最新!! 大航海時代とモルッカ諸島 2009年12月18日02:15
「大航海時代とモルッカ諸島」(生田滋 中公新書)
香料貿易に介入し始めるポルトガルとスペインと、香料諸島の王様や住民とのやりとりを、豊富な資料から細かく解説する内容だが、期待していたほどは面白くなかった。
それでも興味深かったのは、現地の王様や住民が、ポルトガルやスペインの提督と、かなり対等に渡り合っていることである。
むかついたらポルトガルの要塞に食料を供給しなくなり、ポルトガルのカピタンが謝罪に行ったりする。
ポルトガルとスペインの対立をうまく利用しようと暗躍する大臣がいる。
舐められてぼったくられたりもする。
当時は現代のように、文明に圧倒的な格差がなかった、とてもおおらかな時代だったんだなあと感心した。
ところで関係ないけど面白かったこと。
この地域(インドネシア中部の島々)では、短剣のことを「クリス」といったそうだ。
ネパールのグルカ兵が持っている山刀を「ククリ」という。
そしてトルコでは剣のことを「KILIC」(「C」はトルコ語特有の文字でアルファベットにはない)で「キリチュ」というのである。
クリスとククリとキリチュ
どう考えても偶然とは思えない一致である。
誰か研究した人はいないんだろうか。
この本でもう一つおもしろかったこと。
この当時の交易というと、香辛料を中心に語られることが圧倒的に多いわけである。
しかし専門家である著者の見解によると違うらしいのだ。
実は当時、インド洋を中心にした交易品で最も重要だったのは、インド、グジャラート地方の綿織物だったという。
綿織物は、高価なものでありながら日用品として欠かせないものでもあったので、各地で大変な需要があった。
そしてその綿織物と、各地の産品が交換されたわけだが、そのひとつが香辛料であったという。
「よくインド洋貿易圏の貿易で中心となる商品は香料であったといわれるが、それはインド洋貿易圏から地中海貿易圏への輸出品のほとんどが香料であったことから生じた誤解であって、実際には香料はインド洋貿易圏内の各地がグジャラート、コロマンデル、ベンガル産の綿織物を入手するための見返りの商品の一つだったのである」(「大航海時代とモルッカ諸島」生田滋 中公新書)
インドには綿織物の他にも、様々な交易品があった。
当時インドに滞在していたポルトガル人の記録によれば、水銀、辰砂(水銀と硫黄の化合物)、クミン、銀、陶器などで、そのほかに、
「大きなタライのような形をしたジャワ製の金属製の鐘」、つまりゴングがあった。
「彼はゴングについて「国王や身分の高い人々はそれを大変珍重し、大小にかかわらず、それを宝物として保存している」と述べている」
プロレスの開始の合図である「ゴング」は、おそらくこれが語源なんだろうが、それはともかく、私はこのゴングに似たものを、ラダックやネパール、カンボジアの民家で、何度も見かけたことがある。
壁一面に、銅製の大きな器が、ズラッと並んでいるのだ。
家族に、これはいったいなにに使う物なのか尋ねたら、
「人がたくさん来たときに宴会に使うのだ」
という答えだった。
しかし、それにしても腑に落ちなかったんだが、この記述を読んで大変納得したのであった。
どこの世界でも貴族趣味というのは、年月とともに庶民に下ってくるものだ。
一般庶民の間でも、ゴングが宝物として認知され、それが現在でも通用しているのである……きっと!
ラダックの民家には、居間にこんな感じでズラッと銅製食器が並んでいる。
カンボジアのトンレサップ湖の水上集落でも、台所に金属のタライが並んでいた。
ホントに環境に優しいのか!? 2009年12月17日16:47
前に「ロハスというのは、企業がものを売るために新しく考え出した戦略だ」と書きました。
「環境にいい」という新しい付加価値は、「安い」とか「性能がいい」とかいう付加価値とまったく同じなわけです。
最近、納豆のパックに「環境に優しい」と書いてあったので、なにが変わったのかと思ったら、タレの小袋がなくなったそうです。
確かに環境には少しだけよくなったんでしょうが、それなら軽プラスチックのパックはなぜやめないんだろう? とギモンに思いました。
似たような商品が二つ並んでいて、片方に「環境に優しい」と書いてあれば、多くの人はそっちを選ぶでしょう。
それが隣の商品と、程度において、ほとんど差がないとしても。
その辺は企業も承知しているのか、この納豆のパックには、かなり小さな字で「小袋なしで環境にやさしい」と書いてありましたw
日本人や他の先進国の人々が考えている「環境に優しい」というのは、所詮そんなモノなんだと思います。
便利なモノは、多少環境に悪くても使う。
それ自体は仕方がないことだと思います。
しかしそれなら、途上国の人々に排出削減を強いるのは不当ではないかと私は思います。
電気も水道もない途上国の人たちにとって、あこがれの商品はテレビですが、彼らがそういう便利なモノを利用する権利、言い換えれば地球を汚す権利を、どうして我々が取り上げることができるでしょうか。
ホントはJRに乗った方が、ぜんぜん環境にいいはずなのに、不景気で車が売れないから高速道路が無料になったりする。
明らかに矛盾する政策が、先進国で当然のように行われていては、途上国の人たちが納得するはずがないと私は思うのですが……。
略奪の海 カリブ 2009年12月15日03:14
増田義郎教授による岩波新書の同書。
いろいろと面白いことが書いてあったのでご報告したい。
なによりもこの本、著者のイギリス批判が好ましいのである。
ドレイクについて
フランシス・ドレイクという人は、マゼランに次いで2番目に世界周航をしたイギリス人である。
彼はイギリス政府公認の海賊であった。
当時のヨーロッパの大国はイスパニアであった。
この国の力の源泉は新大陸である。
従って、イギリス、フランスなどの新興国は、なんとかこの利権に食い込もうと必死であった。
その方策のひとつが、イスパニアの貨物船に対する海賊行為であった。
ドレイクは、世界周航しながら、行く先々でイスパニアの船を攻撃し、積み荷を略奪して回った。
その結果、イギリスに帰国した時の彼の積み荷は莫大なものになっていた。
「ドレイクのもたらした富は、六〇万ポンドという莫大な金額にのぼった。エリザベス女王は、四七〇〇パーセントの配当金を得たという。ゴールデン・ハイント号のもたらした富について、経済学者ジョン・メイナード・ケインズは「貨幣について」という論文の中でつぎのように言っている。
「ほんとうのところ、ドレイクがゴールデン・ハイント号に乗せて持ち帰った略奪品が、イギリスの海外投資の源泉となり基礎となったと考えてよい。エリザベス女王は、その配当金で外債を全部精算し、おまけに残金の一部をレヴァント会社に投資した」」
この利益が、後のイギリスの大発展を支える東インド会社設立につながったというのである。
もちろんこういう外聞のよくない歴史的事実はイギリスも隠したい。
だからあまりおおっぴらにされないのだろう。
それにしてもそういう事実を冷静に分析するケインズという学者はすごい。
ピルグリムファザーズの真相
メイフラワー号に乗って新天地を求めてアメリカに渡った102人の新教徒の話は有名である。
なんとなく美談として語られるこの逸話だが、実はその背景にはイギリス政府の意図が隠されていた。
北アメリカ植民を強力に推し進めたのはウォルター・ローリーという人物だが、彼のアタマには、やはりイスパニア船の略奪があったらしい。
「北緯三五ないし四〇度の地中海性気候の温暖な土地を見つけ、そこで強力な植民地をつくってから、カリブ海のエスパニャ領をうかがい、同時にフロリダ海峡を通って本国にむかう銀輸送船団襲撃の機会を狙おう、というのがローリーの意図だったようである」
新教徒の植民は、単なる美談ではなかった。
結局その裏にはイスパニアの富をかすめ取るという、さもしいモチベーションしかなかったというのは、どうにも悲しい。
イギリスの奴隷貿易廃止宣言
これがこのほんの白眉である。
これも美談として語られる、イギリスによる世界に先駆けた奴隷貿易の廃止である。
とかく人道的とかいわれるが、実はそうでもないようだ。
18世紀半ばには、インドの支配権も確定し、蒸気機関によって産業革命も進み始めたイギリスにとって、カリブ海の砂糖産業は、さほど重要ではなくなっていた。
「西インドの経済体制がイギリスにとって絶対必要ではなくなり、それどころか経済的損失をもたらすことが明白になったころから、奴隷制にたいするイギリス人の道徳的反省の声がさわがしくなり、一八〇七年に、イギリス議会は奴隷貿易廃止、一八三三年に奴隷制度廃止という崇高なる決断をくだしたのである」
私は思うんだけど、黒人奴隷のような、世襲的奴隷を作り出したのは西洋人だけではないかと思う。
イスラム社会では、アイユーブ朝のようなトルコ人奴隷による王朝というのがあるように、奴隷は一代限りで、しかも金を積めば放免されるのが普通だった。
確かにエジプトのヌビア人のように、歴史上ずっと奴隷にされた人々もいるけれど、しかし彼らはオスマン朝の宦官として、宮廷では隠然たる勢力を持っていた。
家畜のように奴隷をこき使ったのは、新大陸における西洋人くらいではないかと思う。
彼らは奴隷貿易廃止という「崇高なる決断」をしたわけだが、それは実は自分たちが生み出した悪行を精算したに過ぎないのではないか。
しかし彼らは、それをあたかも「全人類の罪」のように宣伝している。
ここでも私は、村上兵衛氏の言葉を思い出すのである。
すなわち西洋人は、実はヨーロッパ内の内ゲバに過ぎないナチスのホロコーストを、まるで人類共通の問題のようにして提出するのである。
そのほかにも興味深いエピソード満載の同著。
私はストロングにリコメンドする。
途上国の教育問題 2009年12月09日15:37
先日、アフリカの黒人について書いたら、いくつか反響をいただいたので、補足的に加筆しようと思います。
黒人が信用できないのは、教育を受けてないからではないか。だったらきちんと教育を受けるようにすればよいではないか。
という意見をいただきました。
そこでたとえば、現地に学校たてるという、日本のどこかの基金に募金したとしましょう。
そして集まった義援金が、アフリカのどこかの国の教育省とかの口座に振り込まれたとしましょう。
おそらくそのうちの半分を大統領が持って行くでしょう。
残りを一族と側近が持って行くでしょう。
現地の学校建設には、ほんのわずかなお金だけが使われるでしょう。
それでもなんとか学校が建ったとします。
しかし子供たちはサバンナの奥地の、車で数時間の集落に暮らしています。
道はもちろん未舗装でドロドロのぬかるみで、公共交通機関なんかありません。
一日一台トラックが通ればいいくらいです。
つまり学校ができても、遠すぎて通学できない子供がたくさんいる、というよりもほとんどなわけです。
それでも運よく、自分の集落の近くに学校が建ったとしましょう。
しかし今度は親の理解がないのです。
親も学校に行ったことがないから、学校がどんなものかわからない。
教育の重要性がわからない。
勉強よりも家の仕事を手伝ってほしい。
途上国では水くみが大変な仕事です。
片道一時間、往復二時間、朝晩二回で四時間かけて水くみに行ったりします。
そしてそういう仕事は世界中どこでも女子供の仕事です。
だから子供たちは現実問題として、学校ができても通えないのです。
統計的に途上国では、小学校の入学率は非常に高いですが、卒業する子供はほとんどいません。
家事手伝いや弟妹の世話が忙しくて、学校なんか行けないのです。
JICAの人が言ってましが、海外援助では、井戸を掘って、子供たちの負担を軽減することが大きな目的なんだそうです。
逆に言えばそれだけ子供たちは水くみに時間を費やしているわけです。
現状は未だそんな段階です。
おそらくアフリカの教育レベルが日本並みになるのには、100年以上かかるのではないでしょうか。
最後に「照葉樹林文化」(上山春平編 中公新書)という本の最後の最後に、意味深な記述があります。
中尾 黄色人種は同質的なグループだという印象をぼくは強く受けている。黄色人種と白色人種は顔つきが違うように精神構造の違いがあるかというと、それは大問題だけれども、そこのところは知っておかねばらならん問題が残っている。ぼくはそれは違いがあると思うんですよ。それを優劣があるというと困るけれども、差はあると思うな。
上山 いまの人類学ではあまりそんなことをいわないことになってますね。
中尾 つっつかないことになっている。
少なくとも中尾教授は「差はある」と考えていたようです。
現実はどうなのか、わかりませんが。
フィリピン知事一族ら62人拘束 2009年12月08日01:29
この間、国際面で報道されていた、フィリピンのミンダナオ島での大量殺害事件の続報である。
この事件は、フィリピン地方選挙に絡んで、ミンダナオ島のマギンダナオ州知事が、出馬予定だった対立候補の一族57人を殺害したという、恐るべき事件である。
警察と軍は数千人の兵力を展開して、州知事一族62人を拘束したという。
何でこんなに軍隊が必要なのかというと、州知事は傭兵部隊4000人を持っていて、完全武装していたからだ。
すごいよね。西南戦争みたいだ。
北海道知事が私兵団4000名で知事公邸に立て籠もったとか、そういうレベルである。
もちろんこの州知事は地元の豪族である。
地元判事ともツーカーで、捜査令状を出させないようにしていたという。
やりたい放題の治外法権である。
こういうとんでもない連中は、しかし所詮、小粒である。
小粒だからやられてしまった。
世の中には、もっと巧妙に権力を維持している連中がたくさんいるのだ。
この間の国際面に、赤道ギニアというアフリカの小国の大統領選挙に関するベタ記事があった。
報道によると、現職大統領のヌゲマ氏が、得票率95%を獲得して再選したそうだ。
95%である。
ありえないだろ。
そして私の手元にある新聞のスクラップには、こんな記事がある。
「赤道ギニアでは、石油がもたらす富のほとんどを5%に満たない支配層が握る。国家のかじ取りを担うのは、叔父の前大統領を処刑し、以後、29年間権力を手放さないヌゲマ大統領だ。反政府運動で拘束された活動家は数知れないという。警察は常時、市民や政治活動に監視の目を光らせる」(読売新聞)
途上国ではこんなのふつうである。
一握りの大金持ちが国民を食い物にして、ODAも食いつぶして、平気で何十年も権力に居座っている。
そしてそいつらに多国籍企業がべったり癒着して、石油や鉱物資源を吸い上げていることは言うまでもない。
その企業の中に、日本の商社が含まれることも。
映画「2012年」みたいな天変地異で人類が滅亡したときが、人類が平等になる唯一の瞬間なのではないかと思えてくる。
黒人に対する偏見 2009年12月07日19:40
今日の読売の「顔」にイギリス人医師が特集されていた。
ブライアン・グリーンウッドという人で、ナイジェリア、ガンビアなどで三十年も医療活動に従事し、アフリカの黒人医師養成の奨学基金を設立したという。
「白人の医師と黒人の助手、というアフリカの医療現場に疑問を感じてきた」
私もそういうのを見たことがある。
パプアニューギニアで乗った国内線は、乗客からアテンダントまで、すべて現地人だったのに、パイロットだけは白人だった。
これについて前にも引用した曾野綾子氏の「貧困の光景」(新潮文庫)の一節を思い出す。
西アフリカのベナンという国の奥地に行こうとした著者は、セスナをチャーターした。
飛行場の事務所に顔を出したとき、著者は悟った。
「ほんとうにその瞬間、私は一つのアフリカの真実を発見したのだ。この飛行クラブのメンバーは、白人たちだけで構成され、飛行という命にかかわる機械的な部分だけは、一切黒人の手に委ねられていない、ということであった」
「タンクローリーが停まると、彼(黒人)は「蛇口」からビーカーのようなものに燃料を少し取って、パイロットに見せるようにかざした。それは儀式のような感じで、はっきりとブルーに染められた液体は、それがただの水ではないことを示していた。それからパイロットは、自分で飛行機に燃料を入れた」
肝心な部分は白人たちがやる。
黒人に任せたら、命に関わるような失敗が起こるかもしれない。
ガソリンに水が混ぜられて、飛行中にエンジンが停止したら、密林のジャングルに不時着することになる。
黒人は信用できない。
人道主義とか差別反対とかいっても、現実では厳然と、それが守られている。
その構図は、黒人国家が独立しても、アパルトヘイトがなくなっても、変わっていないのである。
翻って自分のことを考えてみる。
黒人が整備し、黒人が操縦する飛行機に乗りたいだろうか。
黒人が運営する病院で、黒人医師の手術を受けたいだろうか。
残念ながら私の答えは「いいえ」である。
もしも別の選択肢があるなら、迷わずそっちを選ぶと思う。
少なくとも今の段階では。
記事のイギリス人医師のような人物が、もっとたくさん現れて、私のような黒人に対する偏見がなくなり、信頼が勝ち取られる日が早く来ることを願うばかりである。
■砂漠の都市に豪雨で洪水、106人死亡…サウジ (読売新聞 - 11月29日 22:00)
砂漠地帯の中近東では、何百年に一度、こういう未曾有の大洪水が起こるものらしい。
そしてその記憶はギルガメシュ神話にあるような洪水伝説となって記録される。
旧約聖書の「ノアの方舟」の逸話は、バビロン捕囚でメソポタミアに連れて行かれたユダヤ人たちが、現地の洪水伝説を取り込んだものだといわれる。
アラビアのロレンスの自伝に興味深い記述があった。
「ワスタ」という町に関する文章である。
「一時代前には、ワスタは繁盛をきわめ、人家何千と称していたが、ある日、洪水が巨大な壁のようになって、ワディ・サフラに押し寄せ、数多くのシュロ樹園の堤防をこわし、シュロをさらい流してしまった。幾世紀ものあいだ。人家が建っていた島々は、水中に没し、泥の家屋は溶けて流れて、もとの泥となり、屋内の奴隷たちは不憫にもおぼれて死んでしまった」『砂漠の反乱 アラビアのロレンス自伝』(T・E・ロレンス 柏倉俊三訳)。
この洪水の大波は高さ8フィート(2.5m)にも達して、三日間濁流となって流れ続けたのだそうだ。
こういう未曾有の大洪水が、この砂漠地帯では、まれに起こるのである。
そしてこういう大災害の記憶が、「ノアの箱船」につながっていったに違いない。
ともあれ被災された方には同情するしかない。
ついにはじけたドバイのバブル 2009年11月28日13:40
兆候は一年くらい前からあったようだ。
昨年のNHKスペシャルの「沸騰都市」シリーズでも、飽和したバブル経済に縮小傾向が見えることが伝えられていた。
2006年にドバイを訪ねたとき、砂漠のど真ん中に次々と巨大ビルが建設されているのが壮観だった。
しかし一方でギモンにも思った。
そもそもなぜ、こんな砂漠に人が住まなくてはいけないのか。
ドバイでは農業はできないから、ほとんどすべての食材は輸入に頼ることになる。
水だってないから、日本の海水濾過システムで供給されているらしい。
ドバイは夏の高温に加えて、異常に湿気が高い。
だから空調は必須である。
何をするにもカネがかかる。
それがドバイという町だ。
「フードマイレージ」のような概念でいえば、恐ろしく非効率な町なのである。
石油が発見されるまで、この地域では、ナツメヤシと真珠くらいしか生産物はなかった。
その真珠採取も、日本の御木本幸吉が養殖に成功すると、あっという間に廃れてしまった。
砂漠のベドウインがナツメヤシを行商する、しがない貧乏国というのが、この国の本来の姿である。
ドバイにもっともカネを突っ込んでいたのがイギリスだそうだ。
湾岸諸国とイギリスの関係は深い。
かつてペルシャ湾は海賊の海だった。
イギリスの船舶も襲われた。
そこでイギリス政府は、地元の七つの部族の首長を集めて、地元の支配権を認める代わりに海賊行為をやめさせる保護条約を結んだ。
これが現在のアラブ首長国連合の始まりである。
その後、アッラーのお恵みで、この地域に油田が発見され、その利権を得たのもアメリカのガルフとBP(ブリティッシュペトロール)である。
そもそもイランで、世界で初めて石油採掘を始めたのはイギリスであった。
イギリス金融がドバイに何兆円も突っ込んだのにはワケがあるのだ。
世界一のタワービルを建てたり、ヤシの木型の人工島を造ったり、やりたい放題のアラブ人にもあきれるわけだが、それに便乗して大金を突っ込んで大損しかけているイギリス金融にも、同情の余地はないような気がする。
それにしても86円。
オレの豪ドル債は、元本割れしたまま2年目を迎える……。
イエメンという「国」 2009年11月23日14:20
イエメンの邦人誘拐事件について、読売新聞が、かなり実態に近い報道をしているので、というよりも記者が、佐藤寛氏の「イエメン もうひとつのアラビア」「イエメンものづくし」(アジア経済研究所)あたりを参考にして書いたと思われるので、紹介したい。
イエメンという国は、正確にいうと「国家」ではない。
というとおかしく聞こえるけれど、国際的に認められているイエメンの中央政府は、必ずしも国民を代弁しているわけではないのだ。
イエメンの大統領はサレハさんと言うが、彼は首都サナアの周辺を支配する部族の部族長だ。
周辺には敵対する部族がたくさんあり、その地域に行くと当然ながら警察権力は及ばない。
「北部は険しい山岳地帯に囲まれ、隔絶されている。一帯は独自の慣習法を持つ部族が治める(ミニ国家)を形成しており、殺人などでも警察はなかなか手を出せない」
「イエメンは近代国家の形態になっても、実質的には部族統治と変わらない」
つまりイエメンという「国家」には、実はあまり意味がない。
一般のイエメン人は、イエメン人であるよりも「イスラム教徒」であり「アラブ人」であるという意識が強いのである。
中央政権は、集めた税金を、自分の部族の支配地域に使ってしまう。
当たり前である。
長年、敵対してきた「親の仇」に「塩を送る」なんて、するはずがない。
だから地方のインフラ整備はまったく進んでおらず、報道にあるように、
「地方の武装勢力が、仲間の釈放や、時には、道路建設を求めて外国人を連れ去る」
というようなことが起こるのである。
「中央政権が地方部族のひとつであって、必ずしも国民すべてを代表していない」
という事実は、たとえばアフガンやソマリアで、なかなか治安の悪化が収まらない、もっとも大きな理由でもある。
中央政権が一部族(一民族)に過ぎず、これに敵対する敵部族(敵民族)がいくつも存在するのである。
反政府武装勢力というと即、テロリストになってしまうが、そうではない。
立場は中央政権とまったく変わらない。
ただ敵に政権を握られて不遇を託っている連中にすぎなのだ。
こう考えると、これらの国が国家的に破綻している理由が、非常に理解しやすい。
彼らは、どこぞの報道にあるような無法な連中でもない。
私たちは地方部族のご家庭に泊まりに行ったことがあるが、上にも置かぬ歓待ぶりであった。
村人はとても親切だったし、身の危険なんて感じたこともなかった。
今回の邦人が「客人として扱われている」というのも、私にはとてもよくわかる。
本来イスラム教徒には、「旅人はもてなすべし」というオキテがあるのだ。
確かにイエメンでは、男たちはフツーにライフルを担いで歩いている。
けれどもそれで殺人事件が起こることは滅多にない。
おそらく治安の悪さなら、同じ銃社会でもアメリカの方がよっぽど悪い。
子供が親を殺すというような事件は、二十年くらい起きていないそうだ。
またカートという麻薬がある。
コーヒーの親戚のような木で、葉っぱや新芽に弱い覚醒作用があり、イエメン人のほとんどの人はこれを食っている。
しかしドラッグのように錯乱したり幻覚を見たりする人はいない。
それにカートは合法的に売られていて、税金まで取られている。
それをテレビなどの報道では、
「イエメンは麻薬汚染が広がり、銃社会の危険な国」
になってしまう。
オランダのアムステルダムで大麻が合法的に売られていると、「先進的でオシャレ」になるのに、イエメンのカートは「麻薬」で危険であるという。
アメリカであれほど大量射殺事件が頻発しているのに、イエメンの銃社会は非常に危険で、ロクでもない国になってしまう。
こういうマスコミの偏見というか、差別的な見識は、そろそろ捨ててもらいたい。
カルザイの汚職体質 2009年11月21日02:23
結局、限りなく黒に近い選挙結果のまま、カルザイの2期目が始まった。
本日の読売には、
「治安・汚職 不安な船出」
と題して、国際面で大きく扱っている。
カルザイは、インタビューで、
「米欧の関与はアフガンのためではなく、テロと戦っているだけ。我々のことに関心などない」
と述べて、この発言に対して、米国では不快感が広がっているという。
当たり前じゃないか。
アメリカはアフガン国民のために戦争を起こしたわけではない。
ビンラディンをとっつかまえるためだ。
そしてそのアメリカからゴッソリ援助金をもらい、その大部分をフトコロに入れているのは、この人とその側近、つまりこの人の一族だろうに。
この発言は、最近になって選挙疑惑などで国際的に不評になったカルザイに対して、欧米諸国が援助金を出し渋るようになったことへの当てつけとしか思えないのである。
この人はいったいなにを言っているのだろうか。
そもそも「アフガン人」なんてものは存在しない。
アフガンの人々の帰属意識は、まずイスラム教徒であり、次に自分の部族である。
「イスラムの歴史では、血縁・言語・住所は人びとのアイデンティティにとってあまり重要な意味をもたなかったとよくいわれる。……宗教は、社会や人びとを凝集させる力であり、個人のアイデンティティを測る物差しであり、集団的な忠誠心の焦点でもあった」(「民族と国家」山内昌之 岩波新書)
アフガンなんていう、敵部族と一緒くたにされたカテゴリーなど、彼らにとっては、なんの意味もないのだ。
まさにそのことが、この地域で戦争がなくならない第一の原因なのである。
にもかかわらず、クリントン長官は、
「汚職が改善されない限り、民政支援は実施しない」
なんていう、トンチンカンなことを言う。
汚職がなくなるわけがないのだ。
なぜなら彼らにはアフガンという国家意識がないからである。
さらに記事は続く。
「米ワシントンポスト紙は18日、アフガンの鉱工業相が銅鉱山開発の見返りに、中国企業から約3000万ドルに上る巨額のわいろを受け取った疑惑を報じた」
記事はアフガン高官の汚職体質を指摘しているわけだが、しかし中国企業が槍玉に挙がっているところに、私は悪意を感じる。
これがもしもアメリカ企業だったら、ニュースになってただろうか?
もっというと、アフガン以外の他の国では、西洋の企業も同じようなことをやっているだろうに、中国企業がそれをやると叩かれるわけだ。
結局援助する方もされる方も同じようなもので、利益誘導体質は変わらないのだなあと思うのである。
割を食うのは、カルザイと敵対する、つまりパシュトゥン人と仲の悪い、タジク人とかハザラ人とか、そういう人たちなのだろう。
中東情勢を見る眼 2009年11月19日23:33
「中東情勢を見る眼」(瀬木耿太郎 岩波新書)
タイトル通り、中東情勢を見る眼が養われる一冊だが、中東関係の予備知識がないと、少々取っつきにくいかもしれない。
初版の時期がイランイラク戦争と重なっているため、イランとイラクについての記述が多く、それに関連して周辺諸国、シリア、サウジアラビア、エジプト、ヨルダン、レバノン、そしてイスラエルの予備知識も吸収できる。
しかしやはり白眉は、シリアとイランについての著者の碩学だろう。
まずシリアについて。
シリアの大統領は、アサドさんという。
パイロットだったオヤジがクーデターを起こして政権に就き、息子が継いだ。
大統領で世襲が行われるというだけで、この国の腐敗ぶりがよくわかるというものだが、それはともかく、アサド一族はイスラム教シーア派の、さらに少数派のアラウイ派という少数派である。
これは、この日記で何度も書いているとおりだが、この本で興味深い事実が示されている。
アラウイ派の人々は、実は十字軍でやって来た西洋人の末裔であるというのだ。
「シリアのアラウィ派の人たちも十字軍の子孫という説が有力である。アラウィ派はヌサイル派とも呼ばれるが、ヌサイルとはアラビア語の発音でナザレを意味している。ナザレはいうまでもなくイエスの生まれ故郷でキリスト教に縁が深い地名である」
現在のアサド大統領は非常な長身で碧眼であり、見た目は西洋人と変わらない。彼の容貌を見ていると、上記の説にも頷けるものがある。
シリアには比較的シーア派が多いが、彼らは、かつてバグダッドのアッバース朝がダマスカスのウマイヤ朝を滅ぼしたときに遠征してきたペルシャ人の子孫といわれている。
もともとシーア派は、ウマイヤ朝に暗殺された四代カリフのアリーと、その息子のフセインを崇拝する一派なので、シーア派のペルシャ人はウマイヤ朝に怨みがあったわけだ。
つまりシリアでは、現在でもシーア派の影響が強いことが伺われる。
そう考えると、現在において、なぜシリアとイランが仲がいいのか、という疑問が解けてくる。
そしてそのイランだが、ここでも面白い記述があった。
いわゆる「ホメイニ革命」は、それまでのパーレビ国王の行きすぎた民主化を非難して国外追放されたホメイニが指導した宗教革命であるという認識が一般的だと思うが、実態は違うらしい。
実際に革命運動を指導したのは「ムジャヒディン・ハルク」という組織で、その理論的指導者は、アヤトラ・タレカニであった。
78年12月、100万人を超える群衆がテヘランでデモを起こし、翌79年1月、ついにパーレビ国王は国外へ逃れ、革命は達成された。
「アヤトラ・ホメイニが、パリで帰国を声明した。するとどこからともなく、イスラムの聖職者たちが現われて、ホメイニ歓迎委員会がつくられた。そのメンバーは、これまでの革命の過程ではほとんど知られていなかった人たちであった。今やもっとも重要な問題は、ホメイニがイランへ帰ってきた時、空港で出迎える儀式の手配であった。しかしアヤトラ・タレカニの事務所には、なんの相談もなかった」
「全盛時代のシャー(国王)と生命を賭けて闘い、ようやくそれを打ち倒したのは、ムジャヒディン・ハルクやフェダイン・ハルクの若者たちであった。しかし革命が成就した後、政権を掌握したのは、彼らではなかった。そればかりか、彼らは新しい政権にとって邪魔な存在になってしまった」
ホメイニは、ムジャヒディン・ハルクの闘士たちを片っ端から捕らえて処刑した。
その後は、宗教警察が国民を監視し、若い男女が手をつないでいると警察にしょっ引かれるという、ウルトラコンサバなイランに変わっていったのは記憶に新しい。
このような事実を考慮した上で、先日のイランの民主化運動を見てみると、もともとホメイニ政権に正統性がなかったことが、実は根底にあったことが伺えるのである。
そして私たちが知っておくべきことは、大多数の国民は傍観者であり、ホメイニ革命も、先日の民主化運動も、一部の熱狂的な人々の運動であるに過ぎないということではないだろうか。
シアトルマリナーズの城島選手が、退団して日本プロ野球に復帰というニュースがあった。
ここ二年ほどあんまり出場していないと思ったらケガをしていたらしい。
大方のニュースも、太もものケガが原因で出場回数が激減という見方をしている。
しかし城島の本音がぽろっと出たコメントもあった。
「チームの若手起用の方針で出場機会が減り、さらに投手陣から敬遠されて先発マスクをかぶれない試合があったのも事実で、「体がなんともないのに出られないのはきつい」と話したことも」(mixiニュース)
「昨季から出場機会が激減しており「アメリカではこの2年間、悔しい思いをした」と述べた。さらに「球団に不満はまったくない。イチローさんと一日も長く野球をしたいという気持ちもあった」と胸中を明かした」(時事ニュース)
2週間前くらいのニュースで退団を決めた城島選手が、確かこんなことを言っていた。
「こっちに来てからずっとアウェーで、試合のたびにヤジを浴びていた」
英語が話せない日本人が、アメリカに行って苦労するのは想像に難くない。
それはもちろん日本に来た外国選手も同じだろうが、日本に来るメジャーリーガーとメジャーリーグに行くに日本人選手では立場が違う。
城島選手が、残り二年の契約を捨ててまで日本に戻ることを決めた理由は、要するにチームに馴染めなかったからだろう。
メジャーリーグで日本人選手が大活躍しているのは、日本人にとっては確かに鼻が高いことかもしれないが、逆に言えば多くのアメリカ人にとっては気に入らないことなんだろうと思う。
城島選手が、相手チームのヤジの槍玉に挙がり、チームメイトの投手から敬遠されるのも、なんだかわかる気がする。
特に捕手という、投手との信頼関係が必要なポジションなら、なおさら辛かっただろうと思う。
ともかく過酷な環境で四年間もプレーした城島選手に、ご苦労様と言ってあげたい。
キリスト教が排他的なのは世界の常識では? 2009年11月11日14:02
小沢氏の「キリスト教は排他的」発言が波紋を呼んでいるそうだが、そんなのは常識である。
「ほとんどすべての西洋諸国がキリスト教国で、ほとんどすべての西洋人がキリスト教徒なのはなぜか?」
ということを、ちょっと考えてみれば、彼らが異端を排除してきた歴史に思い至るだろう。
以下は、来年2月に天下の文芸春秋社から発売になる拙著「ハビビな人々」のボツ原稿からの抜粋である。
ヒンズー教 < イスラム教 < キリスト教
で排他度合いが大きくなっていくことがおわかりいただけると思う。
小沢氏の発言はまったく正当なのである。
西洋キリスト教社会から憎まれてきただけに、「西洋のフィルターを通して」日本に輸入されたイスラムの概念は、きわめて歪んでいたといわれる。
たとえば「コーランか剣か」という有名な言葉がある。
「ムスリムになるか、それとも死か」。
そこには
「二浪でむかえた大学受験とおろし金の滑り台 滑るとしたらどっち?」
といったジョークでは、当然ながら済まされない苛烈さがあるわけだが、そういう冗談はともかく、この言葉は捏造であった。
イスラムの為政者としては、異教徒がイスラムに改宗してもらうと困ったという。なぜなら教科書で習ったところの「人頭税」(ジズヤ)が減るからである。
だからイスラム社会には、「ムスリムになりたいのに改宗させてもらえない」キリスト教徒がたくさんいた。
安定した税収を確保するために、歴代イスラム帝国の為政者は、異教徒をムスリムに改宗させないことが重要な政策であった。特に奴隷には、イスラムに改宗する資格を認めなかったという。(中略)
西洋人=キリスト教徒である理由
イスラム教は異教徒に寛容であったが、一方でキリスト教は非常に排他的であった。社会学者の加藤秀俊氏によると、
「キリスト教というのはおそろしく過酷な宗教で、土着の「異教」をつぎからつぎへとせんめつさせてきたのであったが、たとえばハロウインにみられるような、およそキリスト教とはゆかりのない民俗信仰も、かたちをかえながら生き残っているのである」(『アメリカの小さな町から』 朝日選書)
「ハロウイン」は、もともとケルトの原始宗教ドルイドの風習だったそうだ。これがキリスト教に移植された。イエスの生誕日であるところのクリスマスも、もともとは冬至を祝う祭(つまりこの日から日が長くなることを祝う祭)が発祥であるともいわれる。
それはともかく「キリスト教は過酷な宗教である」というのは、ちょっと考えればよくわかる。ヨーロッパの、ほとんどすべての国がキリスト教国で、ほとんどすべての西洋人がキリスト教徒なのは、なぜだろうか。
それはまさしく、土着の宗教を殲滅してきた結果なのである。そしてめぼしい敵がいなくなると、今度は内ゲバを始めて、アリウス派とかネストリウス派とかいう宗派を異端として排撃し始める。それが終わったら今度は「魔女狩り」である。そしてユダヤ教徒が迫害される。いみじくもサルトルが、
「もし、ユダヤ教が存在しなければ、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を作り出さずにはおかないだろう」(『ユダヤ人』J・Pサルトル 安堂信也訳 岩波新書)
と言ったように、彼らは自分たちと異なる「異物」を見つけ出し、排撃したに違いないのである。
すべてを飲み込むヒンズー教
ところでそんなキリスト教と、まったく対照的なのがヒンズー教である。ヒンズー教は、他宗教を殲滅するのではなく、自分の中に取り込むことで巨大化してきた。
インド南部のマドゥライに「ミーナークシ寺院」というお寺があるが、ガイドブックによると、「ミーナークシ」というのは本来ドラビダ族の女神なんだそうだ。夫は「アリャハル」という土着の神様である。
しかし、いつの間にかヒンズーの女神「パールバディ」の化身ということになった。パールバディとは、インドでもっとも人気のある神様「シバ」の奥さんである。つまりこのままでは「重婚」ということになる。
そこで旦那の「アリャハル」は、あわれ「廃嫡」ならぬ「廃夫」させられ、兄貴に「格下げ」させられてしまったのであった。
つまりヒンズー教が新しい宗教、つまり異教の神様と出会うと、
「それはシバ神の化身ってことで」
とか、
「ビシュヌ神の奥さんってことで」
などといって、うまい具合に自分の神様の「親戚」に組み込んでしまうのである。
ヒンズー教には三億三千万の神様がいるそうだが、それはおそらく、このような手続きによって、土着の神様がヒンズーの新しい神様に加えられていった結果なのだろう。
ヒンズー教はこうして、インド各地の土着宗教と融合して巨大化していった。それはマハトマ・ガンジーの「非暴力・不服従」とも、どことなく通底する、非常に平和的なやり方であり、そこに砂漠の宗教であるイスラムやキリスト教ような一神教の苛烈さとは一線を画した、アジア的な寛容さを見る気がするのである。
そのような他宗教の取り込みは、キリスト教にたいしても例外ではないようだ。インド南部の町を散歩していると、道端にシバ神を祀る大きな祠がドデンとあった。当然ヒンズーのものだと思っていたら、よく見るとてっぺんに十字架が据え付けられている。なんとそれはキリスト教のお堂であった。
しかし祠の内部は、ロウソクで煤けたようになっていて、まるでヒンズーの祠である。そしてこれを見ると、キリストがヒンズーの神様のひとつのような印象を受けてしまうのだ。「土着宗教と融合する」というのは、まさにこんな風なものなんだろうと思った。
バージニア工科大学射殺事件との類似性 2009年11月09日00:21
テキサス州フォートフッド陸軍基地でのイスラム教徒軍医による銃乱射事件。
読売新聞では、アフガン戦闘の長期化による米兵士の精神的疲弊とからめて報道されているが、どうも根本的に違うような気がする。
むしろバージニア乱射事件と根っこは一緒ではないだろうか。
報道されているように犯人は熱心なイスラム教徒だった。
両親はパレスチナからの移民である。
彼は周囲から、ひどい嫌がらせを受けていたという。
事件の背景はバージニアの事件と酷似している。
加藤秀俊氏によれば、アメリカという国は常に「理想的なアメリカ人になることが要求される国」なんだそうである。
移民一世は、「よりアメリカ人になること」を二世に期待し、二世は三世に、同じことを期待する。
その意味で、アメリカという国の原点は過去にではなく未来にある。
だから若いことは、それ自体に価値がある。
多くのアメリカの老人が、異常にハデな格好をするのは、そういう若さに対する執着によるのだ。
「アメリカ文化の原点は未来である。未来に設定された理想的なアメリカ及びアメリカ人。それが現在を手招いている。そこでは過去は、もはや問題ではない。過去は、おおむねマイナスの価値をになっている」(「アメリカ人」加藤秀俊 講談社現代新書)
理想のアメリカ人。
その条件にイスラム教徒であることは含まれるだろうか。
あるいは英語が得意でない韓国人は含まれるだろうか。
彼らは理想のアメリカ人であることの条件から、はじめから疎外されていた。
それが彼らを孤立させたことは想像に難くない。
彼ら移民の子孫が抱き続けていた、西洋キリスト教社会における有色人あるいは異教徒の疎外感。
それが事件の背景にある、もっとも大きな原因だろう。
事件の前に、容疑者の軍医は、
「私は米国人である前にイスラム教徒だ」
と漏らしていたそうだ。
常にアメリカ人であることが要求されるこの国で、彼がそう公言していたという事実に、私は彼の孤独を見る気がする。
周囲に疎外され、宗教に没頭するより他に逃げ場がなかった、彼の寂しさを見るのである。
なぜ彼がこれほど追い込まれてしまったのか。
それを解明しなければ、次の乱射事件はまた起こるだろう。
ルーシー・ブラックマンさん事件 2009年11月07日13:19
かつて同じように、イギリス人女性を殺害した事件があったのは記憶に新しい。
この事件について、興味深い文章がある。
以前紹介した「 イギリス人はおかしい」(高尾慶子 文春文庫)に、イギリスで行方不明になった日本人女学生についての記述がある。
その女性は美人だった。
イギリスの警察はなにもしてくれないので、在留邦人が個人的に日本食料品店や日本食レストランにビラを貼った。
結局、事件は迷宮入りで、改めてイギリスの警察がいかにアテにならないかを英国在住の著者は厳しく非難し、こう続ける。
「しかし、私は一度として、英国のテレビ、新聞がこの女性について報道したのを見たことがないし、他の日本人も、知人の英国人も知らないと言った」
一方のルーシー・ブラックマンさんの事件。
日本でも大々的に報道され、警察の威信にかけて捜査が行われて、ついに犯人の男が逮捕されたわけだが、当時のイギリスでは、まったく違う見解がなされていたらしい。
「こちらの新聞各紙は日本の警察やマスミディアが真剣に捜査に取り組んでいないと非難したものが多く、日本をまるで無能で無法治国のように扱う記事が多かったことで、私はこの恥知らずの国民にあきれた」
自分の国で外国人が行方不明になっても、ろくに捜査もしないくせに、外国、特に東洋の有色人種の国で自国民の若い女性が猟奇犯罪に巻き込まれると、まるで無法国家呼ばわりのキビシイ非難が巻き起こる。
こんなこと、最近もなかっただろうか?
当時の報道によれば、
「少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日本製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。日本での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日本では今でも流通している」(読売新聞)
しかし考えてみれば、イギリスでもこのゲームは販売されていたのであって、つまりイギリスでも需要はあった。
製作した日本のゲーム会社と、それを許容する日本の法律を、彼らは非難するけれど、それを流通させたイギリス社会の悪弊は、お咎めなしなのである。(←ゲーム内容の是非についてはもちろん別問題だけどね)
そこに私はサイードの「オリエンタリズム」を見る。
彼らの東洋に対する偏見は底知れない。
著者の高尾氏は、むしろイギリスに抗議すらしない日本のだらしなさを嘆き、邦人が犠牲になった事件にもかかわらず、まったく腰を上げない日本大使館に憤る。
確かに日本政府の弱腰は、まったく情けない。
しかし私は、やはりイギリス人の間に根深く残る差別意識と、あくなき自己正当化の論理について考えずにはいられない。
なぜなら彼らのそういう意識こそが、現在の世界中の紛争の原因だと私は思うからである。
崩壊する出版業界 2009年11月07日12:30
先日、懇意にしていただいている光文社の編集長の会合に出席。
紙媒体が衰退に向かう中、どうやってネット上で利益を上げるかについて考えた。
出席者のひとり、書店営業のベテランK氏によれば、
「書店の担当者もまったくやる気がない。どうせ沈没していく業界だからというので、本を売る気すらない」
ということだった。
現在、全国に書店は15000軒あるそうだが、5年後には半分以下になっているという。
いまのところアマゾンのひとり勝ちなのだ。
そしてさらにその先には、テキストのダウンロードによる電子書籍の普及が待ちかまえている。
すっかり主流になった音楽ソフトのネット配信と同じように、書籍もデジタル化され、ネットからダウンロードしてi−phoneで読むのがフツーになるという。
紙媒体が、ほとんど消滅してしまうことは疑いない。
しかしそれはデメリットよりも、むしろメリットの方が多いのだ。
現在の書籍流通の流れをカンタンに図式化すると以下のようになる。
著者→出版社→印刷会社→製本会社→取次会社→運送会社→書店→読者
これがネット配信になると、
著者→読者
たったこれだけに圧縮される。
中間で抜かれていた様々な「手数料」がすべてゼロになる。
だから作品の値段は、現在1600円くらいなのがネット配信だと数百円になる。
著者の印税も、現在10%でしかないものが、100%になる可能性だってある。
いままでのアナログの書籍流通システムが、肥大化し硬直化していて、それがネットの普及によって破壊されつつあるのだと思う。
そしてその崩壊は、もはや避けられない。
おそらくテレビ業界も同じ運命にある。
プロデューサーがいてディレクターがいてタレントがいて、音声さんがいて照明さんがいて、その他よくわからない人がいっぱいいて、莫大な予算を使って製作されてきた番組が、YOUTUBEのシロウトの投降映像とまったく同じ扱いになる。
私のショボイウエブサイトも、パソコンの画面上では天下の朝日新聞のHPと同列である。
これは考えてみれば、ものすごいことだ。
これからはいままでの「権威」と呼ばれてきた巨大なメディアがどんどん崩壊していく。
そして「シロウトの一発芸」のようなサイトが大ヒットするようになる。
それはある種、痛快なことではある。
我々フリーの物書きが生き残って行くには、その時流に乗るしかない。
イギリス人はおかしい 2009年11月01日23:04
最近読んでいるのが、上記の本だ(高尾慶子 文春文庫刊)。
映画監督のリドリー・スコット氏のハウスキーパーとして働いた同氏が、労働者階級から見たイギリスの姿を描く快作である。
これまでの外国の滞在記というのは、たいがいエライ大学の先生か駐在員の見聞記が主流だった。
それは要するに現地のハイソサイエティの暮らしぶりであって、一般市民の生活というのは、あまり触れられなかったと思う。
内容も西洋賛美、日本批判のものが多い。
そこに、この関西のオバチャンが、言いたい放題イギリス人の悪口を書いているのが、思わず膝を打つほど痛快なのである。
たとえばこんな感じである。
「私は英国人のことを、北極の白熊さんと呼んでいる。色が白くて体が大きいだけで、知恵のほうはさっさとまわらず動きが鈍いのでは、北極の白熊と大差ないではないか。何をするにもほんとにのろくて、すべてにぐずぐず、さっさと動くことが大嫌いなのだ」
そののろまの英国人は列を作るのが大好きだ。銀行でも病院でも、何時間でも辛抱強く待ち続ける。
「郵便局、銀行、デパートや映画館のトイレ、スーパーはむろんのこと、劇場のチケット売り場……、そして病院は最悪。
救急車など、電話が鳴ると、それからやかんをガスにかけてお湯を沸かし、たばこを喫い喫い、紅茶を飲み終わり、雑誌などめくり、それからゆっくり運転台に乗っているにちがいない。何がプーピープーピーだ。あの間抜けなサイレンを聞くだけで腹が立つ」
最近イギリスの郵便局、ロイヤルメールの労働組合がストライキを起こして、郵便事情が大混乱だそうだが、電話会社も故障になかなか対応してくれない。
「この間スコット家中の部屋の電話が機能せず、停止してしまった。私はBT(ブリティッシュテレコム)にすぐ電話したが、テープが応答するばかりで、なかなか職員と直接喋れないのでいらつき、何十分か待って、やっと、人間が返事をした」
これは私も経験がある。
インドでトラベラーズチェックを盗まれたとき、イギリスのトーマスクックに電話したのだ。
出やしねえ。
出てもすぐ切れる。
こちらからかけ直すと言うので、いったん電話を切ったら二度とかかってこない。
かけ直したらまた音声案内である。
その間の国際電話、数千円は結局、こっち持ちだ。
ふざけるな。
しかしそれはイギリスではごく普通のことらしい。
著者が「NTTにかえる」というと、担当者は、
「日本の電話会社が英国に来たらBTは、あっという間に潰れます。NTTはやめてください」
彼らも日本の電話会社の迅速さは知っているのだ。
西洋諸国の窓口や店員の態度の横柄さ、怠惰ぶりは、外国の滞在記でよく指摘されるところだ。
世界一のサービスに慣れている日本人が外国に行って、そのサービスの悪さに辟易するのもムリからぬことだろう。
私たちは日本という国が、世界でもまれに見る、住みやすい国であることを、まず自覚するべきだろう。
そうすれば外国の劣悪なサービス、ムカツク店員の態度に、いちいち腹を立てることもなくなるというものだ。
彼らは日本よりも劣悪な環境に暮らしている、憐れむべき人々なのである。
ところでこの本で聞き捨てならない文章があったのでご報告しておく。
著者が飼い猫を亡くしてしまい、ペットの葬儀場に出向くと、受付の女性がこういうのだ。
「日本人は動物にとても残酷な国民と聞いていますが、あなたのように動物を愛する人もいるのですね」
いったいいつから日本人は動物に残酷な国民になったんだろうか。
きっとイルカやクジラを食うからだろう。
しかしここで反論させてもらえるなら、イギリス人が好む「キツネ狩り」は残酷ではないのか?
「イルカやクジラは高等動物だから殺すな」
という議論もあるそうだ。
では下等な動物は殺していいのか。
そもそも人間が勝手に動物に優劣をつけること自体、傲慢ではないのか。
というようなことは、この日記で何度も書いているので、お腹いっぱいなわけだが、腑に落ちないのは、著者がこの女の傲慢なひと言に、なんの反論も試みていないことである。
確かに他の部分では、イギリスのペット事情が、日本よりも進んでることが書かれていて、なるほどと思うのである。
しかし日本を残酷だと彼らが思うのと同じくらい、単なる遊びで猟犬にキツネを追い立てさせるイギリス人を、私は残酷だと思う。
「ギニア 野党デモ武力鎮圧で 軍政トップに辞任圧力」(読売)
ギニアといっても、知っている人は、ほとんどいないでしょう。
「アフリカのどっか」くらいだと思います。
私も行ったことはありませんが、近くを通ったことはあります。
西アフリカの小さな国です。
この国で軍事クーデターがあり、カマラという軍人が軍部と政府を掌握して、デモ隊に発砲して100人以上が死亡したそうです。
この人の以前には、コンテという人が大統領で、24年間も大統領に居座っていましたが、死亡したために、今回のクーデターが起こったんだそうです。
デモを起こした野党とカマラ氏の仲裁役として、隣国のブルキナファソのコンパオレという大統領が現地に飛んだらしいですが、調べてみると、この人も、20年以上権力の座に居座っているのでした。
要するに前大統領も、現在の権力者も、これをなだめにやって来た隣国の大統領も、そろいもそろって独裁者なわけです。
最近読んだ「貧困の光景」(曾野綾子 新潮文庫)は、この日記とほとんど同じ論調で、読んでいて首肯することが実に多かった。
「(途上国で)権力者になる、ということは、公然たる公金流用の資格、暗黙のうちに外国からの援助の金を自分の懐に入れる権利、を承認されるということ」
「ヨーロッパ諸国やアメリや日本が、アフリカの貧しい国の援助をする、と決定することは、その国の国家元首とその一族の私財を増やすことを意味する」
というのは、実にその通りだ。
「最近日本のマスコミも、一般の日本人も、ほとんどあらゆる人が、口を開けば日本の格差社会はひどくなっていると言うが、私はいつもアフリカと比べてそんなことを思ってみたこともない。日本の金持ちは、世界的レベルから言えば慎ましい生活者が多いし、親が貧乏でも子供はそのしがらみを断ち切る方法がいくらでもある。(中略)しかしアフリカではそうではない。金持ちはベンツを乗り回し豪邸に住み、一族を政府の要職につける。貧しい人たちは文字通りその日のパンにも事欠き、病気になったら治療を受けられずに死ぬ運命を覚悟するほかないのである」
この日記で何度も書いてきたとおり、世界的に見て日本の社会システムは、実に健全に機能しているのである。
もちろんそんなのは相対的に見ての話ではあるが。
一方で著者は、こんなことも書いている。
「アフリカにおいては、かつて植民地政策を行ったヨーロッパの人々は、アフリカを食い物にした悪人で、だから彼らがアフリカから撤退したことは、まことにいいことで、それでアフリカの人々も貴重な独立を手にした、ということになっている。これは一面でほんとうだが、一面では皮相的な見方だ。かつての宗主国が引き上げた後、別の形の惨憺たる残虐、貧困、無秩序が待っていたという事実はやはり覆いきれないものであった」
アフリカの多くの人々は、西洋人がもたらした物質文明を享受しているだろう。
しかし物質文明は、一般の日本人が想像もできないような、ものすごい貧富の差を生んでしまった。
その富の奪い合いで戦争が起こり、難民が生まれて飢餓が発生する。
私は思うんだけど、アフリカで物質文明に浴しているのは、一部の金持ちだけで、多くの人々は数百年前とたいして変わらない原始的な生活をしているんだと思う。
しかし政府軍と反政府軍という名前のついた、実は部族同士の抗争が、昔とは比べものにならないほど大規模になってしまったために、一般市民が難民化してしまう。
汚職をなくそうとか、公正な選挙をやろうと、国連とかNGOが、がんばっているけれど、はっきり言って私はムリだと思う。
アフリカ一般の人々には国家という概念はないし、国家に対する帰属意識もない。
彼らが属しているのは自分の部族である。
私たちが自分を「日本人」と認識するように、彼らは「どこそこの何族」という認識なのである。
そういう人たちに選挙を行うことに、なんの意味があるのだろうか。
国家という概念すらわからない人たちに、ひとりの大統領を選ぶように勧めることが、果たして必要なのか?
選挙が無用な流血を引き起こすだけなら、やらない方がマシではないか。
二十何年間も権力に居座り続けるダメな国家元首だろうと、それでみんなが平和ならば、それの方がよっぽどマシではないかと私は思う。
そして現在の混乱したアフリカの現状の責任は、やはり第一義的に、彼らに民主主義を押しつける西洋にあるのだと思う。
「ネールの恋」映画化中止 2009年10月31日15:11
数日前の読売の記事である。
インド初代首相のネールと、英国最後のインド総督マウントパッテンの妻との秘められた恋を描いた米国映画の製作が中止になったそうだ。
その背景には「インド政府からの圧力があったのでは?」という憶測が飛んでいる。
報道によれば、タイトルは「インドの夏」。
インド政府はネールが総督の妻に「愛してる」とささやく場面やキスシーンなどの削除を求めていたという。
そんでこの報道、全体にインド政府を非難する論調である。
「製作中止決定の背後にインド政府の横やり」
などの表現は、それを示唆するモノだ。
アメリカ追随の読売の論調からすれば当然だろう。
この映画はタイ、当時のシャム国の王様と家庭教師の恋愛を描いた映画だが、内容はかなりひどいものだ。
タイ人が、無知蒙昧の土人のように描かれているし、なによりも偉大な国王が、イギリス人の一家庭教師と恋に落ちるなんていうことはあり得ない。
設定自体がタイ人には我慢ならないモノだったに違いない。
この映画にも同じニオイがすると感じるのは私だけではないだろう。
無学な土人を指導する英雄と白人女性の恋愛。
おそらくインド政府は、タイと同じ轍を踏みたくなかったんだろうと思う。
本日の読売の記事、
「米紙 目立つ鳩山政権批判」
22日のウオールストリートジャーナルに、ブッシュ政権で国家安全保障会議の委員だったカロリン・レディという人の論文が載っているそうだ。この人は、
「鳩山政権の姿勢は東アジア安全保障の礎石である日米同盟を損なうおそれがある」
と憂慮しており、中国の軍事力増大や北朝鮮の脅威に、日本がどう対抗するのか疑問を呈し、
「日米安保で米国が財政的にも作戦的にも日本より多くを負担してきたと強調し、日米の対等な同盟関係を掲げる鳩山首相に対し、「この不平等場関係を是正したいなら、大衆迎合の政策より防衛に予算を回すことから始めるのがよい」と皮肉った」(読売)
確かにアメリカにおんぶしているわけだから、なにも言えないよね。
しかしこういう高圧的な態度は、いかにもアメリカらしいよな。
ヘミングウエイの「老人と海」の新潮文庫版は、本編よりも解説の方が面白い。
訳者の福田ツネアリ氏によれば、ヘミングウエイの作品は「肉体的」で、かつ「強者必勝」の論理が透徹していて、長編に関しては「精力の濫費」であり「徒労のエンタテイメント」であるという(笑)。
肉体的で弱肉強食という考え方、つまり「力で勝負をつけようじゃねえか」という考え方は、いかにもアメリカ人らしい。
そこで上記の人物の発言である。
不平等が不満なら、自前で武装したらどうだと。
日本が再武装して軍事大国化したら、対等な立場で話し合ってやろうじゃないかと。
この人の発想は、100年前の帝国主義の頃と、まったく変わっていない。
こういう思想が戦争に直結して、二度も大戦がおこったんじゃないの?
ヘミングウエイ自体も大変なマッチョだったという。
この作家の作品は、アメリカという国の軽薄さというか、ものの考え方を象徴しているように思えて、私は実はあんまり好きではない。
私が見た限り、エジプトで一番ハデに肌を露出して出歩いていたのはアメリカ人だが、彼らが現地の習慣を平気で無視しているのは、結局アメリカが軍事大国で、戦争をすれば間違いなく勝つという自信に裏付けられているからなのかもしれない。
しょうがない人たちですね。
27日の読売のベタ記事に、
「チュニジア大統領5選」
というのがあった。
ジン・アビディ・ベンアリ大統領(73)が得票率89.62%で、5選を果たしたという。
私はこの国には、なぜか2回も行ったことがあるんだけど、当時はブルギバという人が大統領だった。
このブルギバ氏については、面白い文章がある。
「しかし現在では、モナスティールの町は、こうした歴史によってよりは、ブルギバ大統領生誕の地として知られている。チュニジア全国の主要な町につくられた、あるいはつくられつつある、大統領のための宏壮な邸宅の中でも、この生誕の地の邸は、ひときわ豪勢にみえる。一九六三年には、高さ四〇メートルあまりの塔のあるブルギバの名を冠したモスクも建てられたし、大統領自ら選んだという土地に、贅をこらしたブルギバ家の祖先の廟も築かれた」
「チュニジアでは、官庁、商店、食堂などいたるところに、ブルギバ大統領の、あるいは大統領夫妻の、たいていはカラーの肖像写真飾ってあるので、この国に来て以来、ブルギバ氏の白い歯を見せた笑顔は、否応なしに私の網膜に焼きつけられていた」(「マグレブ紀行」川田順造 中公新書)
ブルギバ大統領はチュニジア独立の英雄であるという。
カイラワンという町では、同大統領がやって来るというので、数日前から一日中ブルギバ氏を讃える歌が町中で流され、当日には十五万人の群衆が集まったという。
著者はこの歌に「ブルギバ音頭」と名付けた。
宿のオヤジは、
「これでカイラワンにもブルギバ様のお邸ができました。アンタはいいときに来なすった」
と言うのだった。
このような騒ぎを、私も体験したことがある。
イラクのバグダッドである。
当時はまだサダムが健在で、町中の人々が血走った目でサダムを褒め称えていた。
バグダッドの町中に、無意味な巨大なモニュメントが建っていて、官庁やホテルやレストランには、例外なくサダムの肖像写真が飾ってあった。
つまりこういうことではないか。
チュニジアでも、当時のイラクと同じような公安の監視の目が光っていて、人々はそれに怯えながら、ブルギバ大統領を褒め称えていたのではないかと。
今回の選挙で5選した大統領の得票89.62%という驚異的な支持率も、このような背景を考えてみれば、なんだかなあという感じがしてくる。
要するに不正選挙が行われているのはアフガンだけではないのだ。
世界中で議会制民主主義が採用されているけれど、この制度によって国民の民意が反映されている国は数えるほどしかない。
そして多くの国は警察国家であり、言論の自由などないのがフツーなのである。
しかし肝心なことは、
「それでもイラクやアフガンのような、アメリカの介入によってテロが続発する国に墜ちてしまうよりは、ぜんぜんマシだ」
ということであり、どんな腐った政権で、汚職が蔓延し、海外援助のほとんどが彼らの私腹を肥やしていたとしても、それでも戦争よりは断然マシ、なのである。
西洋諸国が民主主義とか人権とかを押しつけてきて、一番迷惑するのは、現地の人々ではないだろうか。
同タイトルの連載が、読売ではじまった。
第2回目はベルリンの壁の特集。
ドイツとロシアの、天然ガスのパイプライン建設で、ポーランドとバルト三国が強く反対しているそうだ。
ポーランドとバルト三国。
これらの国は大国に挟まれた苦悩の歴史を持っている。
欧州の西洋人にとって19世紀最大の事件は、「ドイツ統一」だったそうだ。
「事件」というよりも「脅威」といった方がいいかもしれない。
それまで小国に分裂していたドイツがビスマルクによって統一され、あっという間に強国に発展した。
それまで海外植民地で既得権益を握っていた英仏にとっては脅威であり、またチェコやオーストリア、そして隣国のポーランドなどは文字通り侵略の脅威にさらされた。
ベルリンの壁崩壊でドイツが再び統一されることをもっとも恐れたのは、イギリスのサッチャーとフランスのミッテランだったそうだから、戦後40年以上経っても、彼らにとってドイツは脅威であり続けたわけだ。
それだけドイツ統一は、ヨーロッパの勢力図を塗り替える大事件だったらしい。
そしてその脅威をもっとも受けたのはおそらくポーランドだったに違いない。
この国はドイツとロシアに挟まれた、かわいそうな国だ。
近代史では、たびたび両国に侵略され支配され、独立運動を粉砕され続けてきた。
これら三国と、東ヨーロッパ諸国の関係は、日本と韓国、中国、そして東南アジア諸国の関係とよく似ている。
新興の軍事大国と広大な領土をもつ老大国、そしてその中間に位置する小国と周辺の後進国という関係である。
とあるドイツ人はポーランドに行ったときのことを、
「確かにレストランなんかで注文すると、フツーにサービスしてくれるんだけどね、どことなく冷たいんだよね」
と言っていたが、そういう歴史的なシガラミが、関係しているんだろう。
最近、欧州統一の動きに、ただひとりチェコが反対しているというニュースがたびたび取り上げられている。
その理由はたったひとつだけだという。
チェコ政府が、第二次大戦後にドイツ人から強制接収した財産を返せといわれるのを恐れているからだ。
いったいどれだけの財産を差し押さえたんだろうか。
これだけ強硬に反対するからには、十億円とか百億円の額じゃないんだろうな。
逆に言えば、それだけドイツ人がチェコで幅をきかせていたということだろう。
EUの登場で、私たちはなんとなく「ヨーロッパ」で一緒くたにしてしまいがちだけれども、私たちが思っている以上に、ドイツはヨ−ロッパの脅威であり続けているのだ。
アフガン大統領選挙 2009年10月19日12:01
前から思うんだが、こういう国で、果たして選挙をやる意味があるのだろうか?
というと「オマエはレイシストだ」といわれそうだが、違うのである。
結局、決選投票にもちこまれたアフガンだが、その理由は不正投票にあった。
カルザイ側は、架空の投票所をつくったりして、大量の票の水増しをしたそうだ。欧州の監視団によれば、カルザイ票の25%(!)が不正票だという。
選挙自体が公平に行われない地域で、選挙をしてなんの意味があるのか。
そしてケニアのように、選挙をするたびに大規模な暴動が発生するなら、むしろやらない方がいいんじゃないだろうか。
日本人は、アタマから「議会制民主主義はスバラシイ」と信じている。
しかし私はそうは思わない。
議会制民主主義を導入して失敗している国は、アフガンやケニアをはじめとして世界中にたくさんある。
このシステムは、西洋人が西洋諸国のために開発したものであって、たまたま日本のような国がうまく運営できたに過ぎない。
アフガンのように、多民族、多文化、多言語の国で、たったひとりの大統領を選出する政治システムを導入したことこそが、マチガイなのではないか。
西洋人は、その理由を「民度の低さ」に帰している。
アフガン人も「教育」を受ければ、民度が上がり、従って議会制民主主義も定着するというのだ。
一見して納得する理由づけである。
しかし大きな問題が見過ごされている。
それは西洋人が、
「我々がつくった政治システムが、世界でもっとも優れているのだから、普遍性がないわけがない」
と信じて疑わない傲慢である。
そしてアジア一般を自分たちより低く見て、それを教育してやろうという傲慢である。
最後に、元はといえば、この国を混乱に陥れた元凶はイギリスとロシアにあり、民族の分布を無視した国境線が、列強の思惑だけで引かれたことが原因であることを、私たちは忘れてはいけない。
ところでパキスタンでは、軍による大規模な掃討作戦がはじまったそうだ。
しかしこれも「なんだかなあ」という感じである。
パキ軍の上層部とタリバンはツーカーなので、殲滅することはあり得ない。
情報は筒抜けで、パキ軍が攻めていったら、タリバンはすでに逃げている。
今回もそういう結果になるだろう。
もちろんアメリカも、まったく期待していない。
おそらくパキ政府のメンツを保ってやることが、当面の目的なんだろう。
腐敗しきった政府ではあっても、崩壊してしまったら、核兵器がアルカイダに渡ってしまうかもしれないからだ。
そのへんはパキの首脳もよく心得ていて、できるだけたくさんの援助をアメリカからむしり取ろうというのが、これまた当面の目的なんだと思う。
というような裏事情は、もちろん新聞には書けないから、読売では、
「3000メートル級の険しい山岳地帯はゲリラ戦に向いているとされ、パキスタン軍は2004年と08年に実施した掃討作戦を中途半端に終了した。続発するテロに疲れたパキスタン国民の多くはいまは作戦実行を支持しているが、作戦が長期化すれば国民に根強い反米世論に火がつく可能性もある」
というような、穏健な記事を掲載するわけである。
おそらくパキ市民の多くは、この作戦を支持していないだろう。
彼らが望んでいるのはタリバンでも米軍でもない。
我々と同じく、平和な暮らしなのである。
読売の経済面からニュースをふたつ。
「トヨタ 米で自主改良検討 レクサス暴走再発防止」
調査報告によれば、レクサスのフロアマットがアクセルペダルに引っかかって暴走するという事故などが発生して、これまでにトヨタ車で5人が死亡しているという。
そんでトヨタはリコールを決めたわけだが。。。。。それにしてもなんで今ごろ問題になるのかと。
調査報告は昨年まとめられたものなのだ。
そう考えると、当局の意図が読めるよね。
要するにGMの販促なわけだ。
とりあえずトヨタの信用を失墜させて、GMの売り上げを上げようと。
アメリカ政府がゴッソリ株を持っているんだから、売り上げが回復しないとまずい。
そこで、これまでの常套手段「ジャパンバッシング」を復活させたわけだ。
しかし逆に言えば、そこまでしないとGMは売れないのかと。
あわれGM。。。
「バイオエタノールに商機あり 出光、本格進出へ」
出光興産が、東南アジアにキャッサバを原料にするバイオエタノール生産を始めるそうだ。
キャッサバは成長が早く、簡単に増産できるので、食糧需給には影響はないそうだ。
同じような植物ではジャトロファというのが注目されているが、こちらも生産を始めるという。
昨年はバイオエタノールによる穀物不足が大問題になったので、出光はこれに配慮しているという。
だったらアメリカも見習って、キャッサバとかジャトロファを生産すればよいではないか。
しかしアメリカは、そうはしない。
なぜなら穀物大国のこの国にとっては、食糧危機で穀物相場が高騰する方が儲かるからだ。
だから、どんなに世界中から文句を言われても、トウモロコシ原料のバイオエタノール生産を止めないのである。
昨年、途上国の人々が小麦の高騰に苦しんだ一方で、カーギルのような巨大穀物商社が大儲けした。
国土の多くが砂漠のアラブ諸国で、輸入小麦の高騰、ほとんど死活問題である。
アメリカはそれでも、全生産量の30%のトウモロコシをバイオエタノール原料に使っている。
イスラム教徒に石油を握られていることが我慢ならないんだろう。
という、どうでもいいといえば、どうでもいいニュースがあった。
しかし私はこの日記の主旨からして、ちょっと言ってみたい。
西洋建築の物真似に、果たして国宝の価値があるのか。
同じように日銀ビルとか、三越本館とか、ぶっ壊して建て替えようとすると、必ず取り壊し反対運動が起こる。
しかしヨーロッパに行ってみればわかるけれど、ああいう建物は、それこそ町中に建っているわけで、日本にあると珍しいから、貴重に見えるだけなのではないだろうかと、私なんかは思う。
とは言っても、私も古い建物は大好きなので、残すことには大賛成なんですが。
インドのムンバイにある「ビクトリアターミナス」という鉄道駅が世界遺産に指定されている。
確かにヒンズー芸術と西洋建築が融合されたといわれれば、そんな感じもするが、東京駅をもう少し豪華にしたくらいだ(ちょっと語弊があるか)。
名前の通り、ビクトリア女王の名前にちなんだもので、贅沢な駅である。
こういう建物が選定される背景には、どうも西洋人の自画自賛がなくもない気がする。
この間、ユネスコ事務局長の選挙があり、エジプト人とブルガリア人候補が接戦の末、結局ブルガリア人候補が当選した。
報道によれば、エジプト人候補は、
「ヘブライ語の本は焼け」
などの反イスラエル発言で知られていて、欧米諸国から「不適格」の声があったそうだ(読売新聞)。
確かに特定の国を誹謗する人が「一応」公明正大な国連機関の重役になるのは、よろしくないかもしれない。
しかしそれを言うなら、ムハンマドの風刺画問題で、「表現の自由」を盾に謝罪をつっぱねたデンマークの首相が、欧州議長に就任するのはどうなんだと。
キリストを中傷するような記事がアラブの雑誌に掲載されたら、おそらく大問題になるだろうに、逆はなあなあで許される。
こういうところに、西洋の既得権益があるように思う。
世界文化遺産に、キリスト教の建築物がやたら多いのには、やはり理由があるのだ。
マイミクの小須田部長さんに教えてもらって見に行った「サーチナ」というサイト。
国際比較の小ネタがたくさん拾えて面白かった。
小須田部長さんありがとうございます。
それでさっそくこんなのを拾ってきた。
↓
【豪州ブログ】東京を観光して出会った数々の驚き
日本の首都であり、多くの観光スポットを有する東京。東京を訪れ、観光記をブログに綴っている外国人も多い。
オーストラリア人ブロガーのCampbellotもその一人。最初に地下鉄に乗った筆者は「東京の地下鉄システムは一流だ。それと比べるとシドニーの古い地下鉄は見劣りする」と記述。「電車は頻繁にやってくるので待つ必要がなく、すべてが清潔で整っている。駅で働く人たちはとても親切で、身なりもきちんとしている。地下鉄に乗っただけで、東京が好きになった」と綴っている。
また「浅草で天ぷら屋に入ったが、とてもおいしかった。日本人はおいしい料理の作り方をよく心得ている。日本ではぜひ日本料理を味わうべきだ」と説明。さらに新宿に出かけ、「新宿駅は巨大で、びっくりするほど多くの人がいた。都庁の展望室へ昇ってみると、東京は言葉では言い表せないほどの大きさだった。夜景はまるで永遠に灯っているかのように見えた」と記している。
最後に筆者は「東京はこれまで訪れたどんな都市とも違っている。人々は温かく親切で、どんな仕事の人もプライドを持って働いているように見える。古い文化と現代が調和した美しい町だ」と結んでいる。(編集担当:松井望・山口幸治)
おお。うれしいではありませんか。
こんなこと書かれたら、悪口書けなくなってしまうじゃないの(笑)
もちろんこのブログの著者も、異文化に戸惑ったに違いないが、しかしどこの国にも、さほど変わらない生活があることがわかれば、妙な偏見はなくなっていくものなんだと思う。
日本には、ゲイシャもニンジャもサムライもいない、そして未来ロボットもいない、普通の国であることが。
常々思うんだが、世の中に嫌韓の人はたくさんいるけれど、そういう人たちは、韓国人の知り合いが、ひとりもいないのではないだろうか。
ひとりでも韓国人の知人がいれば、おそらく韓国の見方はずいぶん変わる。
そういう私も韓国人の知り合いができて、この国への偏見が見事になくなり、逆に日本人にはない率直さが非常に好ましく思えるようになったのである。
というわけで嫌韓のみなさんには、韓国人の知り合いをつくることをオススメします。
と書くと、「オマエは西洋人の知り合いをつくれ」といわれそうですが。。。
先日読了した「在日の耐えられない軽さ」(鄭大均 中公新書)。
著者の在日としての人生と、作家であった父親の人生を振り返る、半自伝である。
この中に著者の妹さんの発言が出てくる。
妹さんは公務員で、在日の闘士として地位向上のために戦ってきた人だそうだ。
「妹は外国籍を理由に東京都が地方公務員の管理職試験で在日韓国人の受験を拒んだことが違憲ではないかと問われた訴訟の原告であり、二〇〇五年一月二十六日、最高裁による逆転敗訴のあとの記者会見で「世界中にいいたい。日本には来るな!」と発言したその人である」
この発言に対して、次のようなメールが来たという。
「あのような暴言、誹謗中傷を、恥も外聞もなく公共の場でされる方が日本の税金で働いてもらうわけにはいきません。(中略)
一刻も早く公務員を辞職し、あなたが仰られる「ひどい日本」からただちに出国しなさい。我々日本人もあなたのような気が狂った一部の反日外国人分子に、この美しい日本の地を踏み、空気を吸ってほしくないのです。
公務員失格、保健師失格、人間失格のあなたは早く日本から出て行きなさい。
そして二度とこの土を踏んではならない」
私はこの記者会見を見てなくて、もっといえばこの報道すら知らなかったので、偉そうなことはなにも言えないんだが、上記のメールを読んでいて、いたたまれない気分になるのは、みなさんと同じだと思う。
言葉の暴力とはこういうものかと思った。
著者は、このようなキツイメールを彼女が受け取ることは、彼女が発した暴力的な発言によるもので、ある意味では自業自得であると考える。
確かに記者会見での発言としては穏当ではないかもしれないが、この人の気持ちを斟酌すれば、日本人として理解できなくもない気が、私はする。
そして一方で、上記の「日本から出て行け」発言をした人に、背筋が寒くなるような恐怖を覚える。
自分にこのようなメールが来たら、しばらく軽い鬱状態になりそうだ。
最後に、自分が今まで、この日記で書いてきたことが、多少なりとも言葉の暴力を含んでいることに、けっこう気が滅入った。
今後は気をつけようと思います。。。どうもすいません。
ソビエト。
ずいぶん懐かしい響きである。
崩壊して、もう二十年近く経つ。
あの頃のソビエトは、「非効率」の権化のようだった。
チェルノブイリのような大事故は、彼らの非効率が生み出した事故だったし。
ソビエトは冷戦でアメリカと対立し続けた。
私たちは、アメリカの資本主義が、結局正しかったと思っている。
しかしソビエトの最初の理念は、やはりすばらしかったんだと思う。
アメリカとソビエトを、
資本主義vs共産主義
と考えるよりも、
帝国主義vs反帝国主義
と考えると、当時の世界情勢がよく見えてくることに、この間気づいた。
第二次大戦後、戦前の宗主国は、日本軍が撤退した植民地に軍隊を送った。
オランダはインドネシアに、フランスはインドシナに。
しかし従順だったはずの原住民は、日本軍が供与した兵器で武装して、抵抗した。
その独立運動を支援したのがソビエトだった。
多くのアラブ諸国も社会主義に傾いた。
しかしそれは、西洋諸国がイスラエルを支援したからではない。
戦前の西洋植民地主義に反発して、ソビエトの支援を受け入れたからだ。
中東戦争の当初は、イスラエルはイギリスと仲が悪く、イギリスはイスラエルを海上封鎖した。
イスラエルはどこからも支援されず、世界中はイスラエルがさっさと負けると信じていた。
しかし奇跡的にイスラエルが勝った。
イスラエルがロビー活動で西洋諸国に食い込んだのはその後のことだ。
世界中の第三世界が、多少なりともソビエトの共産主義を受け入れようとしたのは、西洋の植民地主義に反発し、独立を勝ち取ろうという機運による。
ベトナム戦争は、そういう旧植民地の独立運動を封じこめようとして失敗したフランスに代わって、アメリカが圧力をかけたと考えれば、別の意味で納得がいく。
せこいフランスは、その後も植民地に固執して、アルジェリアと戦争を続け、国家予算が破綻しかかって、ようやく独立を認めた。
アルジェリアはその後、社会主義国になった。
西洋資本主義vsソビエト社会主義
は、そのまま、
帝国主義vs反帝国主義
だった。当初は。
その後のソビエトは、アフガン侵攻でアラブ諸国の反発を受けたりして、結局この国も帝国主義者であったことが判明する。
南イエメンでもロシアの評判は最悪だった。
結局この国も、大国のエゴを小国に押しつける傲慢な国だった。
でも最初の理念、帝国主義から独立を勝ち取ろうとする途上国を、ただひとり支援しようとした理念はスバラシイと思う。
ソビエトがいなければ、いまだに宗主国の独占市場で、コーヒーとかの単一作物を強制的に栽培させられ、学校や病院すらまともに供給されなかった東チモールのような国が、いまだにたくさんあったに違いないのだ。
先日、テレビ朝日の「報道ステーション」で、パキスタン国内のアフガン難民キャンプの映像があった。
記者によれば、
「現地には電気も水道もなく……」
↑
それ普通ですから。
「人々の給料は月4000円程度で……」
↑
それ普通ですから。
「キャンプの家々にはドアもなく……」
↑
それ普通ですから。
私が知る限り、記者が伝える「難民キャンプの悲惨な状態」は、それほど悪くない。
だいたい世界中で上下水道と電気が完備している地域がいったいどれだけあるだろうか。
私の経験で言えば、おそらく世界人口の七割以上の人は、電気も水道もない暮らしをしている。
だからその程度のインフラがないのは、世界のスタンダードである。
もちろん私は、この記者を非難するつもりはない。
彼は東京のデスクに言われたとおりの映像とコメントを拾っているに過ぎないのだから。
岡田外務大臣がアフガンとパキを電撃訪問した。
そして海上補給を止めて、民政支援で、職業訓練校をつくることにした。
私は現地を多少なりとも知っているので、これはある程度、正しい判断だと思う。
米軍に海上補給して戦争の片棒を担いで現地人の怒りを買うよりも、よっぽど賢い選択だと思う。
イスラム教徒一般にとって、身内を守ることができないことは、「アイブ」(もっとも恥ずべきこと)とされる。
異教徒の米軍の誤爆で、家族が死んだりケガをすることは、それこそたいへんなアイブである。
そして一族が被害を受けたら、必ず復讐しないと気が済まない人たちである。
旧約聖書の創世記に、妹をレイプされたユダヤの民が、犯人の男の一族を全滅させる話で出てくる。
米軍が介入すれば、タリバンに加入するアフガン人は間違いなく増える。それが現在の状況である。
もうひとつは、前にも書いたとおり、武装勢力に加わることは一種の「就職」である。
この流れを断ち切るのに、岡田外相の提案は効果的だと思う。
技術があれば、外国に出稼ぎに行っても、未熟練工よりもいい給料がもらえる。
自民党の一部の政治家は、いまだに海上補給に固執しているが、彼らのアタマには、「いかに現地の人々に貢献するか」がスッポリ抜け落ちていて、「いかにアメリカの機嫌を損ねないか」だけがあるように思える。
オバマさんのノーベル賞をもう少し考える 2009年10月13日00:13
その後の報道によると、オバマさんのノーベル賞受賞を、他ならぬアメリカ人全員が歓迎しているわけではないことが、わかってきた。
一昨日の読売では、保守派の間で、
「実績がないのに不適当だ」
「賞を返還しろ」
とかいう声が上がっているそうだ。
ノーベル賞をカーター元大統領やゴア元副大統領の、いずれも民主党がもらっていることも気に入らないらしい。
しかし民主党が受賞するのは、ある意味当然だろう。
なぜなら一国主義の共和党よりも、もう少しだけ欧州と協調しようという民主党を持ち上げるのが、ストックホルムの意向だからだ。
ノーベル賞、とりわけ平和賞が、スウエーデンの知識人の、政治的な思惑で決定されていることがよくわかる。
受賞者には圧倒的にキリスト教が多いしさ。
その後のコラム「ワールドスコープ」に興味深い記事があった。
アメリカでは依然として保守党が隠然たる影響を持っている。
オバマさんの協調主義を熱狂的に支持しているのは一部のリベラルな人々(おそらく社会的地位の高い人たち)だけで、多くのアメリカ人はブッシュの頃とたいして変わらない意識なんだそうだ。
要するにブッシュがやりすぎたので、支持を失っただけらしい。
多くのアメリカ人は、自分の州はおろか、生まれ育った町から一歩も出たことがなく、世界情勢にはまったく疎く、日本がどこにあるのかもわからないような人たちである。(映画「ミシシッピーバーニング」とか見てみるとよくわかる)
そんな彼らの意識が、オバマさんになって、いきなり「チェンジ」するとは思えないよな。
「アメリカ アズ ナンバーワン」な人が、いまだに圧倒的多数派なんだろうと思う。
その保守的なアメリカが、ついに核廃絶に動き出したのが、オバマさんの受賞理由である。
しかしこれについて、またしても意地悪い考察をしてみよう。
6月初め頃の日記で、こんなことを書いた。
↓
「読売によれば、アメリカ政府が開発した最新核施設は、建前上は天文学やクリーンエネルギーの研究施設だが、核爆発の研究にも有効で、核実験をしなくても、これに匹敵するデータを得ることができるという。
「北朝鮮など核開発の野望を持つ国が核兵器を完成させるには、核実験を避けて通れない。核実験全面禁止条約(CTBT)が、核拡散を阻止する有効手段となるのはこのためだ。
オバマ大統領は、米国によるCTBT批准と、その早期発効を目標に掲げるが、その陰では、巨大科学の力で、核実験抜きでも自国の核の優位を維持できるという自信も見え隠れする」(読売新聞)
要するに核廃絶しても、アメリカの戦略的優位は変わらないと、アメリカが判断したからこその、オバマさんの核廃絶宣言だったわけだ。
オバマさん自身は、大学時代に核廃絶についての論文を書いているそうだから、彼なりの思い入れはあったんだろうが、もう少し穿ってみると、「タイミングがよかった」という要素も、実は大きかったのでは? という気もしてくる。
ノーベル賞の選考委員が言うように、オバマさんになってアメリカが劇的に変わったなんていうのは、どうやら幻想らしい。
オバマさんにノーベル賞の理由 2009年10月10日12:04
なぜ今オバマさんにノーベル賞なのかというのは興味深い質問でしょう。
なんででしょうね。
平和外交に力を入れているとか、核廃絶を展開しているとか、史上初の黒人大統領とか、いろいろ受賞理由があるんでしょうが、意地の悪い理由もひとつ提示してみましょう。
ハンチントンという学者は、
「今までのブッシュのような強権的なやり方でイラクやアフガンに介入するのは、長い目で見るとアメリカ(要するに西洋諸国)にとって得策ではない」
というようなことを語っています。
「それよりも懐柔政策によって、諸外国の対立を煽る方が、長期的に西洋の価値観の退行を防ぐことができる」
つまりブッシュのやり方はアタマが悪いと。
一見して平和外交を展開しながらも、紛争を傍観し、場合によってはウラで助長する方が、西洋諸国の外交的優位が長く保てるのだと。
こう言っているわけです。
もちろんこの話は、この学者が言っているだけで、アメリカの政策としてそういう腹黒い方針が採用されているのかどうかはわかりません。
しかし傾聴に値する説でしょう。
オバマさんが、平和賞まで受賞して、このまま英雄として支持され続ければ、アメリカの主張は、諸外国に受け入れられやすくなる、というよりも諸外国が反論しにくくなる。
一部の人たちがそれを利用しようと考えるのは、普通のことでしょう。
そういう意味で、アメリカはブッシュ時代よりも狡猾になったとも言えるのではないでしょうか。
サウジとシリアが仲直り 2009年10月10日00:33
中近東の国際情勢を考えるとき、キーワードになるのがイランの存在である。
イランを中心に整理すると、イスラム諸国の関係は非常にわかりやすい。
反米大国のイランと親米大国のサウジを対照的に併記すると以下のようになる。
イラン vs サウジ
反米 親米
シーア派 スンニ派
共和国 王国
サウジなどの湾岸諸国がイランをもっとも恐れる理由は、この国がイスラム革命によって王制を打倒したからである。
湾岸の王制諸国は、この革命が自分のところに及んでくるのをもっとも恐れている。
サウジが米軍の駐留を認めているのは、まさにこのためである。
湾岸諸国の中で唯一例外的にイラン寄りの国にカタールがある。
この国の住民の確か半数くらいがシーア派である。
王様は住民の反乱を防ぐため、つまり王制維持のために、反米イラン寄りにならざるを得ない。
この国の国営放送は、かのアルジャジーラである。
シーア派とスンニ派の対立で苦心してきた国にサダムのイラクがある。
この国はサダムの強権的な警察国家のお陰で(というと語弊があるが)、なんとか平穏を維持してきた。
しかしアメリカの介入でサダムは倒され、その後は、みなさんもご存知の通り、シーア派とスンニ派がそれぞれのモスクに自爆テロを繰り返している。
このような状況(強権的な政権が打倒されて、それまでフタがされてきた民族対立が表面化する現象)はアフガンでも同じことである。
シリアはどうかというと、この国はスンニ派が圧倒的である。
しかし大統領は超少数派のアラウィ派である。
圧倒的多数のスンニ派を押さえるには、やはり秘密警察と軍隊で国民を監視することになる。
だからこの国では、いまでも政治的な発言はタブーである。
こういう国は、北朝鮮と同じく対外的に強硬になるものである。
当然その矛先はイスラエルとなる。
従ってこの国は、現在の政権が打倒されるまで、ひたすら反米、反イスラエルを貫徹することになる。
そういうわけでこの国とイランは、ほぼ永久的に仲がいい。
レバノンでは、いつの間にかシーア派が人口比率で最大になったそうだ。
かつてはキリスト教徒が半数を占めたので、この国では大統領はキリスト教徒と決まっている。
これが住民の不満の元凶のひとつである。
この国ではもう何十年も国勢調査が行われていない。
やれば比率の逆転がバレるからだ。
そのような住民の不満を吸収しているのがヒズボラである。
シーア派にはイランからの援助があり、スンニ派にはサウジからの援助があり、キリスト教徒には西洋からの援助がある。
だからこの国では、繰り返し起こる内戦にもかかわらず、国自体は非常に豊かで、その一方で平和は遠い。
エジプトはどうか。
この国の収入源は、多大に観光である。
よって西洋諸国との関係は、死活的に重要である。
一方でこの国が恐れるのは治安の悪化である。
だからテロリストとも仲良くしなければならない。
ガザのハマスを表面上は非難しながらも、ウラではイランからの武器密輸を黙認していたというような事情は、このような意味でとてもよく理解できる。
今回のサウジとシリアの会談。
シリアは反米イランから親米に鞍替えを狙っているのだろうか。
しかし国民の不満をそらすには、イスラエル攻撃は不可欠だから、強硬姿勢は崩すわけにはいかない。
読売の解説によれば、オバマ大統領の対話路線が大きく影響しているという。
たしかにブッシュの戦争路線でイスラム諸国の態度は硬化した。
アラブ人はメンツを重んじる人々である。
戦争でサダムがあっけなく負けたのは、アラブのメンツを潰してしまった。
その意味で賢いやり方だろう。
イランと米国の対話が進展する中で、流れに遅れて孤立したくないという思惑から、サウジに接近しているというのが本音ではないだろうか。
それにしてもオバマさんにノーベル賞、ちょっと早すぎな気もしないでもないんですけど……。
下らない「格付け」 2009年10月05日16:30
さっきニュースを見てたら、
東京マラソンの「格付け」がひとつ上がった
というニュースがあった。
マラソン大会の「格付け」には三段階あって、招待選手のレベルなどで決まるんだそうだ。
東京マラソンは「シルバー」から「ゴールド」にアップしたそうだ。
それにしても、いったいなんの格付けなんだろうか?
マラソン大会にエライとかエラくないとか、あるのかなあ。
そしてそんな格付けに意味がるんだろうか??
もうひとつ「格付け」のニュースがあった。
またまた今年も「豊かさランキング」である。
一位は昨年に続いてノルウエーで、二位はオーストラリアで、十位くらいが日本だった。
毎度毎度、自画自賛のランキングである。
西洋人の尺度で世界の国の「豊かさ」を計ってなんになるんだろうか。
もちろん平均寿命とか、乳児死亡率とかの客観的な数字はあるけれど、それだけでその国の豊かさは計れない。
第一、その国に生まれた人は、その国が一番暮らしやすいに決まっている。
インドのラダックで地元民に、
「ラダック以外で住みたいところはありますか?」
と聞いたら、
「ここが一番いい!」
と胸を張って答えていた。
彼らにとって、どんなに土地が痩せていて、水道や電気などの生活インフラが整備されてなくても、冬の寒さが厳しくても、「暮らしやすさ」は、地元が一番なのだ。
物質文明とか社会保障制度とかいう尺度でしか判断しない、こんな「格付け」に、いったいどんな意味があるのか。
「ノルウエーはよいところだから、みんな移住してきてください」
「みんながんばって私たちの国のように「豊か」になってください」
てなことを言いたいのだろうか?
そういう基準で計ったなら、100年以上にわたって世界中から富を収奪してきた西洋諸国が上位にランクされて当然ではないか。
こんな自画自賛な統計は、まったく無意味ではないか??
そして最後に。
それではなぜこんな無意味な統計を、金をかけて実施するのかといえば、それは他でもない。
統計をとった組織の格付けが上がるからだ。
前記のマラソンにしても、格付けを決定する国際陸上競技連盟(よく知らないけど)が有り難がられる。
豊かさランキングにしても、これを決定した組織が、各国政府から珍重される。
ロビー活動が行われ、協賛金がたっぷり入るのである(たぶん)。
こういう下らないランキングは、ランクを格付けした団体が、実はもっともトクをするのだと思う。
羽振りのいいゴールドマンサックス 2009年10月05日13:59
ゴールドマンサックスが羽振りがいいらしい。
公的資金で再生したにもかかわらず、社員に法外なボーナスを払って問題になった。おそらく、
「借金は返済したんだから文句ないだろ」
というのが、この会社の言い分だろう。
しかしどうやらウラがあるようだ。
政府のゼロ金利政策で、金融会社は非常に優遇されている。
その政府は、すでに株主ではないから、多大な配当を払う必要もない。
しかもリーマン金融危機で、ライバル会社がたくさん倒産したから、強気の高利で金を貸せる。
かくしてこの会社は、金融危機の犯人にもかかわらず、過去最高の収益を上げ、上半期の社員の平均給与3500万円という、ものすごい高給を払うことができたわけだ。
(以上、読売新聞「地球を読む」の竹森俊平氏のコラムより)
どうしてこういう、日本では考えられないような異常な高給が、アメリカは当たり前なのかというと、おそらくアメリカの過剰競争社会が原因だろう。
こういう競争原理というのは、ホッブスの「万人による万人の闘争」の言葉通り、競争社会が普通であるという西洋の考え方が基本にある。
この考え方は、ロック→ジェファーソンと引き継がれて、アメリカに持ち込まれ、アメリカでもっとも純粋なカタチで社会に実現された。
極端な市場原理が、アメリカで神様のように威張っているのは、そのためである。
才能のない者は脱落して、才能がある者は、次々にライバル会社に引き抜かれ、そのたびに年収は倍増していく。
その結果が、ゴールドマン社員の年収何億円という非常識な高給である。
アメリカの金融業界は、政府の「給料に上限を設ける」という金融規制に対して、
「優秀な証券マンが他国に引き抜かれるのは米国の損失である」
といって大反対しているそうだ。
確かに規制が実現すれば、こういう高給社員は、シンガポールとか香港の証券会社に引き抜かれる可能性が高いという。
しかしもともとの原因は、過当な競争原理を国是とするアメリカの資本主義のやり方が間違っているのであって、これを改めなければ、根本的な問題は解決しないのではないか。
今回のゴールドマン社員の高報酬は、収益の半分をはたいて行われたそうだ。
社員の莫大な高給を賄うために、危険な金融商品に次々と手を出したのが、今回の金融危機の原因のひとつとも言われている。
日本的な「横並び主義」がよいのかどうか、わからないけれど、少なくとも、どこへ行っても給料が、そんなに変わらないのであれば、極端な引き抜きによる給料の倍々ゲームはなくなるだろう。
考えてみれば、何十億円という生涯賃金を、果たして使い切れるものか?
月100万円の家賃を払って六本木ヒルズに住む必要があるのか?
ベンツとかBMWとかに乗るのが、そんなにうれしいことか?
というような、形而下なギモンに立ち至ったところで、タダのヒガミになってきたので、このへんで止めておきます。。。。
やっぱり地球温暖化は先進国の責任だ 2009年10月04日17:16
本日の読売に興味深いコラムがあったのでご紹介したい。
「鉄の蓄積 温室ガス測る尺度」
と題したコラム「立体考差」である。
編集委員の小出重幸氏はサハラ砂漠で赤い砂鉄を目撃する。周辺では、かつて鉄鉱石が採掘されたが、現在ではほとんどが廃鉱山である。
ここで産出された大量の鉄は、いったいどこへ消えたのか。
パリに戻って記者は気づいた。
「エッフェル塔を見るまでもなく、都市全体が膨大な量の鉄で作られているのだ。砂漠の荒涼と、豊かな西欧文明。途方もない落差は、鉄をめぐる近代史の厳しさを突きつけるが、安井至・東京大学名誉教授は、「鉄の使用量こそ、国家の豊かさを裏付ける」と語る」
鉄鋼生産には大量の化石燃料が必要になる。
鉄鋼1キロの生産で1.5キロのCO2が排出される。
莫大な量の二酸化炭素を排出しながら、鉄鋼生産を続けた結果が、私たち先進国の豊かさにつながっているわけだ。
さて問題はここからである。
「日本鉄源協会」によると、日本の鉄鋼備蓄量、つまり今まで日本が使った鉄の総量は13億トンで、韓国は4.5億トンだそうだ。
つまり各国の鉄の備蓄量を算出することで、各国がいままで排出してきたCO2の、だいたいの総量が算出されるわけだ。
では、先進各国の鉄の備蓄量はどれくらいなのか。。。。
「世界で鉄鋼備蓄量を正確にはじき出しているのは、日本と韓国だけ。欧米など先進国には全くデータがありません。意識的に出していないのかもしれませんね」(鈴木孝男・日本鉄源協会専務理事)
なんとまあ、自国に不利な統計はとらない(あるいはあっても公表しない)わけだ。
産業革命以降、イギリスやフランスやアメリカが、いったいどれだけの鉄を生産してきただろうか。
そしてそれによって、どれだけのCO2が排出されたのか。
彼らがその数字を隠蔽するという、その事実だけでも、インドが主張する、
「地球温暖化は先進国の責任」
が、まったく正論であることがわかるだろう。
そして彼ら西洋諸国が、この問題を、まるで人類全体の責任のようにして取り上げることが、いかに偽善的であるかがわかるのである。
私たち日本人は、水没するキリバスの人々に、土下座して謝るしかないと、私は思う。
リオ五輪と「シティ・オブ・ザ・ゴッド」 2009年10月03日15:12
東京の落選は残念ではあるけど、ここは素直に南米初招致をお祝いしてあげたい気分である。
昨日、夜中までコペンハーゲンの選考会を見ていたが、シカゴが真っ先に落ちたのは意外だった。
NHKの解説では、南北アメリカの票が別れたのが敗因ではないかという。
オバママジックも通用しなかった。
次に東京が落選。
二回目だから仕方ないよな。
実際それが敗因だったらしいし。
決戦投票でマドリッドが落ちた。
すでに競技会場の七割が完成しているそうだが、どうするんだろうか??
この国の招致活動では、サマランチ前ICO会長の息子という人がずいぶんロビー活動をしていたらしい。
解説によるとサマランチ氏はIOCで、いまだ隠然たる影響力を持っているそうだ。
(↑これに関して記者が触れたのは、一時間半の番組で、各国の招致活動が何度も繰り返し紹介されたにもかかわらず、たった一度だけだった。おそらくこの不正の可能性に触れられたのはNHKならではだろう)
公明正大なはずのオリンピックで権力の世襲が公然と行われているわけだ。
この間バルセロナでやったばかりなのに、マドリッドが最終選考まで残れた理由は、まさにここにあるんだろう。
そして今回、そういう不利を跳ね返して、金もコネもない(知らないけど)リオが当選したのは、すばらしい快挙ではないだろうか。
リオの招致で問題になったのが、現地の治安だそうだ。
これに関しては、私はかつてサンパウロに行ったことがあるから、少しだけわかる。
サンパウロでは深夜、街に出かけるのは自殺行為だと言われていた。
とくに中心街のセ広場周辺には、「リーボック強盗」というのが出没した。
当時人気のあったリーボックのスニーカーを履いていると、子供らに射殺されて奪われるのだ。
ちょうど最近観た映画に「シティ・オブ・ザ・ゴッド」がある。
少年たちのギャング団が、スラム街でのし上がっていく話だ。
舞台はまさにリオ。
映画の中で射殺された人数は数え切れないという、殺伐とした映画だが、彼らが貧困の中で希望を見いだせず、クスリと強盗に手を染めていく過程がよくわかる。
銃もクスリも、いくらでも手に入る。
スラムではろくな仕事がない。
主人公の少年は、しがない魚売りである。
少年たちにとってギャングは、ひとつの就職先だ。
しかしそれはスラムに限ったことではない。
内戦が続くアフリカや中近東でも、反政府勢力やテロ組織は若者の就職先である。
サンパウロのリーボック強盗も、おそらくこういう連中だったんだろうかと思いながら観た。
映画では、警察の腐敗ぶりも鋭く描かれている。
ギャングに武器を売っている元締めは、警察である。
南米の警察はタチが悪いというのは、十数年前だけれども、旅行者の間では有名だった。
私もいきなり警察に連行されて、数時間拘束されたことがある。
「南米は治安が悪い」というのが、旅行者の一般的な認識である。
だからこそ「南米に行ったことがある」というのは、バックパッカーの間では、ひとつの武勇伝であり、「スジガネ入り」であり、一種のステイタスのようになっているのである。
ともあれ、日本ではほとんど馴染みのない南米が、これを機会にクローズアップされるのは、一年八ヶ月もアンデスを歩いた私としては、ちょっと晴れがましいことである。
リオ五輪を心から祝福したい。
サミットはこれから「G20」になるそうだ。
この二十ヶ国で、世界のGDPの九割、総人口で三分の二を占めるんだそうだ。内訳は、
韓国、オーストラリア、サウジ、トルコ、欧州連合、メキシコ、中国、インド、ブラジル、南ア、インドネシア、アルゼンチン
中国の外務次官は、
「途上国と先進国のバランスがとれている」
と歓迎してるそうだ。
このラインナップについて、ちょっと考えてみよう。
韓国……まあ当然という感じか。
サウジ、トルコ……中東諸国でも親欧米の国が選ばれたが、エジプトがはずれたのは、なにか手打ちがあったんだろうか? 確か直前に、ムバラクが訪米していたが。
欧州連合……なんかズルイ感じがする。
メキシコ、ブラジル、アルゼンチン……アメリカ票が増える。
中国、インド……うるさい連中だが仕方がないという感じか。
オーストラリア……欧州票が増える。
南ア……唯一のアフリカ代表だが、事実上の白人国家。
インドネシア……二億の人口を考えれば妥当か。
ということで、当然のように西洋先進国に都合のいい国が選ばれたわけだが、日本は「G8」存続を主張して、各国の顰蹙を買ったようだ。
フランスの通信社は、
「世界がG20に移行する中でG8にこだわる日本」
と皮肉ったそうだ。
しかしそのフランスも、たしか「G14」を主張していたのではなかったか?
そして私は思うんだが、
「8」も「14」も、そんなに変わんない。
もっといえば、「8」も「20」も、そんなに変わんない気がする。
サミットが拡大されて、なんとなく先進国と途上国の格差が是正されたような感じがするが、私はそうは思わない。
逆に言えば、世界200ヶ国近い国のほとんどの国は、依然として「カヤの外」なわけだ。
機能しない国連に加盟していても意味がない。
国連総会でのジョークに、こんなのがある。
昼食時間になって演説が回ってきたある国の代表が、会場を見回すと、たったひとりしかいない。演説が終わって、
「結局聞いてくれたのはあなただけです。ありがとう」
すると、
「どういたしまして、次の番が私なものですから」
国連というのは、それほど形骸化しているものらしい。
世界は事実上、この20カ国の意向で決まると言ってもいい。
そしてトルコやサウジは、アラブのすべての国の意見を代弁するわけではない。
トルコやサウジが考えるのは、まず自国の利権である。
冒頭の中国の役人の発言も、自分とこが加盟したから喜んでいるだけのように見える。
なんだか逆に、世界の格差は広がるような気がしないでもない。
前の日記で、西洋の労働の非効率についてチラッと触れたので、今回はそのことを書きます。
この間読んだ本にこんな記述がありました。
「アメリカ人の間に月曜日と金曜日に出来た自動車は買うもんじゃない、という冗談が行われている。月曜日と金曜日には労働者の欠勤率が多いため、学生アルバイトを使って労働力の穴埋めをしているので、自動車の質が落ちているから、という理由である」
週末を連休にして遊びに行く労働者がいかに多いかを表しているエピソードである。
もちろん連休を愉しむのは悪くない。
しかしそのしわ寄せで消費者が困るのは問題だろう。
これで死亡事故とか起きたらどうするんだろう。
「私は荷物の受取発送によくボストン空港に行くが、朝の十一時過ぎに行くと受付けてくれないことがある。受付けてくれてもあまりいい顔ではやってくれない。午後の三時過ぎに行っても同じである。前者は、すでに昼食時間が迫っているので、その心準備がはじまっているからであろうし、後者は帰宅時間が近づいて、やる気をなくしているからである」
同じようなことを、ポルトガルで経験したことがある。
ちょうど昼頃にバスターミナルに着いて、次の出発時間を確認しようと窓口に行った。
窓口には「昼休み」の看板がかけてあった。
運よく、運転手らしい男が顔を出したので、「あの……」と声をかけた瞬間、ものすごい怖い顔でにらみつけられた。
そして男は無言で看板を指さして、立ち去ってしまった。
もちろん休憩時間は彼らに与えられた権利ではあるけれども、お客さんに対するその態度はなんだ。
国鉄時代のJRでも、これほど態度は悪くなかったのではないか。
「煉瓦積みの労働組合は、あまり早く仕事をすると仕事のタネがなくなるから、なるべくゆっくり仕事をするように組合員に指令しているという。私どもの研究室の近くで工事中のビルは表口一帯が煉瓦敷きになっているが、仕事ぶりはなるほど遅々としていて、ひょっとしたら「一日これ以上やってはいけない」という組合の規約があるのではないかと疑わせるものであった」(いずれも、「ああアメリカ」板坂元 講談社現代新書)
アムステルダムに駐在している友人によると、オランダ人もまったく働かないそうだ。
「ヨーロッパ社会は成熟しているからね」
彼はそういったけれど、私にはとてもそうは思えない。
多くの日本人もそう思うだろう。
彼らは権利を主張しているのではなく、ただ単に堕落しただけではないのか。
ラクをして金を儲けようとするのは、人間だから、わからなくもない。
しかし最低限の職業倫理まで捨てて、不正にラクをしてカネを稼ごうとする彼らの了見は醜い。
自分がやっている仕事に、やりがいとか誠意が持てるように指導するのが組合の仕事なんじゃないのかなあ。。。。と私は思う。
GMが倒産した最終的な原因は、確か組合の説得に失敗したことだったと思う。
自分たちの権利を放棄するくらいなら、会社が潰れた方がいいというのも、なかなか天晴れではあるが、クビになったら元も子もないのではないのかなあ。。。。
もちろんこんなことを書くと、「日本の過労死はどうなんだ」という話になっていくわけですが、少なくとも日本の労働者は、「過労死するほど真剣に仕事に取り組んでいる」ことは間違いないんじゃないでしょうか。
前回の日記の続きです。
クリントンは、対外的には非常に評価の高い大統領ですが、日本に対しては異常に厳しかったそうです。
この人の時代には、日本企業が次々と槍玉に挙げられて、難癖をつけて訴訟を起こされ、軒並み敗訴しました。
80年代後半あたりは、いわゆる「ジャパンバッシング」で、日本がアメリカに叩かれた時期です。
「日本は保護貿易をしているから、もっと市場を開放しろ」
というのがアメリカの言い分でした。
しかしでっかいピックアップトラックやキャデラックを店頭に並べたところで売れるわけがない。
日本の製品の方がアメリカ製品よりも安くて質がいいんだから、誰も買わない。
しかしアメリカは執拗に、日本が不正をやっていると文句をいいました。
彼ら西洋人にとって東洋の国が、これほど経済発展するのは、ウラでずるいことをしているからに違いないというのが、一般的な認識だったのでしょう。
それが彼らの「オリエンタリズム」なわけです。
それでも日本が地道に技術を磨き、ようやく日本製品が、まっとうに評価されるようになったのは、2000年くらいからでしょうか。
西洋人は、
「日本はウサギ小屋の劣悪な家に住み、長い時間満員電車に揺られ、異常な残業時間をこなし、挙げ句の果てに過労死する」
と、日本の「過酷な」労働環境を奇異な目で見ますが、しかしそういう労働環境でコツコツ努力したから、現在の日本があることはいうまでもありません。
日本は、戦後半世紀も、そうやって地道にがんばって、ようやく西洋人が脱帽するほどの高い技術を身につけたわけです。
しかし彼らは、今度は別の手で、日本を排除しようとしているようです。
日本企業が全く知らない間に、国際標準規格が決められ、日本企業が除外される事例が多発しているそうです。
「欧州連合は、環境基準や消費者保護、食品安全性といった分野で次々と新ルールを作る。人口5億人のEUが生み出す規則は、日本や米国の企業も拘束するために、そのまま世界標準になってしまう。国際スポーツ界でも同じことが起きる。スキーのジャンプでは、表彰台に上がる日本人が増えると、日本に不利なルール変更が導入された。柔道競技でもルール変更は欧州が主導する」
「世界の産業界には、「世界標準」というルールがある。どの国でも使えるように工業製品の規格や仕組みを決めることだが、日本は、苦い経験続きだった。高い技術力がありながら、いつの間にか「規格外」とされ、レースに参加できない」(読売新聞)
技術力で勝ち目がないとなると、今度は標準規格で規制をかけて、日本製品の締め出しを計る。
やはり日本は、これからも不利な立場で彼らと戦っていくしかないのでしょう。
鳩山首相の「25%削減」2 2009年09月23日22:31
第二次世界大戦は、経済摩擦が原因だったそうだ。
世界恐慌で経済が縮小し、各国は保護貿易に走った。
英米仏などは植民地、つまり市場をたくさん持っていたのでなんとかなった。
しかし日本やドイツは困った。
それまでばんばん輸出していた安くて高品質の綿製品がパッタリ売れなくなった。
困った日本は、少しでも市場を確保しようと、満州を植民地にし、中国に侵攻した。
ドイツはオーストリア他、隣国を次々と併合していった。
日本の中国侵攻に、門戸開放を訴えていたアメリカは激怒した。
そして日本に対する石油の輸出をストップした。
それが太平洋戦争のきっかけだった。
日本は近代史上、いつも不利な状況に立たされていた。
たとえば、かつて日本は、国産旅客機による国際線を就航させようとした。
しかしフィリピンやベトナムを支配する欧米諸国は、これを拒絶した。
「「白人はアジア人など及びもつかない優れた民族」という神話がある。その象徴が飛行機だった。それを黄色い日本人が自分でつくって飛ばしてきたら白人の権威が色褪せて植民地支配も揺らいでしまう、というのが拒絶の理由だった」(「ジョージ・ブッシュが日本を救った」高山正之 新潮社)
日本は西洋諸国以外の先進国として、いつも西洋人の矢面に立たされてきた。
それは今でも変わらないようだ。
北方領土問題はいまだ解決しない。
産業界では、世界の標準規格が西洋諸国によって決められるため、日本製品は事実上、締め出されることが多いそうだ。
日本の高性能の携帯電話が世界でまったく普及していないのは、まさにこのせいだ。
スポーツ界でも、日本人選手が活躍した翌年に不利なルール改定が行われるのは日常茶飯である。
日本は国際社会で、いつも不利な立場に立たされている。
それは今回の削減率25%でも同じだと思う。
私たちは、それを甘んじて受けるしかない。
そして今までと同じように、高い技術力でそれを克服し、彼らの鼻をあかせてやるしか、方法はないのだと思う。
鳩山首相の「25%削減」 2009年09月23日20:32
国連での鳩山首相の演説は拍手喝采だったそうで、なによりです。
でもニュースでは、その直前のオバマさんの演説が終わって退席する人が多かったそうです。
そういう失礼なことって、意外と許されるんですね。
とくに西洋諸国は大絶賛だったらしい。
サルコジとかも褒め称えていた。
しかしそのウラには、けっこうイヤらしい彼らの目論見があるようだ。
ひと月ほど前の読売の記事に、こういうのがあった。
「日本「EU目標は誇大宣伝」」
日本政府が、EUの20%削減目標が誇大だと指摘した。
日本側の分析では、EUが掲げている20%のうち、
・8%は旧共産圏の古い原発を処理することで簡単に達成できた。
・4%は他国からの購入でまかなえる。
・3%は廃棄物処理方法を変えるだけで加算される。
純粋な削減率はたったの5%に過ぎないという。この指摘に対して、
「欧州委員会の交渉担当者は、指摘内容を大筋で事実と認める一方、目標は排出枠購入分などを含めた90年比の数値で比較するべきだとの見解を示したという」
要するに自分ところの計算は正しいと。
自分たちは十分野心的な努力目標を掲げているんだから、アンタのところも、我々を見習って、がんばらないとダメじゃないかと。
そういうことらしい。
実際にはたいして削減しないにもかかわらず、他国に痛みを強要する、こういう手品のような、自分のことを棚に上げた、奇想天外な発言をするのは、いかにも西洋人らしい。
このニュースを聞いて思い出したのは、吉村昭氏の「ポーツマスの旗」という小説である。
日露戦争の和平条約締結のために、全権大使の小村寿太郎はアメリカに向かった。
ロシアの全権大使はヴィッテ。
ヴィッテは、あの手この手を使って、日本を誹謗中傷し、時にはウソの情報を流して、和平条約を有利に進めようとする。
対する小村は、最後まで正論を展開し、一歩も譲らなかった。
この正々堂々とした小村の態度に共感したアメリカのルーズベルト大統領の仲介で、ついに大国ロシアからサハリン割譲という譲歩を引き出すことに成功した。
途上国が西洋列強に一矢報いた瞬間だった。
外交というのは、生き馬の目を抜く利害の対立の場であって、そんな甘いことは言っていられないんだろうと思う。
しかし結局、日本は、日本のやり方でしか勝負できないのだと思う。
西洋の卑怯なやり方に、堂々と立ち向かい、彼らが瞠目するような目標を掲げた鳩山首相に、私は拍手を送りたい。
誰かが率先して痛みを引き受けなければ、地球の環境はよくならないのだ。
「ブランド価値ランキング」 2009年09月20日03:07
本日の読売に、
「ブランド価値ランキング トヨタ世界8位に」
という記事があった。
世界の大企業の「ブランド価値」をランキングしたものだ。
一位はコカコーラ。
二位から五位は情報通信系企業が続き、6位がマクドナルドだった。
この2社は、いずれも、
「あまり体によくない食べ物を販売して利益を得ている」
ことで共通しているが、ブランド戦略が巧みであることも共通している。
最近読んだ本に、こんな記述があった。
「色彩というものは、教育が高く収入の多い人ほどおだやかな中間色を好み、貧乏で教育の低い人ほど派手なオレンジとか赤の色を好むという。(中略) また、教育が高く収入の多い人は箱などはどうでもよく、内容に関心を払い、反対の人ほど中身なぞより箱に心を奪われる、という実験結果も出ている」(「ああアメリカ」板坂元 講談社現代新書)
コカコーラもマクドナルドも、イメージカラーが見事に原色真っ赤であることは、偶然ではないらしい。
そしてかれらのブランドイメージが、ここまで高いという事実は、かれらの戦略に、まんまと引っかかっている、私たち消費者の愚かさの表れとも言えないだろうか?
「ニッポン社会」入門 2009年09月17日02:40
「「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート」生活人新書 NHK出版
イギリスのデイリーテレグラフ記者、コリン・ジョイス氏の著書。
14年も日本に暮らす記者から見た日本案内。
原文は英語だが、おそらく日本で出版するために書いた原稿らしい。
著者の日本にたいする深い造詣と愛情に溢れた、しかもユーモアのある本で、たいへん面白かった。
特に外国人らしい視点が光るのは、
「歌舞伎は歌舞伎町でやっていない」
確かに歌舞伎町でやってると普通の外国人は思うよな。
「来日当初の夏、発電機の音がやかましくて閉口していたが、ある日それがセミの音だと知って、途端に好ましいものへ変貌した」
日本のセミは、外国人にはかなり奇異なものらしい。
というように、外国人の視点から見た日本は、私たちに興味深い示唆を与えてくれる。
一読に値する本だと思う。
ところでこの本で興味深かったのは、むしろ後半に書かれていた、外信記者としての著者の不満である。
英国紙の編集者は、彼が書いた記事をひどく改ざんするという。
そしてそれは、もはや固定観念となったキワモノ的な日本の事象を笑うような内容が多いのだという。
「たとえば、ぼくはペットに対する日本人の態度が変わってきているということを記事に取り上げたことがある。その一例として、ぼくはペットも住めるように設計されたマンションを紹介した。ところが、東京はペットにやさしい都市になりつつあるという内容の記事になるはずが、デスクはそれを、日本人は病的なまでに潔癖なため建設会社はマンションの入り口に犬専用のシャワーを取り付けさせられているという主旨のものへと変えたのである」
イギリス人デスクの日本のイメージというのは、
高性能トイレ、踊るロボット、ゲイシャ、ヤクザ、原宿の不思議なファッション、相撲、カルト犯罪、俗悪なパチンコ文化、過労死、抑圧された女性
などで、たいがい下世話な話題として取り上げられることが多いそうだ。
もちろん日本のメディアだって、外国の珍妙な記事を紹介している。
アメリカで出没するストリーキング男とか、宝くじで何十億円も当てたラッキーな人とかである。
しかしそういうのと、上記のラインナップは明らかに違う。
それはなにかと言えば、「オリエンタリズムとしての日本」ということだろう。
西洋とは、まったく異なる日本の一面を誇張し、自分たちとの違いを強調し、しかもその話題は俗悪なものばかりである。
日本では相撲は国技だけれど、西洋ではキワモノである。
パチンコなどは俗悪の極みだろう。
地下鉄サリン事件は西洋でも大きく報じられたらしい。
最近ならマスクを装着する群衆が異常に映っているに違いない。
要するに自分たちとは異質な「好ましくないイメージ」を、日本に投影することで、多くのイギリス人は満足しているわけだ。
デスクはそれを十分に心得ているのだ。
大多数のイギリス人は日本について、ほとんどなんの予備知識もないし興味もない。
著者が土産に買っていく味噌やハシで味噌汁を作って飲む人はひとりもいない。
オーストラリアでは味噌汁を飲むのは、ごく普通のことらしいから、この違いははなはだしい。
欧州の西洋人にとって、私たちが、いかにどうでもいい国か、そしていかに偏見と捏造が加えられているかということを、改めて思い知らせてくれる。
著者は、そのような事柄について多くは語っていないけれど、自分の非力を嘆き、真摯に謝罪してくれている。
彼のようなイギリス人がひとりでも増えることを願うばかりである。
女性差別解消「進まぬ日本」 2009年09月13日22:45
ちょっと前だけれど、読売に上記の記事が掲載されていた。
国連の女性差別撤廃委員会という組織が、日本の現状は遅れているので改善せよという勧告を出したそうだ。
その数は、雇用差別とか家庭内暴力とか、26項目に及んだという。
特にこの間の性暴力ゲーム(女性をレイプして妊娠させるやつ)が槍玉に挙がったらしい。
もちろんこういう問題は非常にデリケートで、私なんぞがここで言いたいことを書いたら、また物議を醸しそうなので、一点だけに止めようと思う。
こういった女性解放団体の主張のひとつに、こんなのを聞いたことがある。
「途上国では、性行為の際に、男性だけが一方的に射精するばかりで、女性が性的快感を得られていないのは不公平だ。女性は性的奴隷ではない」
確かにこういう傾向はあるようだ。
聞いた話では、中国なんかでは、ほんの二、三分で終わっちゃうとか。。。
でも、そこにはやむを得ない事情もある。
たとえば私が滞在したモンゴルでは、大家族がひとつのゲルで寝るので、夫婦はいつも家族に囲まれている。
隣で寝ている甥っ子の寝息が聞こえるような環境である。
そういう状態じゃあ、さっさと終わらせるしかないじゃないですか。
一般に途上国の住宅事情は、日本なんか問題にならないくらい悪いから、途上国の夫婦は、そういう問題に、いつも直面しているわけで、十分な個室が与えられていれば、いろいろと改善のしようがあるのだろうと思うのだ。
要するにこれは、差別問題などではなくて、経済問題なのである。
こういう主張は、夫婦の寝室があって当然の、恵まれた人たちの贅沢な言い分に過ぎないように、私には思える。
環境問題は「人類共通の問題」か? 2009年09月08日03:12
前回の日記の続きです。
西洋人はユダヤ人虐殺について、実はなんの感慨も持っていないのではないかという、村上兵衛氏の発言は、以下のように続きます。
少々長いですが引用します。
「私のこのようないいかたにたいして、ドイツの一般大衆はそうかもしれぬが、ベルや、最近ではホーホフートのような知識人が、その問題を追及している、という反論もでるかもしれない。しかし、彼らは、その問題を「人類共通の問題」として提出しているのである。たしかに、それは人類共通のテーマであるにはちがいない。しかし、それ以前にドイツの国民性から導かれた要素もたくさんあるはずだ。少なくとも、私はこんどの旅から、その臭いを浴びるほど嗅いだ。
デリケートに自分の傷を調べることもなく、いきなり人類一般の課題にたちむかう、その壮大(粗大)な精神構造そのものに、私はドイツ人を感ずる。日本人の肌あいからいえば、それはまたヨーロッパ文明のひとつの帰結という感じもする」
ナチスによるユダヤ人虐殺は、西洋人内部の問題であるはずなのに、それを「人類共通の問題」として取り上げる。
自分たちが引き起こした悲劇にもかかわらず、まるで人類全体が悪かったかのようにして問題提起をする。
これに類することを、最近私たちは経験していないでしょうか。
そう。環境問題ですね。
そもそも100年以上かけて地球を汚したのは一握りの先進国であって、本来、先進国で解決するべき問題を、「人類共通の問題」として提出する。
自分たちも我慢するかわりに、途上国にも制限を強要する。
常に正しいのは自分たちで、追随する連中はそれに従うのは当然と考える。
彼らが正義と考える民主主義とか人権とかもそうでしょう。
このような、おそらく一般の西洋人が気づいてすらいない無意識の傲慢が、世界の紛争の火種になっているのではないでしょうか。
先日来、いくつか本を読んでいて、「へええ」と思ったことがあるのでご報告したい。
それはユダヤ人差別に関する記事である。
私たちは、ユダヤ人のホロコーストに関して、痛ましい事件だと思っている。
そして世界中の人々、とりわけすべての西洋人は、「アウシュビッツ」「ガス室」「アンネの日記」というような連想をして、ナチスの虐殺に対する恐怖と怒りを感じているものだと、思っているわけだ。
しかし当の西洋人たちは、実はそうでもないらしいのだ。
村上兵衛氏の「繁栄日本への疑問」(サイマル出版会)の一部に、著者の欧州旅行の感想が掲載されているが、以下の記述がある。
「ドイツ人が、戦争について、いやナチスについてさえ、なんら反省していない、という観察は、周辺の国々では広くおこなわれている。(中略)プラーグで会ったあるユダヤ系の知識人は「東ドイツの政府首脳だって、ヒトラーは少しだけ間違っていた、くらいに考えているんじゃないかな」と笑っていた」
当のユダヤ人も、こんなことを書いている。
「欧州の国民にはナチスによるヨーロッパの六百万のユダヤ人の虐殺がなんの深い印象もあたえなかったことは、疑いをいれぬ事実である。それは本当にかれらの良心をゆすぶるような結果とはならなかった。かれらはそれを冷然と見ていたにすぎない」(「非ユダヤ人的ユダヤ人」I.ドイッチャー 鈴木一郎役訳 岩波新書)
著者は、その理由について、欧州の一般大衆がユダヤ人に対して、金融、金貸し、仲介業などで不当にカネを稼いでいる連中という偏見を持っていることと関連していることを指摘する。
「私はこの事実と、一般の人々の心の中に根ざしているその想い出が、少なくとも部分的には、欧州一般がユダヤ人の大虐殺を目撃したときの「ざまみやがれ的な気持ち」や冷淡さの原因になっているのだといいたい」
多くの西洋人にとっては、もともとユダヤ人は差別の対象であったから、ナチスによる大虐殺も、その延長として捉えていた、つまりちょっとやりすぎたけれども、たいして非難されるべきことでもない、というのが、もしかしたら本音だったのかもしれないのである。
ユダヤ人のホロコーストに、心から哀悼の気持ちを持っているのは、もしかしたら私たちのような部外者だけなのかもしれない。
そこで先日の読売の記事である。
フランス人の知日家で知られるというジャンフランソワ・サブレ氏が、読売に寄稿していた。
その中にこんな一文がある。
「欧州では、西独のブラント首相がワルシャワを訪れ、ユダヤ人ゲットー跡地でひざまずき、ナチスによる虐殺を深く謝罪した。欧州の人々は皆、深く感動した」
上に転載した記述を呼んでからの、この一文は、なんとも空々しいものに映る。
ドイツに大負けしたフランス人らしい発言という気もする。
もちろん同氏自身は深く感動したんだろう。
しかし多くの西洋人は、あのドイツの国家元首が、自身の非を認めて謝罪したことにたいする「溜飲を下げた」的な思いの方が強かったのではないだろうか。
だって「謝ったら負け」というのが彼の地の鉄則なのである。
「ユダヤ人に対して」というよりも「謝ったドイツに対して」感動したんじゃないだろうか???
ようやく本が出そうです 2009年09月06日00:52
6月頃に、新刊本が出ると公表して以来、なしのつぶてでした拙新著ですが、ようやくゴーサインが出たみたいなので、改めてお知らせいたします。
実は前回の話では、「光文社ペーパーバックス」のシリーズで刊行される予定で話が進んでおりました。
そんで原稿もできあがって、あとはレイアウトを組んでもらうところまで行ってたわけです。
……そしたらね。
編集部、解散になっちゃったんです。
理由はいろいろあるんでしょうけれど、光文社、出版業界でも「ヤバイリスト」のトップに来るほど経営が苦しいらしいです。
それでも編集長は目をかけてくださって、原稿も上がっているので、仮原稿料ということで、★万円も振り込んでくれたんですが、肝心の原稿は宙に浮いたまま。
仕方ないので、別の版元さんを探して、知人の社会派ジャーナリストの若林亜紀さん(公務員批判で定評ある人。朝生にも出演)に、天下の文藝春秋を紹介してもらいました。
電話して文春に挨拶に行ったら。
まるで帝国ホテルのロビーみたいな(行ったことないけど)ところに通されまして。
照明を落とした絨毯敷きの広々としたホールに、窓際にポツン、ポツンとテーブルが並んでます。
すんごく上品。
イスは革張りで、ふんぞり返れるんですが、猫背の私は前屈み。
キレイなお姉さんが、にこやかに、
「温かいお飲み物と冷たいお飲み物、どちらになさいますか?」
「つ、つ、冷たいお茶ください……」
担当さんのMさんにも、おもわず愚問を。。。
「や、やっぱり、芥川賞の大先生とか、司馬遼太郎とか(←呼び捨てかよ)、こ、このテーブルで打ち合わせしたんでしょうかね?」
「ええ。さっきまで今年の直木賞受賞した★★先生が、そこに座ってましたよ」
……ひえー。
ということがあり、本日晴れて、「ゴーサインでました」のメールをいただいたのでした。
来週二度目の打ち合わせに挑みます。
詳しい続報は後日。
中国の「新植民地主義」 2009年08月31日02:01
新聞を読んでいると、たびたび中国系企業の労働者と現地人との衝突が報じられているのを見かける。
中国はアフリカ諸国をはじめ、資源や農地確保のために進出しているわけだが、彼らは労働者も「輸出」しているそうで、中国企業を誘致しても、現地人の雇用はほとんどなく、あってもすさまじく安い低賃金で働かされて、不満が爆発して暴動に発展するケースが多いらしい。
この間も、パプアニューギニアでの、そんな事件が報道されていた。
このケースの場合、一日10時間労働で、日給はたったの440円だったそうだ。
食事は一日ビスケット数枚。
いかに純朴なパプア人も怒るだろ。
地元の警察は、政府高官が中国企業から賄賂を受け取っているので、捜査を許可されない。
そこで大規模な暴動が起こった。
同じような暴動は、アフリカのエチオピア、スーダン、ナイジェリア、ニジェール、太平洋のソロモン諸島やトンガでも起こっているという。
こういう報道を見ると、当然ながら中国企業のエゲツナイやり方に憤りを覚えるわけである。
現地国の政治家や官僚と外国企業が癒着するというパターンは、世界中の発展途上国で見られることだ。
これがいわゆる「構造的暴力」といわれる、世界の新しい植民地主義のやり方である。
だから今さら珍しくもない。
私がむかついたのは、上記パプアの事件に対するオーストラリアのシンクタンク(たぶん)の研究員の、以下の発言である。
「中国は汚職や治安悪化の輸出源になっている。不透明な経済援助やわいろで政府を抱き込み、住民の怒りを買っている」
私はこの国に行ったことがあるから断言できるんだけど、パプアニューギニアはオーストラリアの植民地だ。
毎年莫大な援助金を受け取っている。
売られている、ほとんどすべての商品はオーストラリア製だ。
天然ガスなどのプラントもオーストラリア企業が握っている。
かつてこの国の山岳地帯に分け入った山師のオーストラリア人は、石器時代のような高地の人々を、銃で無差別に殺戮した。
悲しいことに、それが彼らの、初めての近代文明との接触だった。
それ以来、オーストラリアは長らく、この国を植民地にしてきた。
そのオマエが、中国を非難できるのか??
自分たちがウラでやってる悪いことは、すべて棚に上げて、「全部中国が悪い」かよ。
それはおかしいだろ。
少なくともオマエの国に、中国を非難する権利はない。
最後に付け加えますが、当然ながら、私は中国を弁護しているのはありませんので悪しからず。
韓国の元大統領が死去したわけだが、この人についての言説にも、少々ギモンがある。
先日来、女優の大原麗子さんの死去について批判的な日記を書いたら、予想外の多くの「批判的なコメント」をもらったので、それに関する意味も含めて、この人について書こうと思う。
日本を含めた欧米では生粋の民主主義者として語られる金大中氏だが、当の韓国では、ずいぶん温度差があるそうだ。
四方田犬彦氏によれば、現地の大学教授は、この人のノーベル賞受賞について眉をひそめて、この人がどれだけこの賞を受賞することに野心を燃やし、ノルウエーの要人を接待したかについて語ったという。
「なるほど彼は日本をはじめ諸外国に対しては民主主義の闘士といった、わかりやすい外面を見せているかもしれない。だが国内の経済問題に関してはまったくの無能ぶりを曝け出しているばかりであって、国民をIMF体制の犠牲にしながらも、北に向かっては大量の米や資材を提供し、個人的な国際的名誉を執拗に求めているにすぎない」(ソウルの風景 岩波新書)
自国民の犠牲を顧みずに、ノーベル賞受賞という己の野心のためだけに
北朝鮮に援助を続け、経済危機を悪化させたというのが、多くの韓国人の、この人に対する認識だそうだ。
もちろん見解はいろいろあるだろう。
しかし私たちは、この人の業績を「民主主義者」という一面だけで見ていることは間違いない。
確かに死んだ人の悪口をいうのは、あまり感心できることではないけれど、しかしその人物を総合的に評価するためには、客観的な事実に言及しなければならないのは当然のことだろう。
たとえそれが悪口になったとしても。
金大中氏は、私たちが思っているほど韓国では評価されていない。
私たちの金大中氏像は、西洋の民主主義諸国が、自分たちと同じ価値観を共有する人物に対する好意的な報道によって増幅された、彼の一面のイメージに過ぎないのだ。
イギリスの階級社会 2009年08月25日01:50
8月18日の読売のコラム「緩話急題」に、
「固定化進む 英の階層社会」
という記事が載っていた。
イギリスはたいへんな階級社会だそうだ。
富者と貧者は没交渉で、ふたつの「種族」に二分されている。
「今日も職業・収入による階層が厳然とある。銀行家・法律家・医師など専門性の高い職能集団が上層をなし、主に体を使う労働者は下層に甘んじ、定職のない人々が最下層にひしめく」
日本では、上位20%と下位20%の人々の所得格差は3.4倍だが、イギリスは7.1倍。アメリカは8.5倍だそうだ。
昨今の投資会社のCEOのボーナスを見れば、その莫大な格差は理解でいるというものだ。
日本はまだまだ健全な社会なのだ。
人々の公平さは、中等教育ですでに失われる。
たった7%の金持ちは私立校に進学。
残りは公立で、官僚や銀行、法曹界の多くが私立校出身者で固められている。
「生まれが人生を大きく左右する。英国の社会流動性は先進諸国で最低水準にとどまる。富者と貧者は依然として相交わらない」
私の友人が、チャーチルの生家を見に行って、その屋敷の巨大さに、ぶったまげたそうだ。
一部の大金持ちの貴族が国家を運営してきたのが、イギリスなのである。
「その他大勢」の貧民は、肉体労働と一兵卒で糊口をしのいできたわけだ。
前も書いたけれど、ここに「アメリカンドリーム」という言葉が、なぜアメリカで流行したかの理由を見つけられるだろう。
イギリスでは「生まれ」によって人生が決まってしまう。
貧乏人は一生貧乏人である。
そんな社会から脱出して、新大陸に夢を託したのが「アメリカンドリーム」の原義だ。
要するにイギリスという、何百年も前から変わらない貴族と貧民の、厳しい階級社会があったからこそ、アメリカの自由な風潮がもてはやされたわけだ。
そしてそのアメリカでは、イギリスの階級社会の反動で、異常な競争社会が出現してしまい、皮肉にもイギリス以上に貧富の差が出てしまった。
翻って日本はどうだろうか。
上述の数字は、日本がまだまだ平等な、機会均等が実現されている、健全な社会であることを物語っている。
日本では、とっくの昔に「アメリカンドリーム」が実現されているといってもいい。
もちろんいろいろ不備はあるわけだが、日本という国は、まったくよくできているよなあと、私は外国を旅するたびに思う。
世界には、自分の国にいては食っていけず、外国に働きに行かざるをえない国民が無数にいる。
日本国民は、なんと幸せだろうかと思う。
売れてる高額エコ商品 2009年08月25日01:00
読売のコラム「気になる!」に、このようなタイトルの記事があった。
レクサスのハイブリッド車や、六十万円以上するハイブリッド自転車など、高額のエコ商品が、年配層を中心にバカ売れしているそうだ。
そのきっかけになったのは、2005年のアカデミー賞だという。
「レオナルド・ディカプリオさんら多くのハリウッドスターが、やはりトヨタのハイブリッド車「プリウス」で次々と会場に乗り付けた。「米国のセレブの間ではエコカーがステータスの象徴」と話題になったのはこの時だ」
これを見て日本の富裕層がエコカーへの関心を高めたんだそうだ。
確かに私の知人の不動産屋の社長(60代)も、プリウスに乗り換えたが、
「これからはこういう車だよ。でっかいベンツなんか乗ってんのは時代遅れだな」
そして社長はこう付け加えた。
「こういう車に乗ってんと、普段からエコに気をつけるようになるんだよな。歯磨いてるときとかよ、頭洗ってるときとか、水出しっぱなしにしてんだろ? ああいうの、やらなくなったもんな」
なるほど。
車によってライフスタイルが変わってしまうのだ。
記事は最後にチクリと付け加えている。
「意地悪く言えば、見えから生まれた風潮なのかも。とは言え。このブームが定着すれば、地球のためになるのは間違いない」
まったくその通りです。
8月11日の読売のトップ記事は、
「クロマグロ禁輸提案へ」
モナコが、ワシントン条約の絶滅危惧種にクロマグロを指定するという提案をするそうだ。
規制が可決されれば、日本で消費される四割程度のクロマグロが輸入禁止となり、価格高騰が懸念されるという。
モナコ政府を扇動したのは、例によって環境保護団体だそうだ。
いつもながら余計なことしかしない迷惑な連中である。
それでこの日記の主旨からして、この環境保護団体およびモナコを非難する内容になるところだが、実は違うのである。
今や「スシ」は世界の食いもので、誰もがマグロを食っている。
モナコにだって回転寿司屋のひとつくらいあるだろう。
確かに彼らにとっては、クロマグロもビンチョウマグロも、味の違いなんて、わからないかもしれない。
しかしメバチとクロマグロだったらどうだろう。
我々だってわからないよね。
第一クロマグロ、最近食ったことありますか?
少なくとも私は、ここ数年で数えるほどしかない。きっと。
クロマグロの八割を食っているという日本でも、ほとんどの一般庶民は食ったことがない。
では誰が食っているのかといえば、銀座の高級料亭でバカみたいに金をかけてメシを食える、ほんの一握りのお金持ちでしかない。
つまりこういうことだ。
クロマグロが禁輸になっても、我々庶民はまったく困らない。
かつて、ハタハタという魚を、パッタリ見かけなくなった。
私が子どもの頃には、冬の風物詩として、鍋なんかによく入っていた安い魚である。
なんでも水産資源の枯渇のため、しばらく禁漁になったんだそうだ。
子持ちのハタハタは魚卵がプリプリして、なんとも言えなくうまいんだが、それはさておき、それから、かれこれ二十年以上経った最近、なんとスーパーでハタハタと見かけるようになったのだ。
ようやく資源が回復して漁が解禁されたらしい(ウイキによると1992年9月から1995年8月まで全面禁漁だったそうだ)。
しかし残念ながら「子持ち」はない。
すべてオスなのであった。
クロマグロが激減したのは、明らかに日本人が食ったせいだ。
考えてみれば、回転寿司屋が普及する前は、スシなんて一年に何度も食えるものじゃなかった。
それが今ではコンビニでも買えるようになった。
日本が金持ちになり、相対的に外国が貧乏になったので、外国からマグロをガンガン輸入できるようになったおかげだ。
そしたらマグロが激減した。
責任は明らかに日本にある。
だからここは大人しく、資源回復を待つのが穏当な態度ではないだろうか。
以上のようなことを、クロマグロの記事を読んで思ったわけだが、それにしても読売が、この記事を一面トップで扱った意味がよくわからない。
「日本文化論」(石田英一郎 ちくま文庫) 2009年08月15日01:01
最近読んだ本の中でもっとも刺激的な内容だったので、ご紹介します。
石田英一郎氏は日本の文化人類学の開祖といわれる人だそうです。
そしてこの本では独特の日本文化論を展開しています。
日本文化というのは「稲作農耕文化」と、「牧畜文化が存在しないこと」のふたつの事実に大きく規定されているそうです。
かつて中根千枝氏や堀田善衛氏が指摘したように、日本人が親近感を持つ文化というのは、ミャンマーまでで、それから先、バングラやインドになると異質な文化と言えます。
その境界がおおむね稲作農耕文明の境界と符合するそうです。
また牧畜文化は中国、韓国から西へ大きく広がっているそうです。
その文化は、本多勝一氏が指摘したように「謝らない文化」「自己主張の文化」なんだそうです。
石田氏の指摘で興味深いのは「鍵の文化」です。
中国から西洋にかけては家の各部屋のドアに鍵をつけるのが習慣的に普通なんだそうですが、それが日本にはない。
つまり日本と中国、韓国の間に大きな文化的断絶があるのだといいます。
上述の本多氏が指摘したように、日本は、ニューギニアやエスキモーと同じように、多民族に征服されたことがない、非常に「お人好しの文化」で、西洋その他の地域のような謝らない文化、強烈な自己主張で保身するという文化が世界では普通なのです。
それはともかく、この本でもっとも興味深かったのは、最終章で引用されている、評論家の村上兵衛氏の指摘です。
西洋の人々がルールを守る源泉には、子供の頃の厳しい躾による「力や権威に対する畏怖」があるというのです。
「西洋の子どもは、実に小さな紳士といっていいほど行儀がいい。それこそ文字どおり大人しい。しかしそれは大人の目が光っているかぎりにおいてであって、日本人の家庭に遊びにきて、日本人が子どもに甘いとみると、もうなめてかかって、その子どもは性格が一変したように乱暴になる。日本の主婦たちは口をそろえて、ドイツの子どもたちのそういった偽善はたまらないという。おもちゃを次々にひっぱり出して夢中になる、日本人の親が片づけるようにいってもききはしない、うまい菓子をもらうともっとくれといじきたなくせがみ、はては台所の戸棚まであけてとりだす」
どっちの躾がなっているのだろうかとギモンに思えてくるではありませんか。
もちろんこのようなクソガキも、長ずればフツーの大人になるんでしょうが、彼らの根底にある、「法律を犯さなければ、なにをやってもかまわない」式の考え方が、ガキの頃から培われているのだということがよくわかります。
また村上氏は、よく訓練されたヨーロッパの犬について、こう書いているそうです。
「こういう動物を訓練することにかけての実に発達した文化を、この犬たちの姿を眺めながら、これがヨーロッパ人自体の姿だと、しばしば思った」
肉体的な恐怖心とご褒美を与えることを、しつこく繰り返すことによって、彼らの道徳的精神は培われているというのです。
これと比べて日本は非常に植物的だそうです。
「日本と比べてヨーロッパでは、野菜や果実がきわめて貧弱である。それにつけても思うのは、日本人が植物を育てることに長じているということである。植物を育てるには、相手の心になる、相手と同化する気持ちが必要だ。それにくらべて動物をしつけるのは、自分の意志に相手を屈服させ従わせることである」
日本と西洋の違いはそういうことからも指摘できるだろうといいます。
もちろん日本人にとっては日本的な植物的、寛容的、中庸的、和合的なやり方の方が正しいような気がするわけです。
そしてもしかしたら、本当に正しいかもしれない。
しかし世界は自己主張の文化が主流です。
交通事故を起こしたら、自分が100%悪くても、「私の責任ではない」と、堂々と主張できなければ損をしてしまう文化が大勢を占めています。
しかしやはりそれはおかしいよね。
悪いと思ったら謝るのは当然でしょう。
だって、その西洋人にしても、心の底には罪悪感があるに違いないんですから。
それが発露できない社会というのは、本当に過酷ですよね。
よっぽど自分が強くないと、そしてそういう訓練を小さい頃から受けていないと、生きていけない社会なんでしょう。
そして私のような典型的な日本人は、日本以外では生きていけないんだろうなあと、改めて思うのです。
以前、某雑誌の取材で、テレビによく出ているエジプト人女性にインタビューするという仕事があった。
その人は、すらっと背が高くモデルのようで、テレビで見るよりもずっとキレイな人だったが、それはともかく、その人の話で「え?」と思うひと言があった。
「私たち西洋人はね」
あれ? あなたエジプト人でしょ? じゃあアラブ人なんじゃないの?
もちろんご本人には、そんなツッコミは入れなかったが、あとあとまで釈然としない発言であった。
同じことを、とある本を読んで思ったことがある。
「キリスト教文化の常識」(石黒マリーローズ 講談社現代新書)という本にも、「欧米では」とか「私たち欧米人は」というような記述が頻出していたのだ。
そして著者は、キリスト教徒のレバノン人だ。
てことはやっぱりアラブ人なんじゃないの?
ここで私は、彼女たちのアイデンティティについて考えるのである。
西洋人は自らを「西洋人」だとか「欧米人」だとか言うことはない。
フランス人が「オレは西洋人だから」という言い方はしない。
なぜならそれは自明のことで、改めて断る必要すらないことだからだ。
しかし上述の彼女たちは、自分をことさら西洋人であると主張する。
相手に同意を求めると同時に、自分も納得させているフシがある。
そこに今日のアラブ人の悲哀を感じるのだ。
彼女らが、東洋の先進国の市民に対して、自分たちを西洋人のカテゴリに含めようと努力する気持ちは痛いほどわかる。
彼らの国は、中近東の貧乏国あるいは小国に過ぎないのだから。
しかしさ。
そういう感情が、今日のアラブ人の中国人(東洋人)に対する差別発言につながっているのではないかと私は思うのだ。
中近東を歩いてみればよくわかる。
中高生のガキから大人に至るまで、「チャンチュンチョン!」だらけだ。
その背景には、西洋人にまったくアタマが上がらない現状に対する、アラブ人の苛立ちがある。
その反動が中国人に対する差別発言につながっている。
西洋諸国の植民地主義は、世界中の途上国の人々にコンプレックスを植え付けた。
日本人ですら、いまだにその桎梏から逃れられないでいる。
それが結果的に中国人(東洋人)を不当に貶める背景になっている。
もちろん中国人も悪いことはしてるだろう。
アフリカ各地で中国人労働者と現地人の衝突が新聞で報じられている通りだ。
しかし原因はそれだけではない。
それらの国々が、かつての植民地であり、西洋人の旦那が我が物顔で召使いの現地人をアゴで使っていた土地柄であることを忘れていけない。
大本の原因は、彼ら西洋人に起源を発する「完璧な奴隷制度」なのである。
しつこく環境問題について考える 2009年07月26日16:58
前の日記で、
「環境問題は先進国が解決するべき問題で、途上国に規制を要求するのは不当ではないか」
という内容の文章を書きまして、いろいろ反論をいただきました。
「Co2排出を地球規模で抑制する為に、先進国から新興国へ如何にスムーズに最新技術の移転を行うか?地球の緑を如何にして保全して行くか?と言った視点で考える事が大切で、先進国が悪い新興国が正しいと言った視点では解決できない問題だと思います」
「「歴史的な責任」というのはこぼれた水をグラスに戻せと言っているのと変わらないと感じました。
すでにこぼれちゃったものはとりあえずどうにもならないし、水をこぼし合っても益は無いし、その量の減らし方の多寡について話すことは大事だけれど君らがやらないなら俺らも知らんじゃ話になっていない」
両方とも非常に正論だと思います。
しかしそれは先進国から見た正論であって、途上国の連中はそんなことは思っていない。
勝手に地球を汚して裕福になったのは先進国の連中であって、彼らはいまだに牛糞を拾ってきて火を起こすような「非常にエコロジーな」生活を強いられている。
彼らに「地球が汚れるからプロパンガスを使うな」とは、私たちに言えるわけがない。
だって私たちは日々、膨大なエネルギーをジャンジャン使って、世界一裕福な暮らしをしているんですから。
環境技術の移転とか緑地保全とかは、もちろん大切なことでしょうが、その前に責任の所在を明確にするべきでしょう。
公務員の無駄遣いを不問にして増税するのと同じで、途上国の人々は、だれも納得しないと思います。
先進国が歴史的な責任を認めて真摯に謝罪し、私たちの暮らしを見直すことが、まず必要で、その後に途上国に協力を求めるのがスジってもんでしょう。
だいたい今まで、どこの国が、どれだけ二酸化炭素を排出したか、企業の生産高や輸送費や燃料費とかを合算すれば簡単に出るだろうに、そういうことを発表した国って、私は見たことがありません。
もちろん発表すると都合が悪いから伏せてるんでしょう。
そんなことを調べるまでもなく、私たちの暮らしが質素なインド人の何百倍も裕福なのは明白なんですから、私たちが彼らに対して大きな譲歩をするのは当然と思います。
たとえばソウルでは、確か週末や祝日は、ナンバーの下一桁が偶数か奇数かで、マイカーでの行楽を規制していました。
それくらいの不自由をしても当然だと私は思うわけですが、しかし景気が悪い昨今、そういう提案はもちろん否定され、「エコロジーな電化製品」への買い換えが勧められる。
そしてその「エコロジーな電化製品」を製造するのに、どれだけ環境を汚してるのかは、まったく不問なわけですよね。
プリウス一台造るのに、どれだけの水が必要なんでしょうか??
先進国の人々が環境問題について、本当に真摯に考えているのか、ギモンに思えませんか?
環境問題におけるアメリカの傲慢 2009年07月21日03:34
アメリカのクリントン国務長官がインドを訪問して、地球温暖化への早急な対応を求めたそうです。
インドはCO2の主要排出国なので対策を求めたわけです。
自分の国の贅沢三昧の暮らしは棚に上げて、貧乏なインドに、さらに貧乏を強要する、いかにも西洋人らしい自己中心的な言説です。
これについては、もう何度も言及していますが、もうひとつ別な例を挙げて、彼らの主張がいかに偽善的か、見てみましょう。
例えばインドのすべての家庭にテレビが普及するとしましょう。
テレビは途上国の人々の夢です。途上国で一番欲しい電化製品はと聞いたら必ずテレビがあがります。
ともあれ、何千万台というテレビの製造と、これを見るための電力供給によって、地球は相当量汚れますよね。
しかしたとえばアメリカ人が、一家庭に何台もあるテレビを、ひとつだけに減らせば、そのぶんインドのテレビ普及による地球の汚染は軽減されるわけですよね。
要するにそういうことなんだと思います。
私たちの贅沢三昧の暮らしを見直すことで、途上国の人々が、ある程度豊かな暮らしを享受することができるわけです。
日本などの先進国では、「エコ」と称する新たな販売戦略が定着しつつありますが、実は私たちの電化製品を減らすこと、つまり私たちが少しだけ不自由な暮らしに戻ることが、一番のエコなのだと私は思います。
途上国に排出量規制を一方的に要求する前に、自分たちの奢侈な暮らしをなんとかしろよと、私はアメリカ人に言いたい。
もちろん自戒も込めてですけどね。。。
地球温暖化は先進国の責任2 2009年07月18日21:07
モンゴルの遊牧民の家族を訪ねたのは、七年前の2002年のことだった。
それから五年後の2007年に再訪した。
当時赤ん坊だった子供はすっかり大きくなり、おじいちゃんは亡くなっていたが、家族は元気で、5年ぶりの再開を喜んだ。
五年間で、モンゴル人の生活は、ずいぶん豊かになっていた。
七年前に訪問したときにはなかった新しい物がいくつかあった。
そのひとつは携帯電話。
もうひとつはプロパンガスのガスコンロ。
最後にもうひとつは、簡易式の洗面台だった。
500ccも入れば一杯になるタンクがついていて、蛇口をひねるとチョロチョロと水が落ちてくる。
洗面台の下の扉を開けると、バケツが設置してあり、汚水が溜まるようになっていた。
こんな子供だましの器具を見て、多くの日本人は笑うかもしれない。
しかし彼らと親しくつきあった私たちは、そこに彼らの、「水道」に対する強い憧憬を見るのである。
彼らにとって、蛇口をひねれば水が出てくる「水道」というシステムは、文化的生活の、ひとつの象徴なのだと思う。
彼らは、近くの泉に車を飛ばして、定期的に水を汲んでくる必要がある。
水道は、彼らにとって便利この上ないシステムだが、遊牧生活を送っている限り、絶対に手に入れることができない「夢」である。
だから彼らは、たとえそれが子供だましの器具だとしても、お金を出して買ったに違いない。
彼らのそんな、ささやかなシアワセを、私たちは笑うことができるだろうか。
彼らがそういう小さなシアワセを、ひとつずつ実現していくたびに、地球は少しずつ汚れていく。
彼らの暮らしが豊かになれば、それだけ温暖化は深刻になる。
しかし彼らに、それを止めろと、私たちは言えるだろうか?
私たちにそんな資格があるだろうか?
環境問題は、現代の私たちにとって、最も重要な案件である。
しかしそれは、たとえば私たちが、電化製品をひとつだけ減らすだけで、ずいぶん緩和されるものではないだろうか。
すべての先進国の家庭が、その恵まれた生活環境を、ほんの少しだけ我慢すれば、排出量は大幅に削減されるのである。
環境サミットでは、先進国と途上国の利害が鋭く対立する。
先進国は途上国にも、排出量の規制を要求する。
しかし途上国の経済的発展、つまり豊かになる権利を剥奪してまで、私たちは自分たちの豊かな暮らしを維持するべきなんだろうか。
これまでのように、途上国に犠牲を強いて、私たちの恵まれた生活を維持することが、果たして正しいことなんだろうか。
サミットでの先進国の発言に、私はどうも納得できない。
「地球温暖化は先進国の責任」
というインドのシン首相の発言を、私たちは真摯に受け止めるべきだろう。
アラビアのロレンスを求めて 2009年07月18日13:27
「アラビアのロレンスを求めて」(牟田口義郎 中公新書)
映画「アラビアのロレンス」で有名なイギリスの英雄T・E・ロレンスが、実は西洋人が勝手につくった虚像に過ぎないことを指摘する一冊。
この本で言いたかった著者の主張は、この部分に尽きると思われる。
「「アラビアのロレンス」とは、西洋人が西洋でつくった西洋のお話であり、英雄の出現に舞台を提供したアラブはなんら関知していなかったということだ。
(中略)そこではアラブの立場が無視されている。西洋人のアラブ蔑視の表れだ。このような差別感はロレンスの著書に随所で見かけるが、それにしても、アラブの視座から見ると、これまでのロレンス論とは何と不毛な部分が多かったのだろう」
金髪碧眼の青年が、駱駝にまたがり、アラブの反乱軍を指揮して悪のトルコ軍を打ち破る。
西洋人にとっては、たまらないストーリーなわけである。
しかし問題は、それがまるで史実のように、だれもが認識していることだろう。
この本を読めばわかるように、実際にトルコ軍を背面から攻撃し、鉄道を爆破したのは、アラブの部族長の英雄的活躍であった。
真実は、ロレンスは彼らの活動を英軍に報告する一介の情報将校でしかなかった。
たとえば、ロレンスの自伝「砂漠の反乱」(柏倉俊三 角川文庫)に、このような記述がある。
「私は(普通の考え方とちがうけれども)この点を固執し、重大視した。というのは、それだけ、ここは、全線の最重要地点であったからである。アラブ人は、そういうことはわからない。彼らの心は、不可欠の要求で結ばれている長いトルコ前線の全相貌を描いてみることができないからである」
まるでアラブ人は無能で、作戦を立てられるのは自分しかいないような言い草だが、実際には鉄道爆破を計画し、遂行したのは、アラブの王子ファイサルと弟のアブドラであった。
ロレンスはなにをしたのかといえば、主にアラブ軍による戦果の調査であったという。
映画でも有名なアカバ後略も、部族長アウダの提案によるもので、ここでもロレンスは指揮官でもなんでもない、ただの連絡将校でしかなかった。
彼はアラブの独立のために働いたのではなかった。イギリス人としてイギリスのために働いただけであった。
ロレンスは後年、このよな世間の虚像とのギャップに悩み、奇行を繰り返してバイクで事故死してしまった。
「自分の欺瞞に対する歴史の厳しい判決を恐れる一個の繊細で学識のある人物でもあった」(「アラビアのロレンスを求めて」)
前にも書いたけれど、歴史上には、こういうラッキーな人物がいるのだなあとシミジミ思う。
トルコの中国批判はお門違いでは? 2009年07月17日23:28
ウイグル族を弾圧した中国政府を、トルコ政府が激しく非難しているそうだ。
トルコ民族は、もともと中央アジアの遊牧民で、ウイグル族とも親戚関係にあるので、同胞に対する虐待に怒っているわけである。
トルコ人というのは、民族ではないというのは、前に書いたとおりだ。
トルコ民族は、漢民族に攻められて西へ移動しながら混血を繰り返して、現在のアナトリア(小アジア)に定着した。
遊牧民族というのは、養える人口が限られるので農耕民族と比べて一般に人口が少ない。
だからアナトリアでもトルコ民族は少数民族だった。
現在の「トルコ人」といわれる人の中には、アラブ人、ギリシア人、アルメニア人、そしてクルド人などが含まれる。
トルコとは多民族国家なのである。
しかしトルコ政府は、自国に民族問題はないと繰り返してきた。クルド民族というものは存在しないと主張してきた。そして一方で、東部のクルド人の独立運動を徹底的に弾圧してきた。
トルコ東部のクルド人が多い地域では、戒厳令は日常茶飯で、夜十一時以降は外出禁止で、街のあちこちで憲兵が銃を構えているという。
公安が目を光らせ、言論の自由は封殺され、クルドを話すこともはばかられる。
その過酷さは、こんな感じである。
「夜中に叩き起こされた。文字通り「叩き」起こされたのである。
「起きろ」という乱暴な声がする。真っ暗闇。何事が起こったのか咄嗟に判断できない。泥棒か。いや違う。泥棒なら寝ている者を起こしはしない。火事でもない。火事ならそう叫ぶはずだ。毛布がふいに遠のいて行く感じ。寒い。慌ててしがみついて毛布を引き戻す。平手打ち。冷たく固い物が、頸筋をこづき廻す。一体何事だ。悪夢だろうか。
「誰だ。なにをする」と問うたが、返事は平手打ち。同じ声がまた言う。
「起きろ」
(『トルコのもう一つの顔』小島剛一 中公新書)
この後、明かりが点いて、著者は、銃を突きつけた兵隊に囲まれていることに気づく。
パスポートを提示して国連関係の仕事をしていることを明らかにすると、兵隊は明らかに狼狽し、態度を豹変させて、「はい、どうぞ」と、パスポートを返してよこして退散したという。
著者は外国人であったから、兵隊の態度は軟化したわけだが、クルド人の分離主義者、独立主義者だったら、寝間着のまま(ちなみにパジャマはトルコ語だそうだが)、署に連行されて、尋問を受けることになったであろうことは想像に難くない。
要するに中国の武装警官が、ウルムチやカシュガルのウイグル人の家に押し入って容疑者を強制連行しているのと同じようなことを、この国でもやっているわけだ。
さらにトルコ軍が、イラク領内のクルド人組織のアジトを越境攻撃したという報道もあった。
中国政府がこれまでに殺したウイグル人と同じか、それ以上の虐殺を、トルコ政府もクルド人に対して行っているのである。
間違いなく言えることは、トルコは自分の国の少数民族問題を完全に棚に上げて、中国を非難しているということである。
おまけにトルコ政府の姿勢には、どことなく「西洋に歩調を合わせた」というニオイがしなくもない。
これは、あくまで私の「悪意ある憶測」なので、真実はどうかわからないが、EU加盟が至上命題のこの国が、西洋人の顔色を伺うのもわからなくもない。
中国を非難する前に、クルド人に対して、自治とは行かないまでも言論の自由くらい与えたらどうなんだよ、と私は思うのである。
メディア・トレーニング 2009年07月15日23:34
本日の読売新聞の「論点」に、PRコンサルタントという肩書きの男性による文章が載っていた。
この人によると、日本の政治家はマスコミ対策としてのイメージアップを、もっとするべきだと主張する。
アメリカでは、そういう「メディア・トレーニング」はごく普通に行われているという。
「むしろアメリカでは、大統領から一般の政治家、企業経営者から宇宙飛行士まで、マスコミと接する立場にあるほぼすべての人が、こうしたメディア・トレーニングを受けていると言っても過言ではなく」
へええ。そんなもんですかね。
記事はさらに続く。
「だが実際は、政策やマニフェストを発表しただけで人心を掌握し、変化を起こすことは難しい。そこには人を動かす言葉が必要だ。同時に、声の調子や顔の表情、目線、情熱、品格、服装といった「形」も、情報を受け取る側のイメージ形成に大きな影響を及ぼす」
テレビに出演する自分を効果的に演出するのは、もちろん重要なことなんだろうが、しかし情熱とか品格って、そう簡単に演出できるものか?
あるいは情熱や品格のない政治家が、情熱や品格を、さも持っているかのように「演出」することが、果たして正しいことなのか?
中身のない人が、中身があるように見せるために訓練を受けるのが、結局、この人の言う「メディア・トレーニング」なんじゃないのかな。
というのは、前に読んだ「アメリカのジャーナリズム」(藤田博司 岩波新書)に、アメリカの行き過ぎたメディア対策について書かれていたのを思い出したからだ。
アメリカ大統領選挙では「ハンドラー」というメディアコンサルタントがついて、徹底的に指導するという。
「しかしその準備は、討論の中身にかかわることより、テレビ画面のイメージがいかに視聴者好印象を与えるかに、より大きな比重が置かれていた」
そんでハンドラーの中でも、もっとも有名だったのがエイルズという人物だが、
「選挙戦を手がけるエイルズの基本的な考え方は、次の二点に集約される。第一は、テレビを徹底的、効果的に利用すること。第二は、候補者の政策の中身や実質より、よいイメージの伝達を最優先すること、である」
「エイルズが視聴者に伝えたいメッセージは、共和党の政策やブッシュの考え方ではなく、ブッシュが大統領に相応しいとの印象を植え付けるのに役立つイメージだった。それはブッシュの話し方や仕草を「大統領らしく」見せることであったり、「やさしく思いやりのある国」といったスローガンを繰り返すことであったりした」
これを読んでいると、この国の大統領選挙が、いかにイメージだけで戦われているか、「政策よりも見た目」で勝敗が決まるかがよくわかる。
望遠レンズで撮影されたブッシュが、遠くから記者団に笑顔で手を振り、知人を見つけたのか、誰かを指さして、親指を立てて「グー」をやるというようなシーンが、ニュースではよくあるわけだが、あれも計算され尽くした場面だそうだ。特にブッシュは失言が多かったので、できるだけ記者団から遠くに「配置する」戦略がとられたという。
「余計なことはしゃべるな」ということらしい。
こういう「薄っぺらさ」は、誹謗中傷CMを平気でやるアメリカという国の「品のなさ」と表裏一体のような気もする。
そしてここまでイメージ戦略に依存していない日本の選挙の方が、まだしも「マトモ」な気がしないだろうか。
品格とか情熱なんていうのは、演出しなくても自然と伝わるものだし、むしろ演出しようと考える方がヨコシマじゃないのかな。
このPRコンサルタントの人は、もちろん自分の仕事だから、イメージ戦略の重要性を説くわけだが、やはり、ある種のインチキ臭さはつきまとう。
衆議院解散が決まったそうですが、くれぐれも「見た目」だけで判断しないようにしたいものですよね。
温暖化を招いたのは先進国の責任 2009年07月11日16:32
ラクイラ・サミットに招かれた新興国の主張である。
「温暖化を招いたのは西欧諸国である」
まったくその通りだ。
たとえばここに顕著なデータがある。平均的アメリカ人ひとりが消費するエネルギー量は、
ドイツ人 2人分
インド人 60人分
タンザニア人 160人分
ルアンダ人 1100人分
に相当するという(ザルツブルグ州庁、エネルギー・環境相談所)。
いかに西洋人が地球を汚しているか、よくわかるというものだ。もちろんこの中には日本人も含まれるわけだが。
このデータを見る限り、途上国が主張する、
「汚したのはオマエらなんだから、オマエらで解決しろ」
というのは、とても正論だろう。
日々、二酸化炭素を大量に排出して、優雅な生活を送っている我々が、彼らに非難されるのは、耳が痛いことだが、仕方がないのである。
だから我々は、途上国に対して平身低頭して謝り、協力を仰ぐというのがスジだろう。
しかし西洋人はそんなことはしない。
旧植民地の下等な連中にアタマを下げることなど、彼らにはできることではない。
彼らはいつも自分たちの「正論」を用意して、決して譲らない。
「このままでは北極の氷が溶けてしまう。ホッキョクグマが死んでしまう。海面が上昇してキリバスが水没する。異常気象でたくさんの人が死ぬ。人類はこれを食い止めなければならない」
だからオマエらも協力しろと。
協力する義務があると。
自分たちの優雅な暮らしはそのままで、途上国に経済発展の妨げになる規制を設けろと、当然のように要求する。
かつてロウソクの原料のためだけにクジラを乱獲したくせに、数が減れば、
「高等動物のクジラを殺すなんて野蛮だ」
といって捕鯨国を攻撃する。
人類でもっとも人種差別をしたのは自分たちのくせに、
「人権が侵害されている」
といって、スーダンや中国の独裁政権を攻撃する。
自分たちの罪は棚に上げて「自分たちの正論」を主張し、他人に遵守を要求する。
今回の排出量規制問題でも、彼らの独善的な主張はなんら変わらない。
すべての問題に共通するのは「西洋人の傲慢」である。
この間「緑の革命」の功罪について書いたが、もう少し続けよう。
アメリカはロックフェラー財団などの主導で、世界に「緑の革命」をもたらした。
その結果、世界の穀物生産高は一気に増大した。
ではアメリカは慈善事業で、このようなことを始めたのだろうかというと、もちろんそうではない。
改良によってもたらされた高収量の品種は、農薬と化学肥料が不可欠であった。
ここがミソである。
アメリカの農薬会社、肥料会社は、これによって莫大な利益を上げることができたのだ。
このようなアメリカのやり方は、他の国でも見られる。
前にも引用した気もするが、「穀物メジャー」(石川博友 岩波新書)
という本に、アフリカのザイールでの事例がある。孫引きだが再引用してみると、
「ザイールが外国産小麦に依存するようになったのは、近年のことで、それまではトウモロコシとキャッサバが主食で、パンはむしろ馴染みのない食物であったということである。ザイールは一九六〇年にベルギーから独立して以来、アメリカ政府のPL四八〇計画の下にアメリカ小麦を輸入し、都市や町にパン屋が生まれ、輸入小麦粉を中心とした新しい食糧供給システムが形成されたのである。それは、アメリカ占領とその後のアメリカの対日小麦戦略によって、伝統的な食生活を米から小麦へ革命的に転換した日本のケースをほうふつさせる」「アメリカ小麦戦略」高嶋光雪 家の光協会)
アメリカは自分とこの小麦を消費させるために、他国の食生活をムリヤリ変えさせることまでやっているのだ。
そして最後に書かれている戦後の日本のパン食の奨励も、その一例だった。
戦後になって、日本で畜産が奨励されたのも、アメリカのトウモロコシが消費されるからだと考えれば納得がいく。
考えてみれば、給食で繰り返しパンと牛乳が出たのも、魚ではなくて牛肉が高級でオシャレだと刷り込まれてきたのも、このような戦略の一環だったのである。
現在の日本の食糧自給率が40%を切ってしまったのも、アメリカの遠大な食料戦略の一環なのかもしれない。
この間の穀物相場の高騰は、そのことを改めて世間に知らせてくれた。
しかし今となってみれば、もしかしたらそれもよかったのではないかという気もする。
いずれ中国に飲み込まれてしまう私たちにとって、和牛やコシヒカリのような高級ブランドは、これから重要になってくるだろう。
スイスの時計や、イタリアのデザイナーズブランドと同じように、日本も高級ブランド戦略で生き残っていくしか道はないのだろうから。
アマゾンに対するマスコミの「遠慮」 2009年07月07日03:12
日本の出版業界は、アマゾンにアタマが上がらないらしい。
単行本の初版部数が、ほとんどアマゾンの意向で決まるからだ。
昨年のことだが、某大手出版社の編集者が言うには、最近はアマゾンの担当者に発売前の新刊本のゲラを読ませるんだそうだ。
そうすると担当者が、売れるか売れないかを判断する。
そしてアマゾンで引き受ける部数に、初版部数が左右される。
要するにアマゾンが「これは売れないですよ」といえば、その本の初版部数は大幅に下落するのだそうだ。
かつては取次会社トーハンが部数を牛耳っていたわけだが、現在では圧倒的にアマゾンなのだ。
そこで今回の脱税疑惑。
要するに日本で支払うべき税金をアメリカで払っていたわけだ。
常識で考えて、日本で稼いだんだから日本で支払うべきだろう。
報道によれば、この会社の申告漏れは数百億円に上るという。
三年間で数百億円も日本で稼いでいて、ほとんど一銭も税金を支払っていないのだ。
そしてその莫大な儲けは、税金も含めて、すべて母国アメリカに吸い上げられていた。
これは悪質だ。
しかしこの疑惑の巨額さ、悪質さにもかかわらず、マスコミの扱いは小さい。
このmixiのニュースでも、もっと大きく扱ってもよさそうなものだ。
読売でも社会面の右端に載っていた。本来なら、会社の知名度を考えれば一面で当然だろうに。
そうはならないのは、おそらくこの会社に対する、あらゆるマスコミの「遠慮」によるのに違いない。
上記のように、出版業界全体が、この会社にアタマが上がらないのだ。
私も、この会社にはかなり世話になっているが、これを機会に他の日本の通販会社に変えようと思う。
みんなも、日本に正当な税金を納めない、この会社をボイコットしよう(笑)
「開発経済学」(渡辺利夫 日本評論社)という本を読んでいるんだけど、この中に興味深い記述があったのでご紹介したい。
「緑の革命」というのがあった。
1960年代に、品種改良や化学肥料、農薬の導入、機械化によって、途上国の農業生産が飛躍的に伸びたことを指す。
もっとも有名なのは、アメリカのロックフェラー財団が行った、フィリピンでのイネの品種改良で、これによって東南アジアのコメの収量は爆発的に増えたそうだ。
このような食糧増産を指揮したボーローグという学者は、「歴史上もっとも人命を救った人物」としてノーベル平和賞を受賞したそうだ(ウイキネタですが)
しかし一方で、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」のように、批判も根強い。
今読んでいる本にも、この増産計画で、多くの人が不幸になった事実があげられている。
本来、人を幸福にするはずのこの計画が、なぜ不幸を生み出すのだろうか。
それはこういうことである。
本来、東南アジアの稲作農業というのは、非常に集約的であった。
集約的というのは、多くの人手がいっせいに作業することで、効率を上げるということである。
ギアツという学者によれば、水田稲作は多く人出が必要なので、それだけ雇用を創出した。
そしてひとりでも多くの人間を参加させることで、1人当たりの収入は少ないものの、すべての人に安定した所得を供給したという。
地主と小作の関係も対等であった。
小作は農地を耕す権利を持ち、地主は労働を提供する義務があった。
このような関係は、日本の農家でも見られたところだろう。
稲作農業が生み出した、このような平等で平和的な互恵関係は、「ネコの手も借りたいほど人出が必要」であるという一点で、安定したものだった。
もうひとつ、スコットという学者の報告がある。
それによれば、東南アジアの農村社会には、すべての村人に生存を保証する道徳的義務が存在していたという。
すべての村人が等しく低所得にある状態では、互いに助け合わないと生きていけなかった。
だから互助関係が成立したわけだ。日本の「結」とか「頼母子講」とかも、これと同じ考えだろう。
このような社会では、地主と小作の関係は「友情関係」にあったという。
地主は冠婚葬祭などでは率先して金を出し、小作は地主を政治的に支持する。
これも日本の田舎では、よく見られることだろう。
稲作農業の集約性が、このような平和な互恵関係生み出したわけだ。
もうおわかりだろう。
このような友好関係を完全にぶっ壊したのが「緑の革命」なのである。
農業機械や優性品種、農薬、化学肥料が導入され、稲作農業はさらに集約化された。
今までの人出は半分ですむようになった。
彼らはどうなったかというと、小作からさらに下の賃金労働者に転落した。
労働力は余り、さらなる低賃金化が始まる。
こうして現在のバングラデシュの極貧農家のような世界最貧民が無数に創出されたわけだ。
日本でこのような小作農の没落が起こらなかったのは、おそらく、戦後の農地改革で、多くの自作農が創出されていたからだろう。
農薬や化学肥料による自然破壊よりも、実はこっちの方がはるかに深刻だったのではないだろうかという気もする。
確かに最初は、世界中の農家がロックフェラー財団に感謝したに違いない。
しかし数年後には、多くの人は、前よりももっと貧困になった。
そしてこの計画を指揮した農業学者は、その事実を知ってか知らずか、当然のようにノーベル賞を受賞する。
贈った方は「多くの人命を救った」と褒め称える。
まるで自画自賛ではないか。
武器輸出3原則 緩和提言 2009年07月06日00:54
読売の総合欄の、わりとベタ記事扱いだったこのニュース。
でも、けっこうイヤな内容である。
日本経団連が、武器輸出三原則の緩和をもとめる提言をしたそうだ。
武器輸出三原則とは、
共産圏、国連が武器輸出を禁止した国、紛争当事国
への武器供与を日本が自主規制したものだ。
この規制があるために、日本の軍事技術とか航空技術の発展が阻害されているという。
経団連の提言は、
「北朝鮮の脅威が増しているので、規制を緩和した方がいいんじゃないか」
という内容である。しかしそれに続く記事では、
「国内では防衛予算の減少で、軍事産業から撤退する企業が相次いでおり、新たなビジネス機会を求める産業界の意向も反映されている」
というこで、なんのことはない、不景気になったから軍需産業で儲けさせろということなのである。
「新植民地主義」という言葉をご存知だろうか。
第二次大戦後に、旧宗主国が、植民地だった国々を新しい形態で支配しようとする動きである。
それは具体的には、「経済援助と軍事同盟」という形をとって行われる。
西欧先進国は、「経済援助」と称して途上国に金を貸す。
一方で「軍事同盟」と称して武器を売りつける。
貸した金は武器の代金となって宗主国に戻ってくる。
途上国に残るのは大量の武器である。
この武器が闇で流通して、反政府勢力やテロリストの手に渡る。
かくして内戦は永久に続き、武器は売れ続け、先進国の軍需産業は儲け続けるわけだ。
私は中国の台頭や、北の脅威を考えれば、日本の再武装も、もしかしたら仕方がないもかもしれないと思う。
従って武器輸出の規制緩和も、仕方がないのかもしれないとも思う。
世の中は理想だけでは生きていけない。
しかし、上記のような新植民地主義を平気で行っている連中の片棒を担ぐことには抵抗があるな。
日本が最低限の武装をすることは仕方がないとしても、多くの人を不幸にする武器の輸出は、やはりするべきではない。
そんなことで儲けなくても、他がたくさんあるだろうに。
こんな提言を平気でする経団連の良識を疑うよね。
ノブレス・オブリージュ 2009年07月04日02:46
この間から何度か出てきた、この言葉について、今回は考えてみたいと思います。
この言葉を広辞苑で引くと、
「noblesse oblige =高い地位に伴う道徳的・精神的義務」
とあります。
ウイキには、いくつか事例が出ていますが、たとえば古代ローマの貴族が私財を投じて道路を建設したり、アメリカの金持ちが積極的にボランティアに参加することや、イギリスの貴族が率先して戦争に行くなどだそうです。
私もこれに近い事例を挙げることができます。
たとえば、かつてのイスラム帝国では、ジハード(聖戦)はイスラム教徒の義務であって、二等市民、下等市民である経典の民(キリスト教徒やユダヤ教徒)には戦争に参加する義務がなかったそうです。
これぞまさに「ノブレス・オブリージュ」でしょう。
あるいは、少々意味あいが異なりますが、日本の武士が金儲けを潔しとせず、商売にいっさい手をつけなかったのも、逆の意味で「ノブレス・オブリージュ」だとも言えましょう。
最後にアメリカの南北戦争の事例を紹介します。
この戦争では、北軍は当初、黒人がこの戦争に参戦することを拒否していたそうです。
「かれら(黒人)は殆どの白人たちと異なり、この戦争を決して「白人の戦争」とは考えていなかった」
「サムター要塞の陥落直後、早くも、ワシントンでは三〇〇人もの自由黒人が北軍への軍役を申し出た。しかし、軍首脳部は、ただちにこの申し出を拒絶した」(『アメリカ黒人の歴史』本田創造 岩波新書)
なぜ軍の首脳は黒人の申し出を拒絶したのでしょうか。
なぜなら彼らにとって、この戦争は「白人の戦争」であり、白人だけに「名誉ある参戦」が許されたからでしょう。
白人だけに「ノブレス・オブリージュ」があったわけです。
そして黒人は最初から眼中になかった。
逆に言えば、黒人に「ノブレス・オブリージュ」を許すわけにはいかなかったのでしょう。
この本によると、リンカーンは最初は黒人奴隷の解放など考えてはいなかったそうです。
彼が考えていたのは、南部の黒人を買い取り、アフリカに送り返すことでした。
実際にそれをしたのはモンローという大統領で、西アフリカのリベリアを購入しました。だからこの国の首都はモンロビアといいます。
リンカーンが奴隷解放宣言を出したのは、北軍が負けこんできたので、戦争に消極的な連中を懐柔し、戦争に協力させるための方策のひとつだったそうです。
戦争の大義名分として、奴隷解放は非常に有効だったようです。
それはともかく、ここに出てくる北軍首脳の、黒人に対する冷たい態度が、「ノブレス・オブリージュ」の典型であることは、みなさんも了承されると思います。
つまり「高い地位に伴う道徳的・精神的義務」というのは、階級社会の上に形成された、非常に差別的な思想なわけです。
古代ローマの貴族が私財を投じて道路を造ったなどというエピソードは、彼らの暮らしが、市民に数倍する奴隷の上に成り立っていたことを考えれば、美談でもなんでもないわけです。
ウイキの事例にあった英国貴族の積極的な戦争志願も、崇高な心得だと賞賛する前に、「高い地位があるのなら、必然的に低い地位がある」ことを考えなればならないでしょう。
だって彼らは、志願すれば自動的に将校になり、一般市民は雑魚の兵卒なんですから。
ちなみに西洋では「奉仕というのは公共に対して行われることが前提である」と、なにかの本に書いてありました。
だから西洋人旅行者が乞食に喜捨をすることは珍しいようで、私は喜捨を求められた西洋人の女性が、乞食の目をじっと見据えて、表情すら変えずに、ゆっくりと首を左右に振ったのを見たことがあります。
ああいう拒否の態度は、いかにも西洋人らしい。
おそらく彼女も、母国に帰れば積極的にボランティアに参加しているのでしょうが、喜捨で生活を維持しているインドの乞食にとっては、単に迷惑な習慣でしょう。
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