者を助けるのは当然で、強い者にはその責任が生じる」
 
というのが、西洋の考え方である。
 
ジェントルマンとはそういうものだ。
 
一見して立派である。
 
しかしそれは男女差別を前提にした考え方である。
 
女性は弱くて男性よりも劣るという認識がその根底にはあり、だから男性には女性を保護する責任が生じる。
 
そしてそれは、「強い者が弱い者を統治する」という、植民地時代の考え方に通じる思想である。
 
「人種差別」も「レディ・ファースト」も実は根っこは一緒なのだと思う。
 
 
 
女子供を平気で置き去りにする日本の男は、確かにジェントルマンではない。
 
しかし逆にいえば、日本は男女平等ともいえないだろうか。
 
少なくとも西洋のように、「優勝劣敗」の思想がないことは間違いない。
 
 
 
いずれにしても卑怯者をここまで排撃する、この映画を観ていると、なんだか西洋人のエゴを押しつけられているようで、嫌な気分になった。
 
私としては前作の方が数倍評価が高いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アイ・アム・レジェンド 2008年08月18日23:07
 
 
告白しますが、私はゾンビ好きです。
 
 
ロメロ最高。
 
「ドーン・オブ・ザ・デッド」命。
 
「サンゲリア」に失神。
 
「28日後…」の映像美に感動。
 
 
 
その反面、くそゾンビ映画もたくさん観てきましたが。
 
 
 
 
そこで、「アイ・アム・レジェンド」
 
この映画、予告編だけを見ていると、
 
「人類が滅亡したあとに、ただひとり生き残った科学者と愛犬の感動物語」
 
 
みたいな印象だが、実はゾンビ映画である。
 
 
 
ゾンビとはいっても「28日後…」と同じで、ウイルスに感染された人間が異常に凶暴になるというタイプ。
 
しかもものすごく強い。超人的に強い。
 
 
「28日後」や「ドーン〜」の走るゾンビなんか目じゃない。
 
見た目は「コーンヘッズ」を凶暴にしたような感じだが、スパイダーマンくらいスゴイ。
 
そいつらが大挙して押し寄せる。
 
 
これは怖い。
 
 
ここまでやられちゃうと、逆に少々引いてしまうが、それでも入念にアジトを見つからないように細工して、恐怖の夜をやり過ごす主人公の孤独感が見事に表現されていて、なかなか興味深かった。
 
 
 
主人公の友は愛犬のシェパードだけだ。
 
ある日、ゾンビどものワナに引っかかって、愛犬を死なせてしまう。
 
 
ヤケクソになった主人公は、愛犬の仇をとりに車で突撃。
 
多勢に無勢で、あわや殺されかけたところで、奇跡的にやって来た生存者に助けられる。
 
 
意識を失いかける主人公に、必死に語りかける生存者の女性の後ろにロザリオが揺れている。
 
 
生存者はサンパウロから脱出してきた女性とその息子。
 
ということはカトリックか。
 
 
 
科学者である主人公は無神論者で、「神はいない」と言いきる。
 
女性は「神はいる」と断言する。
 
神の導きで私たちは助かったのだと言い張る。
 
 
二人の主張は平行線だが、ゾンビに隠れ家を見つけられて襲われ、もはや絶望的となったとき、主人公は亡くなった娘の声(つまり天の声)を聞く。
 
そして身を挺して親子を助ける。
 
無神論者だったはずの主人公は、最後の最後で、キリスト教の犠牲的精神を発露して死んでしまうのだった。
 
 
ということで、なんだかとても説教くさい結末で、私としてはあんまり好きではないエンディングである。
 
この手のハリウッド量産型の「キリスト教自己犠牲映画」は、もうお腹いっぱいという感じだ。
 
 
 
 
もうひとつ、同時に借りてきた「28週後……」については次の日記で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西洋の柔道は醜すぎ! その2 2008年08月10日23:37
 
昨日に続いて柔道ネタ。
 
西洋では「相手のミスを誘って勝つ」というのは、ごく普通のようだ。
 
 
昨日の、とある試合の中継でも、解説の篠原が、
 
 
「組み手争いで時間を稼いで、相手に反則が行って、あせって攻めてきたところを合わせる戦略ですね」
 
 
というようなことを言っていた。
 
 
昨日の谷亮子が負けた試合そのままの戦法である。
 
 
 
「指導」をくらうギリギリのところでダラダラと試合を続けて、相手の反則を誘って僅差で勝つ。
 
 
それが西洋の柔道のやり方なのである(もちろん全員ではないけど)。
 
 
こんなつまらない試合を認めていたら、昨日も書いたとおり、柔道全体が先細りしていくだろう。
 
私も途中でチャンネルかえようかと思った試合がいくつかあった。
 
 
 
 
ところで、6月11日付の読売新聞に、以下のような記事があった。
 
 
強くなる柔道着?違反摘発へ、新型「柔道着測定器」が完成
 
 違反柔道着を摘発できる新型の柔道着測定器が完成し、11日、全日本柔道連盟が発表した。
 
 最近は、相手がつかみにくくなるように襟や袖に糸を縫い込んで分厚くしたり、袖を短くするなど規格外の柔道着を身につける外国人選手が多く、対策が急務だった。新型測定器は全柔連が公認柔道着を製作するミズノと共同で開発したもので、1台ですべてのチェックが即時にできる。
(2008年6月11日19時07分 読売新聞)
 
 
 
 
「勝つためにはなりふり構わず、なにをやってもいい」
 
「規則に抵触していなければ、なにをやってもいい」
 
 
 
こういう考え方は、「ネコを電子レンジで死なせて訴訟を起こす」、つまり説明書に書かれていないことをやって、メーカーに責任を問うという、非常識なアメリカ人の発想と、まったく同じではないだろうか。
 
 
 
 
前の日記で、
 
「サッカーで大げさに転んで痛がるのはフェアーではない」
 
と書いた。
 
 
もちろん相手のペナルティを誘うためだから正当な行為である。
 
 
 
しかしそれは正しいことか?
 
スポーツマンシップに則った行為か?
 
演技のうまいヤツ、ウソをつくのが上手なヤツがトクをして、それでいいのか?
 
 
 
同じように、規則に触れないからといって、柔道着に細工をすることが許されるのか、といえば、もちろん道義的には許されない。
 
そもそも、そういうことをやろうという発想が、日本の選手にはない。
 
 
しかし西洋他、外国の選手にはある。
 
 
それは究極的には、おそらく私たちと彼らとの精神風土の違いなんだろうと思う。
 
 
「どんな汚い手を使っても、勝った者が正義」
 
 
というのは、西洋では正しくても、日本では決して正義ではない。
 
 
そんなことをして勝つくらいなら、あくまで一本勝ちにこだわり、アトランタで銀メダルに終わった古賀の方が、何十倍も私は好きだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西洋の柔道は醜すぎ! 2008年08月09日22:47
 
毎度毎度のことだけど、外国の柔道は醜いです。
 
柔道はちゃんと組まないと技なんてかけられないのに、ほとんどまともに組まないで終わる試合がたくさんある。
 
 
今回観ていて思ったのは、
 
「西に行くに従って、柔道がセコくなる」
 
ということだ。
 
象徴的だったのが、ウズベキスタンの選手とチェコの選手の試合だった。
 
 
ウズベクの選手は、それでも背負い投げ、大内刈り、内股と、柔道らしい技を繰り出して攻めるのだが、チェコの選手は五分間の試合で出した技は「朽木倒し」だけ。
 
よくこんなので五輪選手に選ばれたよなと、呆れてしまうくらい、ひどい内容だった。
 
 
韓国の選手なんかは、日本人に近いキレイな、というか「正しい柔道」をしてくれるので、見ていて気持ちがいいんだが、西に行くに従ってセコイ柔道が増えてきて、見ていてまったく面白くない。
 
西洋の柔道のセコさについては、前に書いたとおりだ。
 
 
 
60キロ級の平岡も、48キロ級の谷も、ほとんどまともに組ませてもらえないまま指導をくらって、涙をのむ結果になってしまった。
 
 
特に平岡は、あんなレスリング野郎に負けてしまって、さぞや悔しいだろうと思う。
 
 
 
「組んだら日本人選手は強い」
 
 
というのは、みんな知っているから、わざと組まないで勝負しようというのはわからないでもない。
 
 
しかし組まないと柔道ではない。
 
 
そしてしっかり組んだ「正しい柔道」で勝負して日本人選手が負けるのなら、それも納得がいくのである。
 
 
「もろ手刈り」とか「肩車」とかいうレスリング的な技が、今後さらに横行していくと、柔道らしい一本が取れる美しい技が、どんどん見られなくなっていくだろう。
 
 
このままでは、長期的に見て、柔道はどんどん衰退していくのではないだろうか……と柔道を愛好するひとりとして、危機感を持ってしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北京五輪開幕 2008年08月09日02:01
 
五輪開会式を途中から観た。
 
今回は最多の204ヶ国が出場するそうで、各国選手団の長い長い列とそれに対する中国民衆の反応が興味深かった。
 
 
人種の融和とか、平和と友好を云々とかいうのは、まあ置いておくとして、国際関係を念頭においた、もう少し客観的な感想を書いてみよう。
 
 
 
人気があったのは欧州各国で、フランス、イタリア、ドイツなどで歓声が沸き上がる。
 
特にフランスの特別待遇ぶりが目立った。
 
場内アナウンスも、「仏語→英語→中国語」の順番だった。
 
仮想敵国アメリカの言語を第一言語とするのは、中国政府としては許せないのだろう。
 
逆にフランスと中国というのは、もともと反米で協調しているのかどうか知らないけれど、仲がいいのである。
 
 
 
一方で、そのアメリカも、歓声はなかなかのものだった。
 
大統領がわざわざ来たので、それに対する敬意なのかも。
 
 
 
日本に対する歓声は案の定イマイチだ。
 
直前でギョーザ事件が再燃したせいだろうか。
 
 
 
また韓国に対する声援が少ないのに反して、北朝鮮には大歓声が上がったのも面白い。
 
しかし同じ子分にもかかわらず、ミャンマーに対する歓声はほとんどなかった。
 
選手団も少ないし、なんとなく地味で、かわいそうだった。
 
 
 
そして極めつけは隣国のモンゴル。
 
選手団が登場すると、場内がシーンとなる。
 
というよりも音楽が一団と大きく感じられた。
 
ということは歓声が一瞬なくなったということだろう。
 
 
モンゴルは中国から分離独立した国だし、かつて元帝国に支配された歴史もあるので、積年の恨みが残っているのだろうか。
 
よく見るとモンゴル選手の表情も、少々硬かったような気がした。
 
 
 
そういう風に観察していると、なんだか民衆の歓声も、当局に統制されているのではないかという気がした。
 
 
 
最後に関係ないけど、クウエート選手団の入場の時に青山アナがチクリといった、
 
 
「クウエートといえば、中東の笛で有名になりましたよね」
 
 
これに対する三宅アナのレスはなく、次の選手団になし崩しに話題が移っていった。
 
 
クウエートの「中東の笛」と、オリンピックのあり方に対するギモンについては、以前書いたとおりである。
 
 
 
中継でも言っていたけれど、メダルをもらったことがない国の、なんと多いことだろう。
 
スポーツなんだから仕方がないのかもしれない。
 
しかし1000人を超えるアメリカ選手団と、関係者を含めてたった数人で入場する、ミャンマーやアフリカの国々の選手団を比べると、その格差はあまりに大きい。
 
 
 
オリンピックを楽しめる国というのは、世界でもほんの一握りに過ぎないのだと、改めて思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ネバド・デル・ルイス火山 2008年08月07日19:30
 
この火山の名前を聞いても、ピンと来る人はいないかもしれない。
 
コロンビアのネバド・デル・ルイス火山は、1985年に噴火して、死者、行方不明者二万人を出した。
 
 
その様子は世界中に配信された。
 
 
特に土石流に埋もれ、土砂の中から顔だけ出して救助を待ちながらも、最後には息絶えてしまった少女の姿は、世界中の感動を誘った。
 
このエピソードで、「ああ」と思われた方も多いと思う。
 
 
20世紀最悪の火山災害のひとつにも数えられる、未曾有の大災害であった。
 
 
 
この災害に関しては、ある意味で人災であるという指摘もあるらしい。
 
 
最大の死者を出した山麓の町アルメロでは、噴火前に避難勧告が出されていたにもかかわらず、町の「有力者」によってもみ消されていたというのだ。
 
その「有力者」とは、町を支配する、たった九人の不在地主である。
 
 
 
「コロンビアの農村は、スペイン支配から脱皮のあとも、ごく少数の大地主階級が実権を握っていた。どこも似たりよったりである。アルメロ町も例外ではなかった。たった九人の不在地主の土地なのである」(「世界の大災害」金子史朗 中公文庫)
 
 
 
たった九人の不在地主が、広大な土地を支配している。
 
そしてそれが南米では「どこも似たりよったり」なのである。
 
 
 
前にも旅日記に書いたけれども、私も同じような風景を見たことがある。
 
アルゼンチンの広大なパンパを歩いていたとき、その見渡す限りの放牧地は、すべて鉄線で区切られていた。
 
どこまで行っても、何百キロ歩いても、鉄線は途切れることがなく、地平線の果てまで誰かの所有物であった。
 
 
地元の人に話を聞いたら、そういう大地主は、ガウチョに経営を任せていて、自分たちはブエノスアイレスやスペインに住んでいるという「不在地主」だった。
 
 
要するに17世紀くらいの時代と、たいして変わらない、絶対王政のような状況が現在でも続いているのである。
 
南米が経済発展しない原因は、おそらくここにあるだろう。
 
 
 
政治的には、どこの国もみんな民主主義である。
 
議会があって選挙がある。
 
 
しかしそれは、まったく機能していないといっていいようだ。
 
 
ボリビアでは、議会は無数の政党に別れていて、政策を論じたり、そこに民意が反映されることはない。
 
「国家予算が公表されることすらない」と、地元の大学生が憤慨していた。
 
おそらくさっきの不在地主が、地元の大企業の社長であり、代議士であり、警察署長であり、軍隊の司令官であるのだ。
 
 
 
前に引用した岩波ブックレットの「データブック貧困」を再度引用しよう。
 
アルゼンチンでは、総所得の55%以上を、上位二割の支配階級が独占している。
 
ブラジルでは61%に達する。
 
 
日本や先進国では考えられない貧富の格差が、これらの国では当たり前なのである。
 
 
彼らは「合法的」に国を支配している。
 
しかしそれは決して正義ではない。
 
そのことは多くの人が知っている。
 
しかし誰もその不正を告発しようとはしない。
 
 
なぜだろうか。
 
 
なぜならアメリカを始めとした多国籍企業が、不在地主と癒着して、搾取する側に加担しているからである。
 
 
南米は「アメリカの庭」といわれる。
 
南米はアメリカや西洋諸国の大資本の植民地である。
 
彼らとべったり癒着しているからこそ、たった一握りで国家の所得の大部分を独占する不在地主は、告発を免れ、のうのうとしていられるのである。
 
 
 
世界中の多くの人が、北朝鮮の金正日や、ミャンマーのタン・シュエや、スーダンやジンバブエのナントカ大統領が独裁者で、人殺しで、許せない悪党だと糾弾する。
 
 
しかしどうなんだろうか。
 
同じようなことを、もっと巧妙にやっている連中が、世界にはいるのではないか。
 
 
彼らは確かに「合法的」ではあるだろう。
 
しかし決して正義ではない。
 
 
貧しい人々から少ない富を収奪して肥え太っている連中であることに変わりはないのではないか。
 
 
北朝鮮の独裁者と、アメリカの多国籍企業のCEOで、年間何十億円という給料をもらっている連中と、本質的にどこが違うんだろうかと、私なんかは思ってしまう。
 
 
 
世の中は巨大な不正の上に成り立っている。
 
わかりきったことだけれど、どうにもやりきれないよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マスコミの偏重報道について考えよう 2008年08月03日23:43
 
読売新聞の連載「時代の証言者」。
 
現在連載しているのは、元国連職員の明石康氏。
 
その中に興味深い一節があった。
 
 
「世界に富の格差があるように、情報の流れにも格差があり、それを是正しなければならないと、途上国の急進派が先進国を追い詰めたわけです」
 
「情報はやはり「先進国から途上国へ」という基本的な流れがある。その後、中東の放送局アル・ジャジーラなどの登場で、多少は途上国、パレスチナ、弱者の立場が世界的に理解されるようになってきたと思いますけれど」
 
 
 
 
「世界に富の格差があるように、情報の流れにも格差がある」
 
 
本当にその通りだと思う。
 
米国に楯突くイランやシリア、北朝鮮、ミャンマー、スーダンなどは、世界的な非難を一身に浴びているかのように報道されている。
 
 
ナナメ読みしかしていないけれど「アメリカの論理」(吉崎達彦 新潮新書)に、2003年4月の「アメリカ人の世界の国に対する好感度」という調査が載っているが、これによると、
 
 
嫌いな国
 
イラク  88%
イラン  84%
パレスチナ76%
リビア  68%
北朝鮮  65%
 
 
などとなっており、マスコミの報道そのままの結果なのであった。
 
 
 
しかしこれはある意味で当然である。
 
マスコミといううのは、基本的に世論に迎合した報道しかしないからだ。
 
 
 
 
 
前にも引用した岩波ブックレットの「データブック貧困」(西川潤)に、こんな文章がある。
 
 
「東西冷戦時代には。米ソはそれぞれ戦略的な援助を同盟国や中立国にたいして行ったが、冷戦体制解体後はむしろ、先進国グループが途上国の反乱を抑えると同時に、途上国を世界的市場経済体制に統合することを目的として、民主化、人権、市場経済導入、国営企業の民営化、経済自由化などを経済援助とリンクさせることが多くなっている。先進国の基準によるこれらの政策が実行されていないと判断された場合には、逆に「経済制裁」が科せられることになる」
 
 
 
 
ミャンマーのことを考えてみよう。
 
軍事独裁政権が続いているこの国は、民主化のスーチーさんを解放して、普通選挙が行われるように西側諸国が呼びかけているわけだ。
 
そして世界中のマスコミが、それを追認する姿勢の報道を繰り返している。
 
 
しかし本当にそれを、ミャンマーの人々が望んでいるのか、ミャンマーの人々のためになるのかどうかは、この日記で何度も書いているようにギモンなのである。
 
 
 
「途上国を世界的市場経済体制に統合することを目的としている」
 
 
というのは、どういうことだろうか。
 
 
ミャンマーが市場開放すれば、外国の安い産物がどーっと押し寄せる。
家内制手工業みたいな国内の中小企業は吹き飛んでしまい、その市場開放にうまく乗った一部の官僚や政治家や軍人が大儲けする。貧富の格差があっという間に広がるだろう。
 
モンゴルの鉱山が軒並み中国と韓国の企業に占領されてしまったように、ミャンマーも、おそらくシンガポールやタイの企業が押さえるだろう。
 
一般の人々には、なんの恩恵もないままに、一部の特権階級が肥え太るだけで、ミャンマーの市場開放は終わってしまう。
 
それが、
 
「途上国が世界的市場経済体制に統合される」
 
ことの意味なのだ。
 
 
 
 
 
しかし世界のマスコミは、そういう負の部分には、いっさい言及しない。
 
 
 
 
 
イランだってそうだ。
 
 
私は実際にこの国に行ったことがあるから断言できる。
 
 
 
 
ベンツが走っていない国を、私は初めて知った。
 
 
街中で見かける車はすべて、ほとんど例外なくソビエト製のポンコツだった。
 
その代わりに公共バスは恐ろしく美しく、そしてバカみたいに安い。
 
 
それはどういうことかといえば、貧富の差が非常に少ないことを証明しているだろう。
 
 
つまり石油の利益が、あまねく公共に行き渡っているのだ。
 
 
 
こんなによくできた国が、マスコミの報道では、テロ支援国家のならず者国家になってしまう。
 
 
テヘランやエスファハンの美しい街並みは、いっさい報道されることはなく、ホメイニの肖像を捧げたヒゲ面のおっさんのデモばかり報道する。
 
 
 
 
先進国からの情報が、都合のいいように修正されて世界に配信される。
 
 
 
 
マスコミを信じてはいけない。
 
 
彼らは確かに、ウソは報道してはいないだろう。
 
しかし同時に、真実も報道してはいないのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シンハ・ビール 2008年08月02日00:07
 
 
タイといえば「シンハ・ビール」。
 
最近はビア・チャンにすっかりシェアを奪われたとはいっても、その独特の味わいと、創業75年という歴史の長さを考えれば、依然としてタイのナショナル・ブランドと言っても過言ではないだろう。
 
 
その「シンハ」だけれど、「獅子(シシ)」の意味だそうだ。
 
獅子とはライオンのことである。
 
 
この「シシ」あるいは「シン」という言葉は、インドから東南アジアでよく見かける。
 
 
たとえばシンガポール。
 
「シンガ・ポール」で「獅子の都」という意味だそうだ。
 
 
 
あるいはスリランカの国民の多数を占めるシンハラ人。
 
彼らの名称の由来も「獅子」だそうだ。
 
 
 
インドのシン首相。
 
この人はシーク教徒だが、シーク教徒の男性の名前には、必ず「シン」がつくそうだ。
 
この「シン」も獅子の意味である。
 
 
そういえばアントニオ猪木と死闘を繰り広げたヒール役の「タイガー・ジェット・シン」もシーク教徒だった。
 
「虎でジェットな獅子」。
 
強そうだ。
 
 
 
 
 
こういう「獅子信仰」は東アジアにも普及してきている。
 
 
沖縄の「シ−ザー」も「対になった獅子」だ。
 
 
「狛犬」もそうだ。
 
アレの口を開けている方は「獅子」と呼ばれるという。
 
韓国でも似たような狛犬を見かけるが、狛犬は、おそらく「高麗犬」だったに違いない。
 
 
そういえば「シンハ・ビール」にも「対になった獅子」がデザインされている。
 
 
 
こういう「獅子信仰」は、ペルシアあたりが起源らしい。
 
漢和辞典によると「獅」の字は、古代ペルシア語が起源だそうだ。
 
つまり、
 
 
ペルシア → インド、中国 → 沖縄、韓国 → 日本
 
 
と渡ってきたわけだ。
 
ペルシアといえば、「胡」のつくモノは、だいだい西域からの渡来品で、
 
胡弓、胡椒、胡麻、胡瓜
 
など、たくさんある。
 
 
古代において、ペルシア文明というのは、世界に多大な影響を与えたのだと、改めて感心してしまう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本人旅行者がぼったくられる理由 2008年08月01日01:42
 
 
日本以外の世界中の人々は、西洋人も含めて、失敗したり他人に迷惑をかけても、謝ろうとしない人が多い。
 
 
西洋人と日本人のこの気質の違いは、「謝りの文化」と「感謝の文化」というふうに説明されることが多いようだ。
 
 
前にも引用したけれど、「甘えの構造」(土居健郎 弘文堂)によれば、西洋人の罪悪感というのは、もっぱら神に対する背徳であり、それが近世以降、個人主義の台頭によってかき消されて現在に至っているという。
 
一方で日本人の罪の意識は、自分が属する集団に対する裏切りにおいてもっとも先鋭化するそうだ。
 
 
 
 
これも前に引用したが、片倉もとこ氏は「イスラームの日常生活」という本で、
 
「西洋の性強説、イスラムの性弱説、日本の性善説」
 
という説を論じている。
 
 
 
西洋では人間は強くなくてはいけない。
 
程度の差はあっても、弱い者は切り捨てられる運命にあると、誰もが信じていて、それに疑問を差し挟む人はいないようだ。
 
 
 
これに対してイスラム社会では、人間はもともと弱い存在であるから、キビシイ法律で律しないとたいへんなことになる。
 
女? そんなエッチなものは隠してしまえ。
 
そういうことで、イスラム社会は性弱説なわけである。
 
 
そんな「か弱い」人間が、神様の意志に逆らって物事を左右させるなんてハナから無理なことである。
 
だから、たとえ皿を何十枚割ったとしても、約束をすっぽかしたとしても、「インシャラー」(神のご意志のままに)で済まされてしまう。
 
 
自分の意志で、すべてを解決しようとする西洋人とは、考え方がまるっきり逆なのである。
 
 
 
最後に日本人は個人の信用をとりわけ大事にする気質がある。
 
契約書なんかよりも人柄である。
 
だから日本人は性善説なんだそうだ。
 
 
 
そういう風に考えたとき、日本以外の世界中の人が、等しく謝らないといっても、その背後にある理由は様々であることがわかる。
 
 
西洋人の場合は、自分の非を認めること(つまり自分が弱者と自認すること)は、多大な賠償を約束することにもつながりかねないから、決して罪を認めようとしない。
 
イスラムの連中は、神様の意志だったわけで、自分の責任ではないと考える。
 
おそらくインドあたりでは、「これはカルマだ」といって済まされるのに違いない。
 
 
 
日本人だけに「謝罪」を受け容れる文化がある。
 
逆に謝罪しないヤツは、ひどく叩かれる。
 
とにかく謝ればなんとかなるのが、日本の気質である。
 
「謝って済むんなら、警察なんていらねえんだよ」
 
という言葉は、逆に謝ることで多くの事案が解決してしまうことを物語っている。
 
 
前説の「日本人性善説」を考えるとわかりやすいが、日本人はよくも悪くも「お人好し」なのである。
 
世界中で日本人旅行者だけが、ボッタクリの被害に遭うのは、あながち偶然ではないと思われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アリババと四十人の盗賊 2008年07月29日00:46
 
 
「開けゴマ!」で有名な、アラビアンナイトの物語である。
 
 
私の記憶では、極悪盗賊団の隠れ家に忍び込むためのキーワードを偶然知ったアリババが、盗賊の目をかすめて財宝をゲットして云々……というようなお話だと思っていたが、映画を観てみたら、ぜんぜん違ったので、今回説明しようと思う。
 
 
アリババは、バグダッドの王子だった。
 
 
しかし折からのモンゴル軍の攻撃に、バグダッドは苦境に立たされている。
 
そして奸臣の寝返りで、ついに城は陥落。
 
父王は殺され、アリババは九死に一生を得て逃亡に成功した。
 
 
逃亡中、たまたま通りかかった岩山で、周辺を荒らし回っていた盗賊団の隠れ家の扉を開けるキーワード「開けゴマ!」を知ってしまう。
 
盗賊団が戻って来て、少年アリババはとっつかまるが、頭領に気に入られて、盗賊団に加わる。
 
 
それから歳月が流れ、アリババは立派な頭領に成長していた。
 
盗賊団は義賊として知られるようになっていた。
 
バグダッド市民は、相変わらずモンゴルの圧制に苦しめられている。
 
アリババは盗賊団を率い、奇計を用いてバグダッドに攻め込み、見事、父の仇の佞臣とモンゴル王を打ち倒し、しかも許嫁の女性とめでたく結ばれるのである。
 
 
と、思わずオチまで書いてしまったが、どうせ誰も見ないだろうから、いいや。
 
 
 
 
この映画は洋画なので、キャストの多くは西洋人である。
 
ヒロインの女性も金髪碧眼。
 
そして池で水浴びをしている女性をアリババが見初めるという、イスラムではあり得ない設定もある。
 
 
しかしこれは驚くに当たらない。
 
 
プラド美術館に数多飾られている「受胎告知」、「聖家族」、「最後の晩餐」などのキリスト教絵画は、時代が下るに従って、登場人物はみんな西洋人貴族になっていき、食事もどんどんゴージャスになっていくのだから。
 
 
 
 
それはともかく、この映画ではモンゴルが、とんでもない悪者として描かれているのが興味深い。
 
冒頭のシーンで、モンゴル王は、
 
「カリフを見つけて殺すまで、毎日市民を100人殺す」
 
と明言する。
 
 
実際モンゴルは、かなり凄惨な殺戮をしたそうだ。
 
町中を根絶やしにしたあと、モンゴル軍が去った時に鳴らすラッパを町中で吹かせて、隠れていた市民が「やれやれ」と出てきたところを殺すとか。
 
あるいは砂漠のオアシスの生命線である水源をぶっ壊すという「オキテ破り」を平気でやって、廃墟になった町が無数にあったらしい。
 
 
 
そんな感じなので、
 
「モンゴルは文化の破壊しかもたらさなかった」
 
と主張する学者の論説を、いくつか読んだことがある。
 
 
 
しかしそれは、おそらく彼らに攻め込まれた西洋やイスラムの学者の捏造だろうと思う。
 
 
実際はモンゴルが、あの膨大な大帝国を築いたことで、東西交流はそれまでになく活発になった。
 
 
その証拠に、大旅行家といわれるマルコ・ポーロやイブン・バトウータ、ウイリアム・ルブルック、プラノ・カルピニなどは、すべてモンゴル帝国の時代に輩出されているのだ。
 
たった100年ほどでしかないが、東西の風通しがとてもよくなった瞬間だったのである。
 
13世紀の、この一瞬の「風」が、その後の大航海時代につながる下地になったことは言うまでもない。
 
 
 
 
関係ないけど、もうひとつ面白かったのは、アリババがモンゴルにつかまり、オリの中に入れられているとき、アリババに悪口雑言を吐きかける男がいるのだが、彼のセリフの中に、
 
 
「南京虫に刺されて、イボまみれになってしまえ!」
 
 
というのがあった。
 
南京虫は数あるベッドバグの中でも「最強」の誉れ高い極悪虫である。
 
刺されると最低一週間はかゆみが消えない。
 
痒みと同時に痛みもあり、掻くとそれが倍増される。
 
ダニやノミも強力だが、「タチの悪さ」はその比ではない。
 
ということで旅行者の間では悪名高い南京虫だが、1000年前のお話にも出てくるのである。
 
 
 
また「イボまみれ」になることが、アラビアでは屈辱的なことなんだなあと、妙に納得してしまった。
 
宮崎市定教授の本に、確かバグダッドの風土病の話が出てきたのだが、あるいはそれと関係あるのかもしれないと、なんとなく思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食肉の思想 2008年07月27日22:23
 
 
「食肉の思想」(鯖田豊之 中公新書)
 
最近読んだ本の中で、バツグンに面白かった。
 
西洋人の思考を、食肉の文化から鋭く分析する一冊である。
 
 
 
欧州は放牧に非常に適した土地だったので、西洋人は昔から家畜を飼って暮らしていた。
 
 
家畜を身近に暮らしていると動物と人間との峻別が必要になってくる。
 
彼らは人間と動物の立場を、厳しく別け隔てた。
 
 
「動物愛護と動物と畜の同居するヨーロッパ特有の条件から、どのような思想的方向が生まれたのであろうか。
 予想される回答は一つしかない。人間と動物のあいだにはっきりと一線を劃し、人間をあらゆるものの上位におくことである」
 
 
こうして西洋の「人間中心主義」が形成されていった。
 
そしてこれを思想的に強力に支持したのがキリスト教であった。
 
 
「神は人間の食料として動物をお与えくださった」
 
 
という思想は、西洋人の自己中心主義を正当化したわけだ。
 
 
 
そしてこの動物と人間の間の「断絶論理」は、次第に異教徒や非西洋への排撃に発展し、さらに農民と市民の断絶、王侯貴族と市民の断絶へと広がっていく。
 
 
近代の日本とフランスの、支配階級の全人口に対する割合を比較すると、ゼロがひとケタ違うそうだ。
 
しかも日本の武士は、西洋人が驚くほど貧乏であった。
 
つまり西洋では富の偏りが、日本とは比較にならないほど、すさまじいのだ。
 
これについては、私も似たような感想を持った。
 
スペイン王室の豪華絢爛な宮殿。
 
 
そして肝心の一般市民は、その中に足を踏み入れることは許されなかったそうだ。
 
 
そんな一方的な富の偏重を、一般市民がいつまでも許しておくはずがない。
 
フランスで革命が起こり、イギリスでいち早く議会政治が興ったのも無理もないのである。
 
それは裏返せば、西洋の「断絶論理」によるキビシイ階級社会への、人々の激しい反発であったのだ。
 
 
 
こういう「断絶理論」は、現在もかなり有効に作用しているように思える。
 
 
 
「何世紀にもわたる欧米諸国の植民地支配の歴史は、殺されていった多くの非ヨーロッパ人の血にいろどられている。もちろん、現在では、たいていの植民地が独立し、こうしたことは過去の悪夢になりつつある。けれども、精神構造だけを問題にすれば、事情はそう変わっていない。ヨーロッパ人は世界のどこへ行っても自分たちの言語や生活習慣でおしとおそうとする。現地の方で彼らにあわすのがあたりまえだと思っている。ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人のあいだには、一線がひかれたままである」
 
 
 
ヨーロッパの人間中心主義は、ルネサンス以降の科学の追究など、人類に貢献した一方で、強者と弱者を厳しく峻別する。
 
 
 
「それは一方で人間的なものを追求する原動力になると同時に、他方では、人間を完全人間と劣等人間にわける、とぎすまされた断絶論理を産みだすのである」
 
 
 
この間の読売新聞の連載記事「転機の米社会3」は、アメリカの信じられないくらい高額な医療費についての特集だった。
 
急性白血病で治療を受けた女性は、検査料で480万円、入院費で640万円請求されたそうだ。
 
 
常に強くなければならないアメリカ社会では、病気になるような弱い人間は、生存する権利がないと見なされるものらしい。
 
 
強い者と弱い者の断絶は、西洋文明が極まったアメリカで、やはり頂点に達したと言えるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トルコとイラン 2008年07月23日19:08
 
前に「ロバ中山の旅日記」以下のような日記を書いたことがある。
 
 
 
 
少々長いけれども抜粋しよう。
 
 
 
それで思い出したのだが、イランとトルコというのは、いろんな意味で面白い共通点と対照点があるのだった。
 
 
いずれも非アラブのイスラム国家で、このふたつの民族がイスラム社会に与えた影響は多大なのだが、しかし現代史における発展過程は対照的なのである。
 
 
トルコは1923年の独立と民主化以降、一貫して西側&資本主義路線である。
 
ムスタファ・ケマルは政教分離を強行して、アラビア文字を廃してアルファベットを採用した。
 
一方のイランは、パーレビ国王の資本主義路線が破綻して1979年にイスラム革命が起こる。
 
それ以降は一貫した政教一致政策であり、アラビア語表記である。
 
 
これらをまとめると以下のようになる。
 
 
 
            トルコ     イラン
 
言語          トルコ語    ペルシア語
言語表記        アルファベット アラビア語
宗派          スンニ派    シーア派
イスラム社会への影響  政治的     文化的
政治体制        政教分離    政教一致
政治政策        資本主義親米  社会主義反米
気質          武人的     文人的
主な産業        農業      石油産業
 
民族          非アラブ    非アラブ
人口          7000万人  7000万人
 
 
この両国は歴史上も一種のライバル関係であった。
 
オスマントルコ帝国とイランのサファビー朝は長年の抗争相手で、トルコがフランスと同盟すれば、イランはトルコの宿敵であるところのハプスブルグ家オーストリアと同盟した。
 
イスラム社会に与えた影響は、トルコ民族が軍事的、政治的なものであるのに対して、イランが与えたものは洗練されたペルシア文化であった。
 
トルコが無骨で武断的、軍人的な気質が濃いのに対して、イランは文治的、芸術的であるとも言える。
 
実際にオスマン帝国の宮廷言葉はペルシア語とアラビア語であったという。
 
他にも探せばもっと多くの共通点、対照点があるに違いない。
 
このように非常に対照的な両国なのである。
 
 
最後に決定的に両国の評価が異なること。
 
 
それは、トルコは比較的平和な国で、イランは危険なテロ国家であるという世界中の人々の認識である。
 
これは紛れもなくCNNをはじめとした西洋諸国の偏重報道によるのである。
 
アメリカに迎合する国は平和国家であり、反発する国はテロ国家であるというレッテルを貼られる。
 
しかしイランもトルコもイスラム国家であることには変わりはない。
 
イランが誇る世界に冠たる歴史的遺跡といえば、トルコに勝るとも劣らないのである。
 
そして現地の人々の、旅人に親切なこともトルコにも劣らないのである。
 
しかし多くの観光客は、この国を敬遠する。
 
それは一方にきわめて偏った報道による影響が大きいのである。
 
私たちは報道という、いかにも公明正大を装った権威というものに、いつも疑問を持っていなければいけないと思う。
 
 
 
ということで、いつも通りの論調なんだけど、最近の読売新聞のコラム「ワールドビュー」に面白い記事が載っていた。
 
トルコではケマルの共和国制定以来、政教分離政策が行われているわけだが、最近はそれに対する国民の反発が激化している。
 
 
 
「トルコでは90年近く「入欧」を目指しながら、世俗化が進んた欧州のように神が死ぬことはなかった。内陸部に入れば、個人ではなく家族が共同体秩序の根幹をなすイスラム社会が厳然と現れる」
 
 
 
というのはこの日記でも取り上げている通りである。
 
 
 
そして一方のイランでは、ホメイニの革命以来、政教一致の反西洋路線をつらぬいているわけだが、しかし国民の間では「世俗化」が進んでいるそうだ。
 
 
「もっとも印象的だったのは、ドバイからテヘランに向かう機内でのイラン人乗客の変身ぶりだった。隣の席で抱擁を重ねていた若い男女も、客室乗務員にウイスキーを所望した一家のあるじも、着陸態勢に入ると、一斉に「良きムスリム」に戻ったのだ」
 
 
というわけでイラン人の間では、トルコとは真逆に、厳格なイスラム社会に対する閉塞感が明らかに強くなっているらしい。
 
旅行者から聞いた話でも、イランからトルコ領内にバスが入った瞬間に、
 
「ふう、暑かった!」
 
と言ってスカーフをとってしまうイラン人女性がたくさんいるそうだ。
 
 
世俗化に反対して宗教色を強めるトルコと、ホメイニ革命に辟易して世俗化を強めるイラン。
 
 
この両国が、どこまで行っても好対照なのは、たいへん興味深い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピラミッドとザヒ博士 2008年07月21日22:47
 
日テレが特番で追いかけているエジプト考古学発掘調査とザヒ博士。
 
 
このオジサンのなんとも言えない「胡散臭さ」は、見てみて思わず苦笑してしまう。
 
 
インタビューではネクタイを締めて登場していた。
 
ネクタイというのは、イスラム社会では「西洋の象徴」として忌み嫌われているのだが、それを平気で着用しているあたり、このオジサンの俗物ぶりが如実に表れているだろう。
 
 
 
先日、仕事でフィフィさんというエジプト人のタレントさんにインタビューしたんだが、彼女が言うには、
 
「エジプトではピラミッドというのは、単に商売のためにとってあるもので、誰もリスペクトなんかしていない」
 
という主旨の話をしていた。
 
それを聞いて、なるほどと思った。
 
 
イスラム社会では、イスラム教以前の時代のことを「ジャヒリーヤ(無道時代)」という。
 
イスラムという最初で最後の普遍宗教が出現する前の世界は、「道理が通用しない時代」、つまり野蛮な時代であったと考えるのだ。
 
 
だから多くのエジプト人にとって、ピラミッドなんていうのは、ジャヒリーヤのころのどうでもいい遺物に過ぎない。
 
 
そのせいか、アラブ諸国の博物館というのは、日本人からすると、かなりぞんざいな展示がなされているように思われる。
 
カイロの考古学博物館も、その半分くらいは「物置がわり」で、数千年前の出土品が無造作に乱雑に並んでいる。
 
 
シリアの博物館もそうだった。
 
 
当初私は、それらは単に政府の予算が少ないためだろうと思っていた。
 
しかし、たぶん違う。
 
 
 
そういう無道時代の遺物を研究するザヒ博士が、ヨーロピアナイズドされた教養人で、ネクタイを締めてテレビに登場するのも当然なのかもしれない。
 
しかしセクハラギリギリのところまで異常に馴れ馴れしく中山エミリに接近するあたりは、いかにも「ただのアラブのエロオヤジ」という感じで、毎度毎度笑ってしまう。
 
私の嫁さんはイエメンで会ったドライバーのおっさんに、「一発やらせろ」と、かなりしつこく言い寄られて辟易したそうだ。
 
異教徒の若い女は、多くのムスリムの男にとって、露骨な性欲の対象なのである。
 
 
日テレが、このエロオヤジをどこまでヨイショし続けるのか、興味深く見守っていきたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランス大聖堂 2008年07月19日20:57
 
 
NHKの世界遺産の番組で取り上げられていたフランスの巨大な教会である。
 
 
ものすごくデカイ。
 
高さは80メートルもある。
 
1200体もの彫像が彫られている。
 
 
 
こういうバカデカイ教会を、スペインやポルトガルでいくつも見た。
 
 
そのひとつが、かのガウディのサグラダファミリアだが、それはおいておくとして、これらの国の教会の立派さには驚くばかりだ。
 
 
どんな小さな町に行っても、立派な教会が、周囲を睥睨するようにして、町のど真ん中に建っているのだ。
 
 
そしてそういう豪奢の限りを尽くした教会や修道院などの建築を見て歩いているうちに、これらカトリック教国が、なぜ近代以降ふるわなかったのかが、わかるような気がした。
 
 
要するにバカデカイ教会を建てるのに莫大な金が捻出され、本来必要だったインフラに手が回らなかったのである。
 
新大陸が生み出す膨大な富も、おそらくその多くが教会の建築に回されてしまったんだろう。
 
 
「政教分離」という思想が、西洋から登場したのには、おそらくそういう苦い経験があったからなんだろうと思う。
 
 
 
番組では、上記の教会は中世のころの庶民の心の拠り所だったと紹介していたけれど、私は別の意見も聞いたことがある。
 
同じくポルトガルのとある教会の説明書きには、教会内には王侯貴族と宗教関係者以外は立ち入りが許されていなかったそうだ。
 
一般庶民は、教会の外でミサに参加したのだという。
 
 
つまり当時のポルトガルの教会というのは、単に巨大な国家権力の象徴なのであって、決して庶民のための宗教施設ではなかった。
 
 
こういう傾向がポルトガルだけだったのか、それともフランスもスペインもそうだったのかは知らない。
 
しかしヨーロッパでいち早く市民革命が起こった背景には、こういう巨大な浪費を垂れ流し続ける権力者に対する反抗が大きかったのは間違いないだろう。
 
日本の武士が、「権力は持っていたけれども貧乏だった」という、世界でもほとんど奇跡ともいえるような、清廉な政治が行われていたのとは、まるで違うのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東西ローマ帝国 2008年07月18日23:42
 
 
ローマ帝国は395年に東西に分裂した。
 
そしてその80年後の476年、折からのゲルマン族の南下によって、西ローマ帝国は、あっけなく滅亡してしまう。
 
 
一方で東ローマ帝国はビザンチン帝国と名前を変えて、その後1000年に渡って繁栄する。
 
ビザンチン帝国が滅んだのは、1453年に、オスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落したときだ。
 
 
西ローマ帝国と東ローマ帝国。
 
 
なぜ西ローマ帝国は、いとも簡単に滅んでしまったのだろうか?
 
そしてなぜ、東ローマ帝国は、しぶとく生き残り続けたのだろうか?
 
 
 
私の中では断然、西ローマ帝国の方が強いイメージがあった。
 
それはおそらく、現在の世界情勢の影響が強いからだろう。
 
フランスやイタリアやスペインを含む西ローマ帝国は、東欧やギリシア、トルコあたりの、あまりパッとしない国々と比べて、明らかに分があるように思われる。
 
フランスとギリシアなら、どう考えてもフランスの方が先進的なのである。
 
 
だから西ローマの方が強いような印象があるのだと思う。
 
 
 
しかし実際は違った。
 
 
当時は西ローマ帝国よりも、東ローマ帝国の方が、圧倒的に国力があったはずなのである。
 
 
なぜなら東ローマ帝国は、東方貿易を押さえていたからだ。
 
 
五世紀から六世紀の東ローマは、現在のバルカン半島からトルコ、中近東、エジプトにかけてを支配していた。
 
従ってインドや中国からの産物は、必ずこの国を経由してヨーロッパにもたらされたわけだ。
 
 
 
この日記で何度も書いているように、当時の文明の光はペルシアから先の東方にあったのだ。
 
 
 
「茶の世界史」(角山栄 中公新書)は、飲茶の習慣が西洋に広まっていく過程と西洋の植民地主義の広がりの関連を明らかにした名著だけれど、この中に面白い指摘がある。
 
 
西洋には、お茶とコーヒーとココアが、ほぼ同時に伝えられたそうだが、当時の西洋の上流階級は、その中からお茶を選び、好んで飲んだという。その理由は、
 
 
「東洋文化のシンボルであった茶はコーヒーやチョコレートに比べると、はるかに高いランクを占めていたばかりか、西洋人に強いコンプレックスを抱かせるものであった」
 
 
16世紀にもなって、西洋人はいまだ東洋に対する文化的憧憬を抱いていたわけだ。
 
 
(ちなみにこの本では、その後の西洋人が、現在の石油に匹敵する砂糖の貿易を、黒人奴隷をこき使って発展させ、富を築いていった過程が描かれていて興味深い)
 
 
 
東方との交易を一手に引き受けて莫大な富を稼ぐビザンチン帝国は、ゲルマンの野蛮人どもを退けはしたが、西洋諸国の妬みを買い続けることになる。
 
それが「第四回十字軍」の不可解なコンスタンチノープル攻撃につながり、これによって疲弊した帝国が、オスマントルコに攻撃されて陥落する大きな遠因となるのである。
 
 
 
このビザンチン帝国崩壊が、西洋に与えたショックは相当なものだったらしい。
 
この直後から、彼らは真剣に、「イスラム商人を介さない東方交易の方法」を模索し始めるのだ。
 
 
 
西洋人の東方に対する強烈な憧憬は、身内を滅ぼし、さらに一見して無謀な大航海に彼らを駆り立てるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大使館なんかいらない 2008年07月11日00:07
 
前の日記で、洞爺湖サミット終了について、
 
 
「多くの人が右往左往して、たいへんだったんだろうから、まずはみなさんお疲れ様でしたという感じだろうか」
 
 
と書いたけれど、こういう風に書いた背景には、上記タイトルの本のことがアタマにあったからだ。
 
 
「大使館なんかいらない」(久家義之 幻冬社文庫)
 
 
は元外務相医務官だった著者の、びっくり仰天するような外務官僚のお役所仕事ぶりが告発されていて、かなり面白い本である。
 
 
その中にこんなお話が出てくる。
 
 
サウジアラビアに時の首相海部俊樹が来訪することになり、大使館は上を下への大騒ぎになる。
 
少々長くなるが、面白いので以下に引用しよう。
 
 
 
「午前六時、首相秘書に朝食の確認に行く。
 
前に届いたお粥も用意していたが、今朝は迎賓館のルームサービスにするという。これならわたしは注文するだけだから楽勝だ。
 
地下の調理場行こうとすると、顔の長い秘書がわたしを呼び止めた。
 
「総理はゆで卵はきっかり三分ボイルしたものしか召し上がりませんから、よろしく」
 
(中略)
 
何を言われるのかと一瞬緊張したが、卵のゆで時間くらいならお安いご用だ。わたしはコック長に「ジャスト スリー ミニッツ」と念を押した。
 
(中略)
 
ゆで卵が届いたところで、茶坊主秘書が卵の試し割りをした。
 
「あ、これは硬すぎる。ほんとうに三分きっかりですか」
 
「もちろん」
 
「でも黄身が固まっている。ねえ」
 
「三分ゆでたあと、すぐ氷水につけましたか」
 
「はあっ?」
 
「氷水につけないと、余熱で固まっちゃうんですよ」
 
そんなこと聞いてない。これでなんとかと言いかけると、「まだ間に合いますから、もう一度ゆでなおしてきてください」。
 
わたしは卵の籠を持って地下の厨房まで走った」
 
 
 
このあと著者はコック長と時間を計り、言われたとおりに氷水で冷やして持っていった。
 
 
 
「あ、今度は生すぎる」
 
「えー、言われた通りしたんですよ」
 
「しかし、やわらかすぎる。白身が半分透明じゃありませんか」
 
わたしは最後まで話を聞かず、卵の籠をひったくった」
 
 
 
後ろで「三分きっかりですよ」という秘書の声を聞きながら、著者は再度地下へ直行。
 
今度は「三分半で氷水」と、「二分半でただの水」のふた通りの方法でゆで直し、もう一度秘書が試し割りをする。
 
 
 
「うーん、どちらもちがうな。勝手にアレンジしちゃダメですよ。もう一度、きっかり三分、氷水でお願いします」
 
 
仕方なくまた卵を抱えて戻ると、コック長が怒鳴る。
 
「いったいどんな卵がいるんだ。それを言え。作ってやるから」
 
 
 
そしてできたゆで卵を試し割りした秘書は、
 
 
 
「これだ!」
 
と叫んだ。
 
「さ、早く、総理の食卓へ」
 
しかし、一行はすでにデザートも食べ終え、食後の一服に入っていた。
 
結局、完成品のゆで卵には首相は手もつけず、総計百に余る卵がこの朝消費された……」
 
 
 
ということである。
 
海部首相がそれほどゆで卵にコダワリがあるのかどうか知らないが、この文章を読む限り、その側近連中が、無意味に気を遣っている雰囲気が感じられる。
 
こういうことが、外務省を始め、多くの役所で日常茶飯に行われているのかもしれない。
 
 
この間の岩手の大地震の時に、福田首相が見舞いに行ったのか、どうだったが忘れてしまったけれど、地元の役所の人々はその対応に大わらわになるに違いない。
 
 
そして無事に終了した洞爺湖サミットも。
 
 
各大使館の駐在員さんも、国家元首の側近に無理難題を言われて辟易したのかもしれない。
 
 
ホントに大使館なんていらないよな、と思ってしまう一冊である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
洞爺湖サミット終了 2008年07月10日01:47
 
とりあえずつつがなく終わったような洞爺湖サミット。
 
多くの人が右往左往して、たいへんだったんだろうから、まずはみなさんお疲れ様でしたという感じだろうか。
 
 
 
今回のサミットでは、環境問題と同時に原油高騰が主な議題だったそうだ。
 
 
原油の高騰には、もちろんいろいろな原因があるんだろうが、一番の元凶と言えるのが投機マネーだろう。
 
中国やインドで需要があることから、「まだ儲かる」ということで、価格をつり上げている連中がいるわけだ。
 
つまり世界中の無数の人々から金を吸い上げている、ごく一握りの、ジョージ・ソロスみたいな連中がいる。
 
その一方で、ガソリンが高くて操業を停止する漁船が出る。
 
 
世界レベルで、ものすごい格差社会が進行しているのだ。
 
 
 
これについて、最近読んでいる岩波ブックレットの「データブック 貧困」(西川潤著)に興味深いデータが載っていた。
 
 
ある国の最富裕層20%が、その国の所得の何%を所有しているか、というデータである。
 
それによると、
 
ハンガリー37%
ノルウエー37%
カナダ  40%
インド  45%
アメリカ 46%
 
 
などとなっており、先進国はおおむね格差が少ないようだ。
 
そして、
 
 
ケニア  49%
マレーシア54%
フィリピン55%
メキシコ 55%
 
と徐々に上がっていき、ついには、
 
 
ブラジル  61%
南ア    62%
シエラレオネ63%
 
 
 
となる。
 
国民の二割にしか満たない人々が、その国の所得の六割以上を独占している国もあるのだ。
 
シエラレオネに至っては、最貧困層20%は、全所得のたったの0.5%しか所有していない。
 
 
その差、126倍である。
 
 
日本の最貧困層が月収20万円くらいだとたら、最富裕層はその126倍、つまり月収2500万円もらっていることになる。
 
 
 
その差額は、もう想像すらつかないほどだ。
 
 
 
シエラレオネという国は、前の日記にでも書いたとおり、どうしようもないダメな国である。
 
しかし多かれ少なかれ、世界中のどこの国も、同じような、とんでもない貧富の差があるのが普通なのだ。
 
私が訪ねた国の中で、そういう格差が比較的少ないと感じたのは、イランくらいのものだ。
 
 
 
そして肝心の日本はどうだったかというと、富裕層が占める所得は、たったの36%に過ぎないのだ。
 
そして最貧困層が占める所得は、他の国と比較して圧倒的に多い4.8%。
 
 
その差は7.4倍に過ぎない。
 
 
月給20万円の貧困層と比べると、富裕層は月給150万円程度。
 
まあそんなものかと納得できるのではないだろうか。
 
 
日本は格差社会が問題になっているけれど、他の世界の国々と比べたら、その格差はほんの微々たるものでしかないことがわかる。
 
 
なんだかんだ言っても、日本はよくできた国なのだと思う。
 
 
そしてそういう巨大な不公平がまかり通っている世の中こそが、世界の普通の状態なのであることを、私たちはもっと知るべきだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
生きてこそ 2008年07月09日00:22
 
 
ウルグアイのラグビー選抜チームが、チリでの大会に向けて空路移動中、アンデス山中に飛行機が墜落。
 
生き残った十数名が、ひと冬越冬して、救助された。
 
その過程で食糧が尽き、死亡した人の人肉を食って飢えをしのいだという、実話をもとにした映画である。
 
 
 
食べなければ死んでしまう。
 
じゃあ誰が最初に食うか。
 
その葛藤が描かれる。
 
 
 
 
ずいぶん前に読んだ「たった一人の生還」(佐野三治 新潮社)という本は、海での遭難の記録だ。
 
レース中に遭難したヨットから、乗組員全員がゴムボートで脱出。
 
太平洋を漂う間に、乗組員が次々に死んでいく中、著者ただひとりが救出されたという壮絶な記録である。
 
 
興味深かったのは、救援ヘリがやって来て、誰もが、
 
「やれやれこれで助かった」
 
と安堵していたら、何日経っても救援は来ず、見落とされたことがわかった途端、乗組員が次々と息絶えていくという事実だ。
 
 
希望というのは、人間にとってこれほど大切なものかと、しみじみ思った。
 
 
 
それでこの映画「生きてこそ」では、人々の希望はいったいなんだったのか。
 
 
それは神様なのである。
 
 
本編中、神に関するセリフがいくつも出てくる。
 
 
「神の存在を肌で感じた」
 
「神の守りを感じる」
 
「神を近くに感じる」
 
「神は美しい」
 
「神が僕らを導いておられる」
 
「この眺めは神だ」
 
 
 
 
ここで日本人なら、
 
 
「ホトケの存在を肌で感じた」
 
とか、
 
「大日如来を近くに感じる」
 
 
などとは絶対に言わないのである。
 
 
 
キリスト教徒にとって神とは、かくも強力なものなのだ。
 
日本人がもっと現実的に「救援」を心の拠り所とするのに対して、彼らは「神の存在」を支えにして生き延びる。
 
 
西洋人は、もっぱら合理的で現実的な印象が強いわけだが、彼らにとって神様の存在は、我々が思っている以上に大きいらしい。
 
 
 
もちろんこの映画は南米が舞台なので、カトリックである。
 
プロテスタントとの違いは当然あるだろう。
 
 
 
イスラエルに行ったとき、巡礼で訪れているのは、もっぱらスペイン、イタリア、ロシアなどのカトリックあるいはギリシア正教系のキリスト教徒だった。
 
 
アメリカ人も巡礼に来ていた。
 
しかし彼らはユダヤ教徒だった。
 
 
プロテスタントのアメリカ人に尋ねてみると、
 
「オレは単純に観光客だよ。普通のアメリカ人は、巡礼よりも観光で来るだろうね」
 
とのことだった。
 
 
 
それにしても、
 
「神の存在を肌で感じた」
 
というのは、いったいどういう感覚なんだろうか。
 
 
現世御利益の私としては想像もつかない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オーシャンズ11 2008年07月08日00:47
 
 
豪華キャストで話題になった映画である。
 
ラスベガスのカジノを金庫破りするお話。
 
 
出演者は、ブラッド・ピット、アンディ・ガルシア、マッド・デイモン、ジュリア・ロバーツと大物揃いで、それだけで、
 
出演料いくら払ってんだ?
 
というバブリーな配役である。
 
 
こういう話題先行で設けようという姿勢がアザトイよな。
 
好きになれそうにない映画だ。
 
 
 
 
前に読んだ「経済ってそういうことだったのか会議」(佐藤雅彦・竹中平蔵 日経新聞社)に、佐藤氏が経験したこんな話が載っていた。
 
手元にないので、うろ覚えで恐縮なのですが、
 
 
佐藤氏に民放のドラマに関する仕事のオファーがあったそうだ。
 
企画書を読んでみると、
 
テーマ音楽は小室哲哉、歌手はグローブ、脚本はなんとかいう有名な人、主役はだれそれ……という感じで、誰もが知っている大物の名前がズラリと並んでいた。
 
それで佐藤氏が、どういう内容のドラマなのか尋ねてみると、ストーリーはまったく決まっていないというのだ。
 
つまり話題作りだけが先行していて、内容はまったく未定なのである。
 
↑確かそんな話。
 
 
 
 
いまの世の中は、クオリティは重要ではない。
 
見栄えや外見が重要なのだ。
 
 
ということを痛感したエピソードだった。
(テレビ業界というイカサマ業界だから特にそうなのかもしれないが)
 
 
 
 
前に「ランキングな世の中」という日記で書いたけれども、格差社会の影響で、多くの人は収入が減りつつある。
 
 
その乏しい小遣いを本代に充てるのだから、ハズレは買いたくない。
 
 
それで売り上げランキング1位の本や、著名な作家の本しか売れなくなる。
 
格差社会が、作家の間にも格差を生じさせているわけだ。
 
 
そして世の中は、ますます保守化していくわけである。
 
 
 
 
 
ということで、この映画も、有名俳優を掻き集めただけの話題作で、話はつまんないんだろうなあ……と思って借りてみてみたわけである。
 
 
 
 
そしたらさ。
 
 
 
 
面白かったのよ。
 
 
 
 
難攻不落の地下金庫が見事に破られるスリリングな展開がドキドキモノである。
 
金と女の両方を失ってしまうアンディ・ガルシアがまた渋い。
 
そしてラスベガスの金満ぶり。
 
 
あまりにコトがうまくいきすぎるという感じもしないでもないし、また11人全員がいいヤツで、仲間割れしないとか、そういうもの若干物足りない気もするが、そういうのを差し引いても、けっこう楽しめる作品だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タミネーター2 タミネーター3 2008年07月07日12:43
 
 
テレビでやっていた「2」を思わず観てしまい、触発されて「3」を借りてきて観た。
 
 
低予算の1作目、お金のかかった話題作の2作目に比べて、あまり話題にならなかった気がする3作目である。
 
 
しかし観てみたら、なかなかのデキだ。
 
前半のクレーン車で町をぶっ壊していくシーンは圧巻。
 
そして敵役ロボット「T−X」の女がめっぽう色っぽい。
 
さらに前2作ではみられない秀逸なギャグが、あちこちにまぶしてあり、これも効果的で、なかなか笑えた。
 
中盤からラストにかけては、若干詰め込みすぎな気もするが、全体としてはけっこう楽しめる内容である。
 
 
 
それで「2」のテーマというのは、ずばり「NO FATE」である。
 
つまり「運命なんてない」。
 
 
未来は自分たちで切り開いていくものだ。宿命なんてないんだ。
 
 
というのが、監督のメッセージのようだ。
 
 
 
監督は「タイタニック」でお馴染みのジェームズ・キャメロンである。
 
そういえば「タイタニック」のテーマも同じだった。
 
ヒロインの女の子は、九死に一生を得たあと、受動的な貴族暮らしと決別して活動的な女性となり、幸せな人生を送ったことになっている。
 
 
運命は自分で切り開くもの。
 
 
ジェームズ・キャメロンという監督は、もとトラックの運転手だったが、映画業に転身した、言ってみれば成り上がり者である。
 
だからかどうか知らないが、そういうテーマが好きなのかもしれない。
 
 
そして映画監督として成功してからは、とっかえひっかえ、4回も結婚と離婚を繰り返している。
 
タミネーターのヒロイン役の、リンダ・ハミルトンとも結婚して2年で離婚している。
 
性格に問題があるのかどうか知らないが、ともかく「運命の人」なんて、この人は信じていないんだろう。
 
 
 
 
しかし「3」になると、テーマは真逆になってしまう。
 
人間がどんなに抵抗しても、運命には逆らえない。
 
機械が勝手に人間を殺し始めるプログラムは起動してしまう。
 
いままでのジョン・コナーなど、主人公たちの苦労はいったいなんだったんだ? 
 
という救いのない結末である。
 
 
 
「3」の監督はジョナサン・モストウという人で、ハーバード出身の秀才だ。
 
この辺の毛並みのよさと、キャメロンの叩き上げの違いが、宿命観の違いになって表れているのかもしれないが、私としては「3」の方が好きである。
 
キャメロンの「人間万能主義」は東洋人にとってはアクが強すぎるように思う。
 
それよりもモストウ監督の「無常観」の方が性に合う。
 
 
 
たとえば邦画で同じようなタイムスリップを扱った映画「戦国自衛隊」では、千葉真一以下、乱世で生き延びようと必死にあらがうけれども、結局は全滅してしまう。
 
生き残ったのは、村娘と恋仲になった「かまやつ」ひとりだけである。
 
 
 
運命なんて変えられない。
 
しょせん人間なんてちっぽけで非力な存在なのだ。
 
 
 
そういう結論の方が、私たちにはしっくりくる。
 
 
キャメロンの「人間中心主義」は、あまりに西洋的な傲岸不遜が感じられて、私は好きになれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
洞爺湖サミット 2008年07月06日21:19
 
 
今日の読売新聞の「編集手帳」に、30年前のサミットについての、こんな一文が載っていた。
 
 
「欧米の首脳たちがリラックスした様子で、一団となって歩いている。福田首相は一人だけ、1メートルほど遅れてついていく。 (中略) 初期のころのサミットの、お定まりの光景だ。日本の総理大臣はいつも隅の方にいて、どこか「出席させてもらっている」という雰囲気だった」
 
 
確かに昔のサミットの風景というのはそんな感じだった。
 
 
背の高い欧米人に囲まれて、隅っこにひとりだけチビがいる。
 
それが日本の首相だった。
 
 
そして実際「出席させてもらっていた」のが実情だったんじゃないだろうか。
 
本来、西洋人の西洋人のための会議なんだから。
 
 
 
しかしこのときの福田総理の孤独感は、外国を一人旅した人なら、少しは理解できるのではないだろうか。
 
 
西洋人旅行者に囲まれて、まるで言葉がわからず、仲間に入れてもらったような入れてもらっていないような感じで、あとをついていく。
 
メシを食うときも、隅っこの方でひとりで食う。
 
その孤独感は、もしかしたらまるっきりひとりで食うよりも大きかったかもしれない。
 
 
日本という国は、世界でも本当に特殊な国だとしみじみ思う。
 
 
 
最近になって、韓国人旅行者がとても増えた。
 
日本のガイドブックの韓国版を持って旅行する人が多いせいか、日本人が集まる宿には韓国人も多い。
 
だから韓国人と一緒に旅行する日本人も多いようだ。
 
 
一部の旅行者は、
 
「韓国人が増えて、うざいですよね」
 
といっていたが、私はそうは思わない。
 
あのときの孤独に比べたら、言葉が通じなくても、同じ顔の旅行者がそばにいるだけで、どれだけ心強いだろうか。
 
 
サミットにも韓国の大統領が出席するようになったら、きっと日本の首相も、ずいぶん心強いに違いない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英国紙の失礼な論評 2008年07月05日16:09
 
 
ヤフーのニュースに、
 
 
「行方不明の日本」英紙フィナンシャル・タイムズ サミット控え辛口批評
7月5日8時0分配信 産経新聞
 
 
と題した失礼な批評が載っていたので、私のコメントを交えながら引用しよう。
 
 
 
 7日から始まる主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)を前に、4日付英紙フィナンシャル・タイムズ(アジア版)は、「行方不明の日本 姿が見えないサミット主催国」との見出しの辛口論評を掲載した。
 
 論評は「日本は世界で2番目に強力な経済を持ちながら、政治的には姿を見せていないも同然だ」とし、「サミット主催者の福田康夫(首相)はベルリンからブエノスアイレスまで(新聞の)1面に登場するだろう。それが閉幕したとき、日本は影の中に戻っていきかねない」と警告した。
 
 
 
↑じゃあたとえば、捕鯨問題について、日本が他の捕鯨国を代表してリーダーシップを発揮したとしたらどうだろうか。
 
真っ先に叩かれるのは目に見えているだろう。
 
日本という国は国際関係の中で、たいへん微妙な位置にある。
 
かつての大英帝国のおかげで子分がいっぱいいるイギリスや、フランスのような国とは違うのだ。
 
そしてもうひとつは、司馬遼太郎が指摘するように、日本は談合体質の国なのである。
 
逆に言えば合議制の国なのだ。
 
だからアメリカの大統領のように強力なリーダーは必要ない。
 
首相の「姿が見えない」のは当然なのだ。
 
 
 
 
 
 論評は「台頭する大国、成熟した大国とも、各国政府はかつてなく時間をかけて、地政学的展望を探し求めるべく占いの水晶玉に見入っている」とし、そうした取り組みにおける日本の不在を指摘し、「そればかりか、新しい秩序における日本の地位は滅多に、仲間の国々からの言及にすら値しない」と断じている。
 
もともと白人が支配する国際社会で唯一、有色人種国家の日本が、目立たないように配慮するのは当たり前だろう。
 
オマエたちのような「傲慢が既得権益になっている国」とは違うのだ。
 
 
 
 論評は、世界の力の均衡が急速に変化しつつあるとし、「アジアの世紀とは中国とインドのことだ」と、日本に代わって両国が台頭してきたと言明している。
 
 
↑オマエの国なんか100年前に、すでに終わってるじゃないか。
 
 
 
 
ということで、他国についてここまで失礼なことを言うものなんだろうか?
 
 
はっきり言ってイギリスにとっては、日本なんて極東の遙か彼方の国は、ほとんどなんの利害関係もないと言ってもいいんだろう。
 
だからここまで失礼な批評をしても関係ないと思っているのかもしれない。
 
特にこの新聞は経済誌だし。
 
 
 
彼らは、東洋人に対して、国際社会で白人と同様に振る舞えと勝手なことを要求している。
 
日本人が美徳とする「奥ゆかしさ」とか「控えめな」というような謙譲的な姿勢は、彼らにとっては「姿が見えない」「意見がない」になってしまう。
 
 
金がない頃は「東洋のサル」と笑われ、金持ちになると「意見がない」と非難される。
 
結局、西洋人社会にとって日本という国は、どこまで行っても「異物」であり、理解不能な「わけのわからない連中」なんだろうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「TAXI2」 2008年07月03日23:27
 
リュック・ベッソンという監督は、よっぽど日本という国が好きらしい。
 
好きらしいというよりも笑いものにしたいらしい。
 
 
今日、たまたまテレ東で「TAXI2」という映画がやっていて、半分くらいから断片的に見ていたんだけど、日本の人がたくさん出てきて、なかなか興味深かった。
 
 
その中に登場する日本人たちは、「エッフェル塔」に対して異常な関心を示すのである。
 
おそらく日本のツアー客がごっそり押し寄せ、それを揶揄しているのであろうことは想像に難くない。
 
 
 
もうひとつ興味深かったことがある。
 
 
日本のギャング団を取り逃がしたところでの、主人公のタクシードライバーのセリフである。
 
 
「犯人たちはどんな車に乗っていたんだ?」
 
「黒のミツビシだ。タイヤも日本製だ」
 
「なんでそんなことがわかるんだ?」
 
「魚のニオイがするんだ」
 
 
日本人が生魚を食うことを、からかっているわけだ。
 
 
 
もちろん、こんなのはジョークなんだから、いちいち文句をいうのは大人げない。
 
 
だから我々も言ってやろう。
 
「ミシュランのタイヤはすぐわかる。チーズ臭いからだ」
 
 
 
こういう風に日本をからかうわりには、この映画に出てくるニンジャが、中国武術と混同されていたりする。
 
 
人をバカにするようなジョークを差し込むなら、それ相応に相手のことを研究してからというのが、礼儀というものではないだろうか。
 
 
 
ヨーロッパ人というのは、日本とかアジアのことについて、本当にまったくなんの興味もない人が大部分である。
 
 
二十一世紀に入って八年も経つのに、日本と中国の区別がついていない人が圧倒的大多数である。
 
「わけのわからない言葉を話す、メガネをかけた、七三分けの連中」
 
というのは、残念ながら、いまだに多くの西洋人の日本人像なのだと、この映画を観ていて改めて思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブラッド・ダイヤモンド」 2008年07月03日00:08
 
久しぶりにデカプリオ主演の映画を観た。
 
「タイタニック」の頃は生意気な若造という印象だったけど、いつの間にかシブイ俳優になっていた。
 
今回の役所の「世事に長けた大胆不敵な闇バイヤー」も、なかなか堂に入った演技だった。
 
 
あらすじを説明すると……。
 
 
舞台は西アフリカのシエラレオネ。
 
反政府勢力「RUF」が勢力を増して、国内は内乱状態。
 
黒人漁師のバンデはRUFに拉致されて、ダイヤモンド採掘場で奴隷同然の強制労働に従事させられる。
 
しかしそこで、世にも珍しいピンク色の巨大なダイヤモンドの原石を発見。人知れず隠してしまう。
 
 
 
一方ダイヤモンドの闇輸出を手がけるデカプリオは、内乱の危険を承知でシエラレオネに潜入。
 
そこで「ブラッド・ダイヤモンド」のウワサを聞きつけ、バンデの信用を勝ち取り、彼を説き伏せて、ダイヤを探しに旅に出る……。
 
 
 
この映画では、シエラレオネの内乱が、完全に国外の利害によって左右されていることを鋭く指摘している。
 
「国際ダイヤモンド輸出機構」(←パタリロにこんなのが出てきたよな)諸国は、RUFが勝手に大量のダイヤモンドを放出して価格が暴落するのを恐れて、政府軍にテコ入れしている。
 
ダイヤの価格を法外に高く釣り上げるために、産出された大量のダイヤは、スイスかどっかの銀行の奥深くに保管されている。
 
 
「給料の三ヶ月分を払う連中に買わせたいからな」
 
 
デカプリオのセリフは、ただの石ころに莫大な価値を認める世間一般を皮肉っている。
 
 
 
 
外国の利害に大きく左右されて、シエラレオネに平和が訪れることはない。
 
デカプリオが理想主義者の女性ジャーナリストに対して吐く、こんなセリフがある。
 
 
「救援に来ても、力不足で落ち込むだけだ。政府高官は搾取し尽くして外国に逃げる。TIAだよ」
 
 
「TIA」とは、
 
「This is Africa」
 
の略だ。
 
 
 
ダイヤの採掘権を巡って、政府軍と反政府軍は激しい戦闘を繰り広げ、最終的に首都のフリータウンは反政府軍の手に落ちる。
 
 
 
「もしも反政府軍が乱入してきても、オレはここに止まるよ。ここはオレの国だからな」
 
そう言っていた、デカプリオの行きつけのバーのマスターも死んでしまう。
 
 
一方で、「ブラッドダイヤモンド」とともに国外脱出に成功したバンデは、バイヤーに10数億円で売り飛ばし、難民キャンプに入れられていた家族をイギリスに呼び寄せる。
 
そしてダイヤを巡る違法な取引を告発して、一躍、時の人となる。
 
国際会議に招待されてスピーチをする。
 
スーツを着たバンデが壇上に向かって歩き始めるところで映画は終わる。
 
 
ウソをつけない、木訥で純朴な漁師バンデが、最後には成功を手に入れる。
 
一見して「正直者は報われる」を地で行く、正しい終わり方のように思われる。
 
 
 
しかし私はそうは思わない。
 
 
おそらくバンデが体現していのは、
 
「西洋人にとっての理想的な人生」
 
に過ぎないからだ。
 
 
 
 
イギリスに到着した家族を抱きしめるバンデ = よき父親
 
 
ブラッドダイヤモンドで莫大なカネ = 富
 
 
国際会議に招待されてスピーチ = 名誉
 
 
 
西洋人が「成功」とみなすすべてのものを、バンデは手に入れる。
 
それは一見してハッピーエンドである。
 
 
 
 
しかし本当にそうだろうか。
 
 
バンデは本当にイギリスに住みたいのだろうか。
 
大きな国際会議で、普段着たこともないスーツを着て、大勢の白人たちを前に演説する。
 
 
それが彼にとって幸せなんだろうか。
 
 
彼にとって本当に幸せなのは、地元の平和な漁村で、のんびり漁師を営むことではないのだろうか。
 
そして冒頭のシーンにあったように、デキのいい息子が大学に進学して医者になることではないだろうか。
 
 
 
この映画は最初から最後まで、シエラレオネという国が、
 
「救いようのないダメな国」
 
というニュアンスで描かれている。
 
 
 
実際そうだろう。
 
こに日記でも再三書いているとおり、アフリカの多くの国は、ダメな政府のダメな国だ。
 
 
 
しかしそこに生きている国民にとっては、生まれ育った土地なのであって、世界中のどこよりも居心地がいいはずなのだ。
 
 
 
この映画の制作者は、アフリカの黒人にとっても、西洋諸国は住みやすい国だと思いこんでいる。
 
 
「アフリカは不潔で、危険で、貧しくて、救いようがない」
 
 
そういう抜きがたい偏見に満ちている。
 
 
 
確かに西洋人にとってはそうかもしれない。
 
日本人にとっても。
 
 
 
しかし現地の人々にとっては、必ずしもそうではない。
 
 
 
私は西洋人が理想とする成功の道を歩み始めるバンデの姿に、西洋人の救いようのないエゴを見たように思う。
 
 
アフリカの貧困や飢餓を、こういうカタチで映画のテーマにするのは、ある意味で卑怯だと思う。
 
 
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