最新!! イランの争乱と東欧革命 2009年06月30日04:01
 
今日の読売の国際面は、イランの争乱と二十年前の東欧革命との比較記事が大部分だった。
 
 
記事の内容はおおよそ以下のようなものだ。
 
「20年前、記者(熊田)が取材して回った東欧各国で、人々は経済困難や自由の弾圧にあえぎ、民意は政権と共産主義から離れていた。その不満と抵抗の帰結として、改革は実現した」
 
一方で今回のイランの争乱は、
 
「現在のイランには、東欧諸国で見られたような、政権の国家理念への思想的抵抗はないように思える」
 
そしてこう続ける。
 
「社会の根本的な改革は、その社会を支える理念が民衆から見放されていなければ成立しない。イランの改革派運動には、その条件が欠如していた」
 
 
今回のイランの争乱では、最上部に位置する宗教指導者による神権政治が打倒されるにまで至らなかったことが敗因であると、この記者は述べているわけだ。
 
 
 
 
しかし私はそうは思わないな。
 
 
 
「民主化」というのは、口で言うともっともらしい「改革」のように聞こえるが、簡単に言い換えれば、
 
「西洋的な価値観を導入すること」
 
である。
 
要するに資本主義市場経済を導入すること。
 
より悪意ある言い方をすれば、金持ちがより儲かり、貧乏人はさらに困窮して、貧富の差が増大する、アメリカのような社会に一歩近づくことだ。
 
 
東欧の民主化が成功した背景には、同じキリスト教的価値観を共有する
、同じヨーロッパなのに、隣国の西欧諸国が繁栄して、自分たちの物資が困窮し、いつまでも貧困であることを比較して、群衆の不満が爆発したのが大きな背景だろう。
 
 
 
ではイランはどうだろうか。
 
彼らは西洋キリスト教社会とは、まったく異質なイスラム社会である。そしてかつて西洋諸国の植民地争奪戦の犠牲になった人々である。
 
彼らは基本的に、西洋社会に対する憧憬とともに、一方で拒絶という、ふたつの感情を持っている。西洋の帝国主義に対する根強い抵抗がある。
 
このことを理解しないで、東欧との単純な比較は無意味だと、私は思う。
 
 
もうひとつ。
 
イランは、当時の東欧諸国のような物資に困窮した極限状態にはない。
 
イランはとても裕福な国である。
 
モスレーという観光地はイラン人観光客でいっぱいだった。人々が行楽に出かけるほど暮らしに余裕がある国である。
 
 
この記者は、そのようなイランの特殊性、彼らが西洋文明を基本的に拒絶しているという事実や、東欧の当時の貧困とイランの現状がイコールではないなどの違いについて、なにひとつ触れていない。
 
東欧と比較するこの記事が、イランに対して、ひどく悪意のある内容であることが、みなさんにもおわかりいただけると思う。
 
 
 
 
多くの意見があると思うけれども、私の見解は以下の通りである。
 
 
今回の選挙は、イラン民衆の民意を反映した正当な選挙だった。
 
多くのイラン人は、現在の保守派路線を支持し、西洋文明の流入を拒絶している。
 
改革派といわれる人々の暴動を扇動したのはアメリカやイギリスである。
 
従ってこのニュースも、おそらくアメリカのメディアがセンセーションに取り上げただけで、捏造の可能性もある。
 
 
 
 
……とそこまではいかないにしても、イランの若者の多くが改革派を支持しているのも事実でしょう。
 
いずれにしてもマスコミ報道が「きわめて親米」であることを、私たちは常に意識していた方がいいと、私は思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アフガン復興支援 日本チーム活動 2009年06月29日01:46
 
これも読売の記事である。
 
日本の文民チームがアフガンの僻地の村に学校を建てるプロジェクトを開始したそうだ。
 
 
「「青空教室」しかない村だが、「女子だけでも屋根の下で授業を受けさせい」と、8年前から州政府に陳情していた。これを知った日本チームは建設予算を検討、日本政府の承認を経て地元NGOに建設を依頼する (中略)村民のザイ・フセインさんは「学校建設は村の悲願。日本人が来てやっとかなえてもらえる」と言う」
 
 
ということで、こういう援助はスバラシイよね。
 
現地に武器ナシで乗り込む日本人チームも誇らしい。
 
 
 
 
しかし。
 
かつてラオスの山の中にトレッキングに行ったときに泊まらせてもらったモン族の村人が同じことを言っていたのを、私は思い出す。
 
「学校を建てるのが我々の願いだ」
 
彼らもそう言っていた。
 
 
確かにアフガンの人々にも学校は必要だろう。でもこの文脈からすると、すでに青空教室はある。つまりラオスの貧村よりもずいぶんマシなのだと思う。
 
 
この村は本当に貧乏だった。川でオタマジャクシを取ってきて、それが大変なご馳走だった。
 
モン族は、ベトナム戦争時にアメリカ軍についたせいで、戦後はずいぶんひどい目にあったそうだ。だから彼らが住む地域は、学校なんて存在しない山奥の僻地なのだ。
 
我々が訪ねた一年前にNGOの協力で水道が通ったと言って喜んでいた。
 
電気も水道も学校もない村は、それこそ世界中にある。
 
というよりも、それが世界の普通の暮らしだと言ってもいいくらいだ。
 
 
 
 
アフガン復興はもちろん大事なことだけど、一方で私は、彼らのことがどうしても頭から離れない。
 
日本政府からすれば、まったく話題にならないラオスよりも、アフガンに予算を出した方が、対外的にも有効なんだろう。
 
アメリカに対する言い訳にもなる。
 
 
海外援助は日本の国益のために行われるものだから仕方がない。
 
でも傍目から見た不公平感は、どうしてもぬぐえない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
違法でなければなにをやってもいい 2009年06月28日18:53
 
今日の読売の経済欄の記事、「MBA ウォール街離れ」に興味深い記述があった。
 
記事自体はMBAを取得する優秀な学生たちが、不況で金融会社を敬遠しているという内容である。
 
アメリカでのMBAの威力はすさまじく、初年度の年収は1000万円を超えるそうだ。
 
私の知人でもMBA取得後、大手製薬会社の海外支店で活躍している人がいる。有名私立大卒業の優秀な人だった。
 
 
それはともかく、記事はこう続く。
 
 
「金融危機で破綻に追い込まれた金融大手トップの多くが名門ビジネススクール出身だった(中略)。カブレラ氏(有名ビジネススクールの校長)は「違法にならない範囲でできるだけ稼げと何十年も教えてきた。だが、これからは公共の利益に奉仕する精神を教えなければ」と語る」
 
 
「違法にならない範囲でできるだけ稼げ」
 
 
つまり「違法でなければ、なにをやって稼いでもかまわない」ということである。
 
この精神こそが、世の中をダメした元凶ではないだろうか。
 
 
経営が苦しくなれば、平気で従業員をクビにする自動車会社。
 
利益を上げるために、なんだかんだと理屈をつけて、保険金を払い渋る保険会社。
 
自国で販売禁止になった危険な農薬を中国で売りさばき、その野菜が日本に輸入されて問題になっても、知らん顔をしている日本の商社。
 
そして「合法的に」何十億円という異常な年棒を稼ぐ、アメリカの証券会社の経営陣。
 
 
彼らがやっていることは、確かに違法ではないかもしれない。
 
しかし記事にも書いてあるとおり、少なくとも公共の利益には奉仕していない。むしろ社会悪である。
 
 
こういう考え方が、アメリカの「訴訟社会」と通底していることは言うまでもない。
 
タバコを吸って健康被害にあったから、何十億円という慰謝料を請求したり、マックを食ってデブになったからといって、何十億円も請求する異常な社会である。
 
確かに訴訟自体は合法だろう。
 
しかし日本の常識からすれば、限りなく言いがかりに近いのである。
 
 
 
記事では、このような利己的な経営思想については、見直しの気運が高まっているそうだ。しかし改革の具体像は、手探りの状態だという。
 
 
「法律で制限されていないことは、なにをやってもかまわない」
 
 
という考え方が改まらない限り、金融問題も環境問題も、なにひとつ解決しないのではないかと思えてくる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに混迷するイラン 2009年06月21日23:57
 
相変わらず争乱が止まないイランである。
 
死者も出てしまい、シャレにならない状況になってきた。
 
マスコミ各社は、相変わらず保守強硬派の体制側を批判する報道を続けている。
 
 
 
……そういえば、こんな争乱、前にもあったよな。
 
といって思い出したのがミャンマーだ。
 
日本人の報道記者が犠牲になったので記憶に新しい。
 
あの争乱について、もとミャンマー大使という人物が、スーチーさんに関して、かなり批判的な記事を週刊誌に書いていた。
 
 
「デモを行っているのはいわゆる一般市民ではなく、言葉は悪いですが、その多くは無頼漢や与太者、失業者などで、NDL(スーチーさんの政治団体)から金銭の提供を受け、動員されているのは事実なのです」
 
 
もちろんイランもそうだとは言い切れない。
 
しかし可能性は十分にある。
 
 
 
かつてアメリカのCIAは秘密工作によって、当時のモサデク首相を失脚させた。
 
モサデクとは何者かというと、それまでイギリス資本に独占されていたイランの石油利権を国有化した人物である。
 
これにより、イランの取り分は、それまでたったの16%だったのが一気に50%になった。
 
欧米がほとんど握っていた石油収益を、初めてイラン国民に還元したのがモサデクなのである。
 
その後イランは、アメリカの目論見通り、莫大な石油利益を注ぎ込んだパーレビ国王の民主化政策が推し進められた。
 
しかし国内では貧富の差が広がった。
 
そしてアメリカ企業が主導するアメリカモデルの改革が、イランに定着するはずもなく、ホメイニ革命につながった。
 
最後にはアメリカ大使館が占拠されるという、アメリカにとっては最悪の事態になった。
 
ホメイニは革命を収束するために、国軍を解体した。
 
その結果、隣のイラクが、好機と見てイランに侵攻したのが、イラン・イラク戦争である。
 
 
話が脱線したが、つまりモサデクは、欧米にとっては「好ましくない人物」だった。
 
今回、彼らにとって好ましくない人物、アフマディネジャド氏が、世界中のマスコミに叩かれている。
 
 
私も保守強硬路線が、必ずしもイランや世界にとってよいとは思わない。
 
しかしその陰に、アメリカの対ロシア政策とか、もちろん石油利権とか、あるいはイスラエルの国益とか、イラン国民の与り知らぬ様々な思惑が存在していることも確かである。
 
 
そしてイランの近代史を振り返ってみたように、イスラム国家では、必ずしも民主化が正義である(あるいはうまくいく)とは限らないのである。
 
今回の争乱で、陰でアメリカが操って暴徒を扇動している可能性は、体制側の不正選挙の可能性と同じくらいあると、私は思う。
 
そういう意味で、今回の「本来、起こらなくてもよかった争乱」で、死者まで出したイラン国民が気の毒で仕方がない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒いスイス 2009年06月19日03:07
 
今日の読売に、
 
「北朝鮮とスイス 奇妙な絆」
 
と題した記事があった。
 
金正日の三男が留学していたり、この男の不正蓄財40億ドル(4000億円!)が、スイスの銀行にあったりと、なにげに仲のいい北朝鮮とスイスなのである。
 
 
この報道でビックリしたのが、スイスの企業が、北朝鮮の核開発に関与していたという事実だ。
 
スイスという国は腹黒い国である。
 
前にも書いたけれど、この国の銀行が、世界中の犯罪組織の莫大な黒い金を保有し、そのおかげでスイスフランは異常に信用が高く、さらにそのおかげで、スイス人の暮らしは、GDP49000ドルという世界最高レベルの裕福な暮らしを謳歌しているのである。
 
いってみれば彼らの裕福は、犯罪者の金を運用することで成り立っていると言っても過言ではないだろう。
 
 
しかしそのスイス人が、これについて忸怩たる考えを持っているのかというと、そんなこともないらしい。
 
北朝鮮との関係を追ってきたという同国の週刊誌の編集長は、こんなことを言っている。
 
「スイスの特性を悪用した北朝鮮の不法ビジネスが横行している」
 
悪いのはあくまでも北朝鮮であって、我々は被害者であると言わんばかりの言い草ではないか。
 
 
オマエも金正日の資産を運用して、一緒に儲けた一味ではないのか。
 
「ならず者国家」の北朝鮮に核技術で協力したのは、オマエたちの同胞ではないのか。
 
 
スイスは兵器の輸出でも儲けているのは公然の秘密である。
 
悪いことをしているのは、どこの国も似たり寄ったりなのである。
 
自分たちだけ被害者&善人を気取るのは止めてもらいたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それでもイランはいい国だ 2009年06月16日21:14
 
前回の日記で、イランはずいぶんマシな国だと書いた。
 
そこで今回は、他のアラブ諸国が、どれだけひどい政治をやっているかについて言及したい。
 
 
たとえばシリアという国がある。
 
この国は、アサドという人物が大統領である。
 
そのオヤジも大統領だった。
 
つまりこの国は、共和国であるにもかかわらず、我が隣国と同じ「世襲制国家元首」なのである。
 
これだけでもダメぶりがわかるというものだ。
 
 
このアサド氏は、この地域では珍しい、イスラム教シーア派である。
 
その中でも、さらに珍しいアラウイー派という異端宗派である。
 
なぜこのような異端の人物が政権の座にいるのかといえば、フランスによる分割統治で、多数派のスンニ派をさしおいて少数派が優遇されたことによる。
 
「意図的なエコヒイキ」をすることで多数派の憤懣を少数派に向けるという巧妙なやり口である。
 
 
ともあれアサド氏はオヤジの代から大統領に君臨した。
 
この国では「国民の10人にひとりが秘密警察」といわれるくらい、ものすごい監視国家である。
 
政治的な発言は、かなり親しい間柄でも、はばかられるという。
 
少数派が多数派を支配するからには思想弾圧、言論弾圧は必須なのである。
 
 
この国の中枢は、バース党員で、イスラム教シーア派で、さらにその中のアラウイー派(つまり、ほぼ同じ村の出身)の人物だけで占められているという。
 
重要ポストである国防大臣や、軍の司令官も、もちろんアラウイー派の側近が充てられる。
 
有能な人物が採用されることはありえない。
 
その瞬間にクーデターが起こるからである。
 
 
だから軍の司令部はおおむね無能であるという。
 
数次の中東戦争で、なぜアラブ軍が一度も勝てずに大敗北したのか。
 
その大きな理由のひとつは、ここにあるといわれる。
 
 
このようなダメな国は、おおむね対外的に強硬である。
 
我が隣国もそうだし、かつてのサダムのイラクもそうだった。
 
 
王様がかわる前のモロッコも秘密警察が暗躍して評判が悪かったそうだ。
 
大統領の孫の葬式が国葬になってしまうエジプトのような国も、同じようなレベルであることはいうまでもない。
 
イエメンやソマリアに至っては、国家権力すら、乱立する一部族の勢力に過ぎないのである。
 
程度は違っても、どこの国もロクでもない国ばかりなのである。
 
 
 
おわかりいただけただろうか。
 
イランなんか、まだまだよくできた国なのである。
 
 
しかしここで付け加えないといけないのは、私はイランが上述の国々と比べたら「比較的」よくできた国だといってるだけで、現政権の強硬姿勢の是非を判断しているのではない。
 
しかし私は、基本的に米国に楯突く国を応援したい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イラン大統領選挙 続報 2009年06月16日17:51
 
保守派が大勝したイラン大統領選挙では、その後も改革派のデモが続き、テヘランは騒然としているようだ。
 
本日の読売の報道では、大統領選の都市別開票結果が公表されたという。
 
「アフマディネジャド氏は、首都テヘランでは得票率44%と、ムサビ氏(52.7%)を下回ったが、大多数の地方都市・地域でムサビ氏の得票を上回った」
 
 
というわけで同氏は、「テヘラン以外で」大勝したらしいのである。
 
これにどういう意味があるのか。
 
ここで前に引用した文章を再引用しよう。
 
 
「イランの大部分の村むらは、ほんのひとにぎりの地主によって所有されており、これらの「寄生地主」たちは、おのおのの差配人を村において農民を監督させて、自分たちは、のうのうと美しいテヘランでくらしているのである」(「風土と歴史」飯沼二郎 岩波新書)
 
 
 
おわかりだろうか。
 
ようするにテヘランで改革派を支援し、デモを繰り返しているのは、このような寄生地主系の金持ち連中であることが想像されるのである。
 
彼らは奴隷にも近い貧農をこき使って莫大な利益を上げる不在地主である。
 
そういう連中が、貧困層を支援するアフマディネジャド氏を非難するのは当然である。
 
 
報道ではそのような政策を「ばらまき」だと批判する。
 
しかし一方で、パーレビ王制時代の莫大な貧富の差が、ホメイニ革命でずいぶん是正されたことを忘れてはいけない。
 
 
「イスラーム革命後は実際に、所得の差がちぢまった。いままで給料の少なかった人たちが多くなり、多かった人たちが少なくなるという地ならしは、確実におこなわれた。革命前は、まったく別の交通機関を利用していた、いわゆる「上流階級」の人たちも、同じ乗り合いタクシーに乗り合わせるという光景が見られるようになった」(「イスラームの日常世界」片倉もとこ 岩波新書)
 
 
核問題は確かに懸案事項ではある。
 
しかしこの事案がイスラエルの国益と直結していて、しかも核実験全面禁止を訴えるオバマが、陰で核関連の最新施設を稼働させつつあることも、私たちは注視いないといけない。
 
そしてもうひとつ。
 
もしも改革派が勝ったとしても、イランのウラン濃縮は引き続き行われるというのが、大方の予想である。
 
 
私は個人的に、ボロボロの自家用車を自分で運転していたという、なんとなく風采の上がらないアフマディネジャド氏に親近感を覚えてしまうのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「国際社会」ってなんだ? 2009年06月15日15:31
 
予想外の保守派の勝利に終わったイランの大統領選挙である。
 
これについて読売新聞では、社説でも取り上げている。
 
要約すれば、
 
残念ながら保守強硬派が当選してしまった。世界の平和も遠のいた。イランは今後、核開発をさらに進めるだろうが、長期的には対話路線がイランの国益にもつながる。日本も地道な外交努力をするべきである。
 
 
こう読んでみると、なんと内容のない社説だろうかと思うわけだが、ところで、この社説で興味深かったのは、「国際社会」という言葉が、合計8回も使用されていることだ。
 
たとえばこんな感じである。
 
 
「イランと国際社会との緊張関係」
 
「国際社会にとって最大の懸念材料」
 
「国際社会との核交渉」
 
「国際社会の信頼を取り戻す」
 
 
ここでこの人がいっている「国際社会」って、いったい誰のことだろうか? と考えれば、それはもうアメリカ以外ないんだが、ここでは、そんなに露骨に書くことは、もちろんない。
 
安全保障上、日本は「アメリカ追随」意外に、おそらく生き残る道はないのだろうから、大新聞社が国益に反することを書けないのは当たり前なのである。
 
それは仕方がないことだとしても、痛ましいのは、海外のマスコミに叩かれ続けるイランという国である。
 
同日の別の欄では、イラン民衆のデモに対する武装警察による強硬な排除が大きく取り上げられている。
 
およそ民主国家ではない「ならずもの国家」だと宣伝しているわけだ。
 
しかし他のアラブ諸国と比較しても、イランはまったくスバラシイ民主国家である。
 
第一選挙が行われるだけでも、ずいぶんマシだろう。
 
シリアやエジプトで、何十年もひとりの独裁者が権力のイスに座っているのと比べれば、雲泥の差である。
 
というようなことはいっさい報道しないで、悪い部分だけ、ことさら拡大して報道する。
 
 
もちろんイランも、ヒズボラやハマスに資金提供はしているんだろう。
 
しかし忘れてはいけないのは、サウジなど他の産油国家も、アルカイダその他のテロ組織に資金提供しているという事実である。
 
これらの国は「ならず者」にカネをばらまくことで、自国でテロを起こされるのを防いでいる。
 
サウジがもっとも恐れているのは、イラン革命が自分のところに及んで、王制が倒されることである。
 
だから彼らは米軍を自国に配備させているのだ。
 
 
世界的に見ても、ずいぶんよくできたイランという国が、反米というだけで世界中から叩かれるのは、見ていて本当に悲しくなる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オバマ人気の陰で 2009年06月09日23:38
 
オバマ人気の陰で、アメリカが好き勝手やっているのではないかというのは、前の日記で書いた。
 
最近でも、グーグルによる書籍電子化の独占は、そのひとつかもしれない。
 
一企業がウェブ上の著作権を一手に独占するのは、どう考えてもおかしいのに、アメリカ政府は敢えてそれを黙認したとも言える。
 
要するにグーグルによる独占が、将来的にアメリカの利益につながるからだろう。
 
 
先日新聞で報道された、アメリカで完成した核施設もそうだ。
 
読売によれば、アメリカ政府が開発した、この最新施設は、建前上は天文学やクリーンエネルギーの研究施設だが、核爆発の研究にも有効で、核実験をしなくても、これに匹敵するデータを得ることができるという。
 
 
「北朝鮮など核開発の野望を持つ国が核兵器を完成させるには、核実験を避けて通れない。核実験全面禁止条約(CTBT)が、核拡散を阻止する有効手段となるのはこのためだ。
オバマ大統領は、米国によるCTBT批准と、その早期発効を目標に掲げるが、その陰では、巨大科学の力で、核実験抜きでも自国の核の優位を維持できるという自信も見え隠れする」
 
 
この人は核廃絶に積極的だとばかり思っていたが、ウラではこんなことを進めているのである。
 
オバマ人気で、世界はこの人の悪口を、オモテだって言えないような風潮になっている。
 
その陰で、アメリカの利権は着々と伸張しているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原稿が手を離れた 2009年06月09日02:29
 
夏までに、単行本を一冊仕上げる予定だった。
 
タイトルは「アジアの貧困に学べ!」(仮題 光文社刊)で、一昨年までの私の旅日記やら新聞連載やらをまとめたものである。
 
文章を書くのは、ここで改めて言うまでもなく、本当にツライ作業である。
 
確か司馬遼太郎は、小説を書く苦労について、
 
「空気を凝縮して一滴を搾り取るような」
 
という表現をしていたと思う。
 
私もそこまでではないものの、ツライことには変わりはない。
 
大雑把に言って、テレビを見ることの100倍、文章を読むことの10倍くらい疲れる。
 
だから寝不足や二日酔いの時は作業にならない。
 
小説家の丸山健二は、文章を書くのは一日に三時間が限度と書いていたが、ホントによくわかる。
 
 
それで本日まで、ひたすら推敲推敲推敲推敲の日々だった。
 
文章というのは、プリントしたものを読むのと、ディスプレイ上で読むのとでは、なぜか印象がまったく違う。
 
なので何度もプリントする。
 
 
また音読しながら読むと文章のリズムがつかめる。
 
なのでひとりでブツブツ言いながら読む。
 
 
とまあ苦労して、ようやくさっき手が離れた。
 
編集長からなんと言われるか、ドキドキしながら待つことになる。
 
怖いなあ。怖いよお。。。。。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天地人 2009年06月07日23:27
 
毎週楽しみにしている大河ドラマ。
 
直江兼続という、マイナー武将が主人公のわりには、視聴率は好調らしい。
 
このドラマは、越後の上杉景勝と直江兼続の信頼関係を軸に話が進んでいく。
 
景勝、兼続主従の揺るぎない信頼関係。
 
それは現代日本の、ドライな人間関係に対するアンチテーゼでもあるだろう。
 
 
上杉家は、織田に攻められ衰亡著しい甲斐の武田家に、同盟国として唯一、援軍を差し向けた。
 
結局、武田家は滅亡してしまうが、上杉が見せた義侠の心は輝いていた。
 
そしてそのような、愚直に「義」を貫く上杉の生き方は、弱者を切り捨て、金持ちがもっと金持ちになる現代の世の中を暗に批判しているようにも見える。
 
 
このドラマが、視聴者の支持を集めているのは、殺伐とした世の中に、みんなが不安を持っているからなんだろう。
 
損得勘定ではない、人間が本来、心の支えにして寄って立つことができるはずのなにかを、このドラマは提示してくれているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地球が静止する日 2009年06月06日12:58
 
知人に勧められて見てみたこの映画。
 
ネタバレしますんで、これからご覧になる方は読まないでください。
 
さて、いままで「宇宙人モノ」といって思い出したのは……
 
 
遊星からの物体X=悪玉
 
未知との遭遇=善玉
 
ET=善玉
 
ゼイリブ=悪玉
 
インディペンデンス・デイ=悪玉
 
スペースバンパイア=悪玉
 
 
くらいなんですが、「宇宙人=悪玉」のパターンが多いわけです。
 
それで今回はどうかというと、
 
 
地球が静止する日=中立
 
 
という、新しいパターンでした。
 
 
この映画のメッセージは、「人間は変われる」に尽きるでしょう。
 
キアヌ・リーブスの宇宙人は、環境を破壊する人間は変わらないから、絶滅させようと考えます。
 
 
しかし主人公の女性科学者は、「人間は変われる。チャンスをちょうだい」と、宇宙人を説得します。
 
この人には、黒人の連れ子がいて、反抗期で手を焼いていましたが、最後に亡き父親のお墓の前で、初めて和解して、涙の抱擁となります。
 
これを見ていた宇宙人は、なぜか気が変わり、人類の破滅を食い止めるのでした。
 
なんだかなあという感じもしますが、「人間は変われる」の中に、「人種差別もなくせる」というメッセージも込めたかったんでしょう。
 
 
この映画の悪玉と言えるのが、国防長官のオバサンです。
 
この人の以下のセリフが印象的でした。
 
「歴史が教えている。2つの文明が遭遇したとき、劣る方が滅亡するか奴隷になるのよ」
 
そして米軍は宇宙人に先制攻撃を仕掛けます。
 
これに対して主人公は「人間は変われる」と主張して、宇宙人との対話を模索する……。
 
 
そう。
 
これって、ブッシュ政権のイラク先制攻撃とオバマ政権の「チェンジ」じゃないですか。
 
 
この映画、昨年公開なんですが、間違いなくオバマの大統領就任に合わせて公開されたんでしょうね。
 
映画自体は、正直言って、あんまり面白くありませんでした。
 
以上。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中公新書2000点 2009年06月01日18:07
 
中公新書の刊行点数が2000点に達したそうだ。
 
1962年創刊。
 
一番売れているのは、野口悠紀雄氏の「「超」整理法」。
 
かつてのベストセラー「ゾウの時間 ネズミの股間」も歴代四位の成績である。
 
ところでこの記事の中で興味深かったのは、有識者179人が回答を寄せた「思い出の中公新書」というアンケート結果である。
 
最も多く票を集めたのが、この日記でもたびたび引用している、会田雄次氏の「アーロン収容所」であった。
 
「ビルマ(現ミャンマー)の英軍収容所で送った厳しい強制労働の日々をつづった、創刊ラインアップの一冊」
 
で、「西洋、特にイギリスに対する見方を変える役割を果たした」
 
などという評価が寄せられたという。
 
私も読んでみたけれども、文章のタッチが軽妙で読み飽きない。そして著者の西洋人嫌いが非常に好ましい(笑)
 
たとえばこんな感じである。
 
「はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである」
 
日本軍も相当悪いことをしたわけだが、しかし現地人に、このような残酷な扱いをしただろうかと考えると、おそらくしていないのではないだろうか。
 
彼らの動物に接するのと同じレベルの扱いは異常と言えよう。
 
そして彼らが黒人奴隷を家畜のように扱ったのも、まったく自然のことだったに違いない。
 
ともあれ、これを機会に、ぜひみなさんが読まれることをオススメする一冊である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地デジ難民 2009年05月28日23:32
 
今日、テレビ朝日の報道ステーションを見ていたら、地デジの特集をやっていた。
 
古い集合住宅などでは、アンテナの設置に何百万円もかかる場合があり、住民全員の合意が得られずに工事が進展しないマンションもあるそうだ。
 
地デジが見られなくなるかもしれない人々を、彼らの業界では「地デジ難民」というらしい。
 
「難民」というのは、広辞苑によれば、
 
「戦争・天災などのために困難に陥った人民。特に、戦禍、政治的混乱や迫害を避けて故国や居住地外に出た人」
 
とある。
 
テレビが見られない状況というのは、テレビ業界の人々にとっては天災と同じようなものらしい。
 
 
 
ちなみにウチはアナログです。
 
そして地デジ対応テレビへの買い換えは考えておりません。
 
従って再来年には、晴れてテレビのない生活に移行します。
 
 
テレビ局の人々は、テレビがない暮らしが、まるで難民のように思っているかもしれませんが、実際はまるで逆です。
 
私は旅行中、安宿に泊まっていたので、その多くにはテレビがありませんでした。
 
しかしそれで生活に困難を覚えたことはただの一度もありません。
 
逆に読書する時間が増えて大変有意義でした。
 
もちろんテレビがあっても読書はできるわけですが、一度つけるとなんとなく見てしまう、あの中毒のような症状がないだけ健全と言えましょう。
 
テレビがない生活の方がよっぽど文化的で知的な生活が営めると、私は断言してもいいです。
 
 
かつて大宅壮一がテレビの普及によって「一億総白痴化する」といったそうですが、ホントにその通り。
 
みなさんも地デジ移行を機会に「脱テレビ生活」を始めて見てはいかがでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アレキサンダーその2 2009年05月22日00:32
 
前に映画「アレキサンダー」についての批判的な記事を書いたが、その後、『カレー学入門』(辛島昇・辛島貴子 河出文庫)という本を読んでいたら、興味深い記事があったので、ご紹介したい。
 
 
紀元1世紀頃に、インド南部にはチョーラ王国という国があったが(九世紀頃のチョーラ朝とは別)、当時の文献には、おおよそ次のような記述があるという。
 
「輝く腕輪をはめた宮廷の女性が、金のカップを持ってヤヴァナのもたらした甘い葡萄酒をうっとりとして飲むという。また、ヤヴァナの男たちは、その鋭い目付き、頑強な身体と所持する立派な刀により、王宮の護衛として雇われていたという」
 
 
「ヤヴァナ」というのは何者か。
 
実はギリシャ・ローマ人のことなのである。
 
 
アレキサンダーによって東西交易が活性化され、ギリシャ、ローマの商人たちがインド南端までやって来て交易していたという。
 
そしてその一部は、時の王様の警護まで任されていたのである。
 
 
どうだろう。
 
このような絢爛たる文明があったインドを、ゾウに乗った土人としか描かないハリウッドの体質。
 
彼らは、このような史実を、ちゃんと調べていたのか?
 
おそらく歴史家に意見を聞いただろう。時代考証は重要である。
 
 
しかし彼らは敢えてインドに文明を描こうとはしなかった。
 
なぜだろうか。
 
なぜならアレキサンダーよりも大きな権力が、インドにいると困るからである。彼の英雄像が薄れてしまうからだ。
 
巨大な敵は、ペルシャだけで十分なのである。
 
 
前にも書いたように、映画なんだから仕方がない。所詮娯楽である。
 
しかしやっぱりおかしいだろ。
 
インドを不当に貶め、自分たちの英雄の価値を高めるかのようなやり方は、卑怯であると私は思う。
 
こういう制作者に、私は言ってやりたい。
 
 
 
当時、野蛮な土人だったのは、むしろ、あなたたちの先祖だったのではないのか、と。
 
 
 
ハリウッド映画には、しばしば、このような他国の文明を貶める内容の映画が散見される。
 
イスラム教が、まるでテロリストの元凶であるかのような映像まである。
 
 
しかしどうだろう。
 
キリストを不当に貶める映画を、あなたは今まで見たことがあるだろうか。
 
キリスト教会は、タイの少数民族に金品を与えて改宗させているという。そういうことを批判するような記事やニュースを、あなたは見たことがあるだろうか。
 
 
このようなことを考えるとき、
 
「西洋人の傲慢は、すでに既得権益になっている」
 
という中島義道氏の指摘を、私は思い出す。
 
私たちに、彼らがやっている不正を批判することは、少なくとも彼らが私たちを批判するのと同レベルには許されてはいない。
 
それが世界の現実なのだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブラックウォーター 2009年05月19日03:12
 
アフガニスタンで、米国の民間警備会社「XE」の要員が、民間人を射殺して問題になっているそうだ。
 
「XE」というのは、イラク戦争で話題になった「ブラックウオーター社」が社名変更したものだそうだ。
 
ブラックウオーター社はイラクで民間人17人が犠牲になる銃乱射事件を起こして問題になった。
 
彼らの問題は、
 
「軍規に抵触することをやっても、罪に問われない」
 
というその一点に尽きるだろう。
 
そして米軍が完全撤退したとしても、彼らは「軍人ではない」ので、そのうちに数えられない。
 
ここに意図的な「数字のまやかし」が起きることは、十分考えられる。
 
 
 
一方でこんな記事もあった。
 
 
「右翼過激派」米で勢力拡大
 
 
黒人のオバマの大統領就任と不景気で、アメリカの右翼団体が勢力を伸ばしているというのだ。
 
政府の報告書によれば、
 
「イラクやアフガンの帰還兵や、銃規制と妊娠中絶の反対論者」
 
がこれに該当し、
 
「白人民兵組織などの「右翼過激派組織」が銃規制の強化を恐れ、武器・弾薬の大量購入と備蓄を進めていると警告」
 
しているというのだ。
 
なんとも物騒な連中である。
 
そしてコイツラが、いわゆる「ネオコン」といわれる連中の一派であることも容易に理解できるだろう。
 
 
 
 
前にも言及した「バイオハザード2」では、こんなシーンがあった。
 
ゾンビに制圧された都市で、銃砲店に立てこもっている一団がある。
 
もと特殊部隊の隊員たち十数人が、武装集団となってゾンビと戦っているのだ。
 
そこに、生き残りの黒人が逃げ込む。
 
その直後に新兵器のサイボーグがやって来て、重火器で兵隊全員を射殺する。
 
生き残ったのは、お調子者の黒人ひとりだけだった。
 
 
このシーンが印象的なのは、制作者が明らかに「NRA」を批判しているという点である。
 
「NRA」(全米ライフル協会)というのは、ネオコンの巣窟のような集団である。
 
名前の通り銃規制強化に強硬に反対している団体である。
 
 
銃器で武装した集団は、ビールを飲みながら、まるで射的のように、近づいてくるゾンビを射殺して楽しんでいる。
 
そいつらは全滅して、善良な黒人だけが生き残る。
 
サイボーグは、黒人がブルブル震えながら、拳銃を床に落とすと、「危険率0%」と判断して去っていく。
 
 
銃があるから狙われる。銃がなければ無用な戦闘は起きない。
 
 
というメッセージにも受け取れる。
 
そんなシーンを、この映画はさりげなく描いているのだった。
 
 
 
 
上記の民間軍事会社とNRA、右翼団体、そして映画の武装集団のような連中は、根っこは同じである。
 
こういう連中が、アメリカで隠然たる勢力を持っている。
 
そしてそれが今の世界に大きな脅威を与えている。
 
武力では問題はなにひとつ解決しないということが、なぜこの連中には理解できないんだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太平洋の島々 2009年05月18日01:51
 
太平洋の島というと、ニューカレドニアみたいな「天国に一番近い島」とか、楽園というようなイメージがある。
 
私はグアムとハワイしか行ったことがないが、グアムは湿気が高くて蒸し暑かったけど、ハワイは本当に季候がよかった。
 
 
私のことはいいとして、最近、フィジーについてのニュースが掲載されていた。
 
この国は地味に軍事政権で、非常事態令を出して言論統制を行い、政権を批判した新聞記者を国外追放したり、反対派を盗聴して拘束したりと、やりたい放題なんだそうだ。
 
現在、オーストラリアとニュージーランドが経済制裁を行っているという。
 
 
またトンガという国がある。
 
こっちは王制で、ツポウ五世という人が国王だが、この人も評判が悪い。
 
民主化運動を弾圧して8人死者が出たこともある。
 
国王は「2010年に選挙を行う」と宣言しているが、どこまで民主化が進むかはギモンだそうだ。
 
 
 
最後にナウルという国。
 
ここはもっと最低である。
 
アホウドリの糞が堆積した島なので、リン鉱山があり、国民は出稼ぎ労働者に任せて、まったく働かなくても食っていけた。
 
だからやたらデブが多いという。
 
そのリン鉱山が2000年に枯渇して、現在は国民の90%が失業者だという。
 
2003年に、突然この国との通信が途絶した。理由は通信会社に滞納した利用料を払えなくなったのが原因らしい。
 
日本にもナウル領事館があったが、家賃が払えず閉鎖。
 
国営の「ナウル航空」は機体をオーストラリアに差し押さえられた。
 
 
困った政府は、外資企業の誘致を狙って、国内のあらゆる規制を撤廃した。
 
すると世界中の犯罪者やテロリストの温床となった。
 
マネーロンダリングが盛んに行われるようになり、アメリカからにらまれて、規制撤廃を撤回した。
 
海外援助を引き出すために、中国と国交と断交を繰り返し、アフガンやイラクの難民を受け入れることで、西洋諸国から援助を引き出そうとしているという。
 
この国の迷走はまだまだ続きそうだ。
 
 
 
ということで、そろいも揃ってロクでもない国ばかりである。
 
これらの国が、オモテだって諸外国の批判を受けず、報道すらされないのは、「小粒だから」に他ならないわけだが、かわいそうなのは国民であることはいうまでもない。
 
 
先日の知人編集者のHPによれば、経済評論家の大前研一氏は、現在の日本の状況を「ポルトガル現象」と呼んでいるそうだ。
 
ポルトガルは、言うまでもなく400〜500年前に国家の最盛期を迎えてから、あとは凋落の一途で、国民ももうあきらめている。
 
そんな「終わった感」が私は好きなんだが、日本もこのままでは、いずれそのようになると言うのだ。
 
そして最後のなれの果てが、ナウルのような犯罪国家なのかもしれない。
 
 
国民はみんなデブで、失業率90%。
 
 
なんともおぞましい末路ではありませんか。
 
みんながんばろう(笑)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナガフト! 2009年05月17日02:07
 
今日の読売のコラムに面白い記事が載っていた。
 
エジプトのカイロで、記者がタクシーに乗った。運ちゃんが携帯電話で話している。すると突然、
 
「ナガフト!」(やったー!)
 
どうしたのか聞いてみると、待望の男の子が生まれたという。記者はご祝儀も兼ねてチップをはずんだ。
 
後日、その話を知人のエジプト人にすると、
 
「私も最近、同じようなタクシーに乗り、多めの料金を払った」
 
「……新手の詐欺か!!!??」
 
 
 
という内容であった。
 
しかしこの話を聞いて、この運転手に悪意を抱く人は少ないのではないだろうか。
 
なぜなら、その手口が鮮やかであることと、話題が明るいからだろう。
 
 
確かに彼はウソはついているけれど、しかし他人を不幸にするものではない。
 
むしろ心温まるような気分にさせてくれる。
 
もしも年配のお客さんなら、初めて子供が生まれたときの喜びを、久しぶりに思い出させてくれるかもしれない。
 
彼はそのきっかけを与えたという意味で、相応の報酬を受け取ったという理解も可能ではないだろうか。
 
もちろん何度もやられたら辟易するだろうが、一度くらいなら、このタクシーに乗ってだまされてみたいなあと珍しく思った。
 
 
 
 
それにしても「ナガフト」……下ネタっぽくて、いい響きである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マスク好きの日本人 2009年05月16日19:10
 
豚インフルエンザのせいで、花粉症の季節も終わったというのに、マスクをしてる人が激増した。
 
電車に乗ってると、駅で乗ってきたサラリーマンが、おもむろにマスクを取り出す。その横に座っている女性も顔をすっぽりとマスクで覆っている。
 
日本人ってなんでこんなにマスク好きなんだろう?
 
 
 
2ヶ月ほど前に、野田秀樹がアエラのコラムで、奇しくもマスクについて言及していた。
 
ヨーロッパのどこかで舞台の仕事があってリハーサルをしていたら、マスクをしている女性スタッフを見かけた西洋人女性の歌手が、
 
「誰か! あの女を早く連れ出して!」
 
とヒステリーに叫びだしたという。
 
西洋では、
 
「マスクをしている=重大な感染症に罹患している」
 
ということになるらしい。
 
 
 
先日の読売新聞でも「世界マスク事情」という記事があった。
 
「ロンドンのある薬局では、今冬ほとんど売れなかったマスクの在庫が2週間前にはけた。店員のクリス・トーマスさんは、「日本人らしき人がまとめ買いした」という。「英国人はマスクをしない。変人と思われるから」とトーマスさん」
 
 
西洋でマスクをするというのは、なかなか勇気がいることらしい。
 
 
カナダで高校生が感染した件について、マスコミでは引率していた教諭や校長を批判する論調が目立ったようだ。
 
曰く、「なぜ生徒たちにマスク着用を徹底しなかったのか」と。
 
これに対して教諭は、
 
「集団でつけると奇異の目で見られると思った」
 
と話しているそうだ。
 
 
確かにマスクを着用することで、件の高校生は感染を免れたかもしれない。
 
しかし、
 
「集団でマスクをして歩く高校生の集団が、どれだけ異常な目で見られるか」
 
についてはあまり言及されないようだ。
 
 
私は批判の対象となった教職員に同情したい。
 
そして海外事情を顧慮せず、相変わらず悪者を探して批判の槍玉に挙げるマスコミの体質に、深いため息が出る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北極の利権 2009年05月13日03:22
 
先日の読売新聞に、
 
「北極利権」熱い綱引き
 
と題した記事が掲載されていた。
 
温暖化で北極海の氷が溶けて、今までの三分の二の距離で新たな航路が確保され、石油や天然ガスなどの利権を巡って、関係国の利害が鋭く対立しているという。
 
まあそうだろうね。
 
国際社会っていうのは、各国の利害の対立の場なんだろう。
 
 
「北極評議会」というグループがある。メンバーは、
 
米国、ロシア、カナダ、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウエー、スウエーデン
 
これにオブザーバーとして、
 
イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、スペイン、オランダ
 
が加盟している。
 
そして、先日オブザーバーへの加盟申請をした、中国と韓国が却下されたという。
 
 
「北極の利権はオレたちのモノだ。オマエらは黙っていろ」
 
 
そういうことらしい。
 
それはある意味で仕方のないことなのかもしれない。
 
排他的経済水域は彼らのモノだ。
 
私たちが文句を言っても始まらない。
 
 
 
しかしさ。
 
オブザーバーも西洋諸国だけっていうのは、おかしくないか?
 
これだけ温暖化が問題になっている時代に、経済問題だけで北極が扱われるのはおかしいだろ。
 
北極の氷が溶けて困る国は世界中にある。
 
キリバスのような水没しつつある国もある。
 
むしろそういう国をオブザーバーとして参加させるのがスジじゃないのか?
 
 
ロシアの外相は、
 
「北極海のルールを決めるのは評議会の加盟国だ。ルールに従い、何かしら貢献をしてくれるオブザーバーなら会議に参加しても良い」
 
と言ったそうだ。
 
そのロシアは、北極海で「海上原発」を計画しているという。
 
 
結局、世の中は大国のエゴで動いている。
 
エコだなんだ言ったって利権の方が大事で、あまつさえ南国の小国なんて、彼らにしてみれば虫ケラみたいなものなのだ。
 
 
おそらく日本も、オブザーバーに参加させてはもらえないだろう。
 
ならば、ここらで一発、困っている小国の声を代弁して、
 
「キリバスをオブザーバーに加盟させよ!」
 
と義侠心に富んだ声明を発表してはどうだろうか。
 
日本の株も上がるってものだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
再び性暴力ゲームについて 2009年05月11日12:43
 
前回の日記で、いくつかコメントをいただいたので、もう少しこのゲームについて書きましょう。
 
私はこのゲームを実際にやってないので、内容についてはなんとも批判のしようがありません。
 
しかし私は基本的に、この手のゲームは、ポルノ雑誌やポルノ映画と同じく「必要悪」だと思います。
 
もちろん「それにしては内容がひどすぎる」というご批判はあるかもしれませんが、上記のように実際にやってないので、私にはよくわかりません。
 
 
 
ともあれ「必要悪」であることを前提にすると、
 
 
ということは、もっとも非難されるべきは、製造会社ではなくて、このゲームを子供がネットなどで容易に入手できるような販路で流通させていた販売会社ではないでしょうか??
 
 
しかしイギリスをはじめとした人権団体は、英国内の販売会社の責任は黙認して、もっぱら日本の製造会社と、そしてそれを放任する日本の政治家を問題にしている。
 
そこに私は、西洋人の悪意を見ますね。
 
 
10歩くらい譲って、製造会社にも責任があるとしても、それを通常の販路で流通させた販売会社の罪が消えるわけではない。
 
だって売れるから売っていたわけですよね?
 
子供が買うかもしれないとわかっていたのに。
 
そのイギリス国内の悪弊は、なぜ非難されないのか。
 
そしてなぜもっぱら、日本と日本の会社だけが批判の対象になるのか。
 
 
そこに私は「オリエンタリズム」を見るのです。
 
広辞苑から「オリエンタリズム」を引用しましょう。
 
「西洋の東洋に対する支配の様式。東洋に後進性・官能性・受動性・神秘性といった非ヨーロッパ・イメージを押しつける、西洋の自己中心的な思考様式」
 
 
私がこのゲームに言及したのは、西洋人のオリエンタリズムが顕著に表出した好例であると考えたからです。
 
この日記は西洋批判を展開する目的のものですから、今回の性暴力ゲームの是非についての私のコメントは差し控えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あんたたちもゲームしてたんでしょ? 2009年05月08日21:27
 
このニュース、新聞で大きく取り上げられていたけれど、イギリスの人権団体がヒステリックに騒ぎ立てているらしい。
 
 
 
「少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日本製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。
 
 日本での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日本では今でも流通している。」(読売新聞)
 
 
 
彼らは、この手のゲームの俗悪性を、もっぱら槍玉に挙げるけれど、実はその裏には、日本のゲーム産業がボロ儲けしていることへの反感があることは言うまでもないだろう。
 
それにしても私が疑問に思うのは、
 
 
このゲームって、イギリスでも売ってたんですよね?
 
……ってことは、イギリス人も、このゲームやってたんですよね?
 
 
このゲームの内容の是非はともかくとして、自国の暗部を棚に上げて、もっぱら製造者側の責任を追及するイギリス人に、私は疑問を感じてしまいます。
 
 
 
「ヨーロッパ人の日本人の言動に対する非難には、現今の日本が自分たちと対等の意識をもっていることに対するいらだちという要素が、かなりの比重を占めていることを見逃してはならない」(『ウイーン愛憎』中島義道 中公新書)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豚インフルエンザの感染源、特定か? 2009年04月30日14:58
 
豚インフルエンザの感染源が、メキシコ東部の養豚場ではないか? という記事が、今日の読売新聞に掲載されていた。
 
近郊の村では2月下旬から奇妙な呼吸器障害が広がり、村人の6割が発症したというのだ。
 
「村には米国資本の豚肉会社が経営する大規模な養豚場があり、フンの処理などを巡って以前から住民とトラブルになっていた」
 
問題の豚肉会社は、病気との関連を否定し、農業省も養豚場からはウイルスは検出されていないと発表している。
 
しかしそれらのコメントの信憑性が疑わしいことはいうまでもない。
 
 
 
かつて狂牛病が問題になった。
 
この病気の原因は、羊の病原であった「スクレイピー」というウイルスが関係しているといわれる。
 
スクレイピーは、人間の病気であるクロイツフェルトヤコブ病と酷似している。
 
リビア地方のユダヤ人には羊の目玉を食べる習慣があるが、彼らの間では、特にクロイツフェルトヤコブ病の発症例が知られているという(「現代の感染症」畑中正一 岩波新書)。
 
つまりスクレイピーに感染した羊の脳ミソなどを牛の飼料に混ぜたことが、狂牛病の原因であるらしい。
 
肥育期間を短縮するために、摂理に反した異常な食いものを牛に食わせたことが、狂牛病の原因になったとも言えるだろう。
 
 
問題の養豚会社が、どんなことをしたのかは、まだわからない。
 
しかしアメリカの食品会社の、家畜にたいする扱いのひどさは、たとえばこんな感じらしい。
 
 
「五〇〇キロの「理想」体重にまでたっぷり太ると、肉牛たちは巨大なトレーラーに乗せられる。彼らは身動きもできないほどぎゅう詰めに荷台に押し込まれる。食肉解体場まで旅はしばしば荒っぽく過酷なので、ウシが転倒したり跳ね上がったりして足や骨盤を折ってしまうことは珍しくない。 (中略) ウシたちは休憩も栄養補給も、時には水さえも与えられずに、州間高速道路を何時間も、あるいは何日もかけて輸送される。旅が終わると、無傷のウシは巨大な食肉解体複合施設の畜舎に収容される。しかし、ダウナー(立てなくなったウシ)たちはトレーラーから降ろされるまで何時間も待たなくてはならない。これらのウシはしばしば激痛に苦しんでいるのだが、安楽死させたり麻酔をかけたりすることはめったにない」 (「脱牛肉文明のへの挑戦」ジェレミー・リフキン ダイヤモンド社) →詳細には拙日記をお読みください。
 
ブロイラー技術によって、鶏肉は格安の食品になったけれど、鳥インフルエンザの温床になってしまった。
 
狂牛病もそうだけれど、私たちの都合だけで自然を操作しようという人間の傲慢が、すべての原因であることは間違いない。
 
犠牲になった多くの人たちは、ある意味で、私たちの豊かな食生活の犠牲になったとも言えるんではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オバマさんで本当にアメリカは変わるのか 2009年04月29日22:59
 
本日の読売新聞の国際面「オバマ大統領 就任100日」という記事を読んで、なんとなく納得したことがあるので書き留めておこうと思う。
 
 
オバマさん就任で、アメリカの好感度は倍増した。
 
それは、まさにオバマ大統領個人に、その理由を帰することができる。
 
ワシントンポストは、
 
「オバマ氏は瞬時にアメリカに新しい顔をもたらした」
 
と持ち上げているそうだ。
 
 
しかし、アメリカの本質は、実はブッシュの頃と、そんなに変わってないような気もしないでもない。
 
この間書いたバイオエタノール増産も、誰もなにも問題にしないけれど、実はしっかりと議定書に書き込まれていた。
 
オバマさんは米軍をイラクから撤退すると公約している。
 
しかし撤退するのは「米軍だけ」かもしれない。
 
イラクに大量に派遣されている民間軍事会社の傭兵は米軍には数えられないのだ。
 
あるいは先日開かれ、イランのアフマディネジャドがゲキレツなイスラエル批判を展開した「人種主義に反対する世界会議」も、アメリカ政府は欠席した。
 
アメリカはイランと対話するはずではなかったのだろうか??
 
 
 
同記事には、
 
「ハーバード大のジョセフ・ナイ教授らが2007年にまとめた安全保障報告は「テロとの戦い」での軍事力過信への反省に立ち、米国は今後、外交や価値観などの「ソフトパワー」、つまり「強制することなく人々を我々の側に引き付ける能力」を重視するべきだと提言した」
 
とある。
 
読み方によっては意味深長である。
 
アメリカは確かに強権的な外交姿勢を大転換した。
 
しかしそれは「やり方を変えた」だけで、内実はブッシュの頃の利権誘導体質に、なんら変わりはないのではないだろうか。
 
もちろんアメリカが自国の利権を優遇するのは当然のことである。
 
しかしそれによって、何十億人という世界中の貧民の命が左右される。
 
 
オバマさん批判が、なんとなくはばかられるような風潮の中で、アメリカの利権は、こっそりと、しかし着実に伸張しているのかもしれないなあ……などと疑わせるような記事でしたとさ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貧困大国アメリカ 2009年04月29日01:40
 
日本エッセイスト大賞(確か)を受賞した「ルポ貧困大国アメリカ」(堤未果 岩波新書)。
 
よく取材された本である。日本ではまったく紹介されないアメリカの暗部が鋭くえぐられた佳作である。
 
ただし著者自らの見解は若干陳腐で残念。
 
 
 
それでこの本の内容で「へえ、なるほど」と思ったこと。
 
それは、
 
「アメリカの格差社会は、ある意味で政府によって「意図的」に容認されているのではないか」
 
という疑問である。
 
 
アメリカでは国防省や民間の軍事派遣会社が高校生や貧困層をスカウトしてイラクに派遣することが多いそうだ。
 
高校生は、具体的には黒人や移民の子供たち。
 
そして貧困層は、多重債務の肉体労働者などだという。
 
彼らはクウエート勤務と言われていたのに、実際にはイラクの軍事基地に派遣され、命の危険にさられてPTSDになったり、劣化ウラン弾で被爆して、帰国してから苦しむことになる。
 
 
アメリカは志願兵制なわけだが、軍人の確保は難しい問題である。
 
当然ながら金持ちの子息は軍隊には行かない。
 
韓国でも財閥の子息の「徴兵逃れ」は普通だ。
 
 
軍隊に入れば、本人や家族の学費や医療費が優遇される。
 
これを目当てに入隊するのは、当然ながら黒人や移民やプアホワイトなどの貧乏人である。
 
 
つまり膨大な兵員数を賄うためには、一定レベルの貧困層が必要なのである。貧困層さえ存在していれば、米軍は軍人を確保することができる。
 
徴兵制度という、いろいろと面倒な、国際的に外聞の悪い制度を持ち出す必要もない。
 
そしてアメリカ政府は、貧困対策に多額の予算を割く必要がなくなる。
 
なるほどそういうシステムができあがっているのかと、非常に納得した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「景気循環=無常」との理 2009年04月26日22:04
 
今日の読売新聞「地球を読む」に、宗教思想家の山折哲雄氏の興味深い文章が載っていたので紹介しよう。
 
100年に一度といわれる未曾有の世界同時不況。
 
しかしそれも、よく考えてみれば、ただの景気循環の一環ではないかと同氏は言う。
 
そして景気循環は、東洋的な言葉で表現するなら「無常」であるという。
 
有為転変、浮沈を繰り返す景気というものは、人間の力ではどうすることもできない「常ならぬもの」なのだ。
 
 
「しかし難しい問題が、まさにそこから生ずることも認めなければならない。なぜなら客観的な事実をそれとして認めるとしても、それを自己の血肉として受容しようとしない文明が歴史的に存在してきたし、現に存在するからだ。それがユダヤ・キリスト教文明であり、アングロサクソンによって形成された西欧社会である。この人生の無常という原則にたいし、この文明は拒否的な態度をとりつづけててきた点で一貫していたと思う。なぜなら、この文明にとっては、危機をのりこえるための生き残り戦略こそが最大の関心事だったのであり、それにたいし、無常というアジア的なエートス(精神)ほど退嬰的で虚無的な思想はないと映ったからであろう」
 
 
たびたび俎上に上げるけれど、欧州の温和な風土が、彼らの「自然をなめた態度」を醸成し、その「なめた態度」が自然科学を大きく発展させた。
 
彼らにとって自然は常に「征服されるべきもの」だった。
 
同時に「経済」も、彼らの克服するべき対象であり、よく知らないけどいろんな経済理論や、それに導かれた金融商品が発明された。
 
そして今回の破綻は、そんな新しい金融商品「サブプライムローン」に乗っかってボロ儲けをたくらんだ一部のアメリカの投資会社の「強欲」が原因だった。
 
 
山折氏は最後に「景気循環=無常」の原則に立って長期的な展望をもって冷静に対処するべきであると述べている。
 
そこまで割り切れる証券マンは、おそらくひとりもいないだろうが(笑)、少なくとも豪ドル建て預金で50万円も損している私としては、この言葉を真摯に受け止め、気長に景気回復を待ちたいと思います。
 
ああ。オレの50万円……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカのバイオエタノール政策 2009年04月24日12:26
 
オバマ大統領が推し進める「グリーンニューディール政策」。
 
環境対策と雇用創出を同時に行おうという、一石二鳥な政策である。
 
前任のブッシュが、環境問題にまったく配慮しなかっただけに、今回の政策転換は、世界的にも大歓迎なわけである。
 
 
しかし彼の政策の中で気になる点がひとつだけある。
 
「ガソリンへのエタノール混合比率の上限を10%から15%へ引き上げる」
 
化石燃料から、再生可能なバイオエタノールへの依存度を上げようという政策である。
 
一見してけっこうなことのようにも見える。
 
いつまでも化石燃料に頼るのは、確かに環境にはよくないし、最近またしても、ガソリンがジワジワと上がってきた。
 
 
しかし私たちは、ついこの間の穀物価格の異常高騰を忘れてはいない。
 
あれはヘッジファンドなどの機関投資家の莫大な投機が、穀物相場を釣り上げたのが原因だったといわれている。
 
しかしその背景には、アメリカのバイオエタノール増産という政策があった。
 
本来食用であるトウモロコシを、燃料用エタノールに転用することで、穀物価格が急上昇することは、最初から明らかだった。
 
そしてそれによって大儲けしたのは、他でもない。
 
アメリカの農家と、カーギルのような巨大穀物商社、つまりアメリカ自身なのである。
 
 
何度も書いているように、世界中の多くの後進国は、実は食糧輸入国である。
 
穀物が高騰して、真っ先に困るのは、これらの貧困国の市民である。
 
日本は金持ちだからまだいい。
 
もっと切実な、日々のパンが買えなくなるかもしれない人々が世の中には何十億人といる。
 
そのことを、オバマ大統領はどう思っているんだろうか。
 
この人には、アメリカの利害だけでなく、世界を視野に入れた政策を期待したいんだが、それも限界があるのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「アレキサンダー」 2009年04月23日13:56
 
オリバー・ストーン監督の歴史大作である。
 
この映画を観ていると、この英雄が、西洋人にとって特別な存在なんだなあというのがわかる。
 
なにしろ大航海時代まで内ゲバを続け、鳴かず飛ばずだったヨーロッパで唯一、インドまでの大帝国を築いた偉人なのである。
 
しかしこの人、ホモだったんですね(笑)
 
 
以前「300」という、ひどい映画を観たことについて日記を書いた。
 
この映画は、あそこまで露骨に「オリエンタリズム」な映画ではなかったけれど、やはり根っこは同じで、なんだかがっかりした。
 
 
ペルシャ帝国を滅ぼしたアレキサンダーはインドに遠征する。
 
そこにはサルのような毛むくじゃらの土人やら、ゾウを操る未開部族が登場する。
 
まるでペルシャから先には、文明は存在しなかったかのような描き方である。
 
 
なぜアレキサンダーはそんなところまで遠征したのかとえば、師匠のアリストテレスに教えられた、「世界の果てを辿れば、エジプトに帰り着くハズだ」という教えによるのだと説明されている。
 
 
しかし私が聞いた話は違う。
 
前にも何度か書いたけれど、当時の世界地図に「TO地図」というのがある。
 
この地図の「T」を右に90度回転させると、左上が西洋、左下がアフリカ、右側がアジアとなる。
 
そしてアジアの最果てには「パラダイス」と書かれている。
 
 
そうなのである。
 
アレキサンダーが追い求めたのは、おそらくこの「パラダイス」に違いない。
 
 
光り輝く黄金の文明を追い求めて、アレキサンダーは東へ遠征したのである。
 
しかしそのことには、この映画はほとんどまったく触れていない。
 
逆に登場するのは、上述の通りの野蛮きわまりない未開部族ばっかりである。
 
まるで当時の文明は、ギリシアとペルシアしかなかったかのように。
 
 
実際には、彼の大遠征の150年も前に、ブッダによって仏教が開基され、のちに英雄アショーカ王を排出するマウリヤ朝が、彼の遠征直後に誕生している。
 
インドはこの映画が描くような野蛮な土地では決してなかった。
 
 
 
この映画は、西洋人のアレックスにたいする深い愛情に満ちているが、しかし同時に、その偉大さを誇張するあまり、東洋をひどく貶めている。
 
バビロンの都やその他の駐留地で催される、美女による妖艶な踊りや、ハーレムの乱交や、明らかにガンジャでラリッているアレキサンダーや、知性が感じられない部族長の娘や、猥雑な街並みや、そういう不徳な部分は、すべて東洋に帰してしまい、ギリシアはそのようなことがない、あくまで理知的で清潔な人々として描かれる。
 
ペルシャを征服したアレキサンダーは言う。
 
「彼らは野蛮ではない。文字が読めず、学べないからだ。でも私の配下になれば、前途が開ける」
 
当時はペルシャの方が進んだ文明を持っていたハズなのに、この言い草である。
 
当時のギリシャなんて、ペルシャから見れば、ただの辺境の田舎に過ぎなかったのに、まるで世界の中心のような物言い。
 
もちろん映画だからなんだっていいわけだが、しかしその背景に、西洋人の拭いがたいアジアにたいする偏見と自己中心主義が横たわっている。
 
 
 
最後にアレキサンダーは「ペルシャ(の圧政)から人々を解放した」と宣言する場面がある。
 
しかし客観的に見て、奴隷制度を活用していたのはギリシアの方である。
 
和辻哲郎の「風土」には、このような文章がある。
 
「人間はここで神々のごとく生きる市民と家畜のごとく生きる奴隷とに分裂する。このように徹底した分裂は、地中海の古代世界を除いては、おそらく世界のどこにも起こらなかったであろう。だたわずかに近世の北アメリカにおける黒人奴隷の現象がこれと相似しているかも知れぬが、しかし黒人奴隷は古代の奴隷の観念に従ってヨーロッパ人が作り出したものであって、いわばギリシアの奴隷のコピーに過ぎない」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バイオハザード2とインフォームド・コンセンス 2009年04月22日13:18
ゾンビ好きの私としては、地上波でやるからには見ないわけにはいかなかったこの映画。
 
もう5回くらい見ているが、今回は別の視点で見てみた。
 
 
仲間がゾンビに噛まれて、数時間後にはゾンビになってしまうというのは、よくある設定である。
 
この映画でも、黒人警官が不覚にも噛まれてしまった。
 
そこで主人公であるところのミラ・ジョボビッチが、その事実を知り、この警官に銃を向けて、こんなセリフを吐く。
 
 
「あと一時間もすれば、アンタもあいつらの仲間入りよ。そして私たちを襲うようになる。残念だけど、それが現実なの」
 
 
ひどい言い草である。
 
 
オマエはもうダメだという。さっさと死んでしまえという。でないと、まわりが迷惑するという。
 
 
確かに彼女の言い分は正論である。
 
 
しかしもっと言い方があるだろ。
 
絶望の淵に立った人間にたいして、その言い草はどうなんだ。
 
 
たとえて言えば末期ガンの患者に、
 
「アンタは半年以内に確実に死にます。治療法はありません。残念ですが、それが現実です」
 
と宣告するようなものだ。
 
 
冷酷である。
 
 
しかしそこで私は思い至る。
 
アメリカでは「インフォームド・コンセンス」が周知徹底されている。
 
しかし日本では、長らく患者に病名を告げることは、特にガンの場合は、はばかられる習慣があった。
 
それが日本人の「思いやり」である。
 
 
しかしアメリカではそうではない。
 
 
アメリカは大変な格差社会である。
 
「貧困大国アメリカ」(堤未果 岩波新書)によると、アメリカにおける医療費というのは、信じられないくらいに高い。
 
盲腸で入院したある患者は、たった一日入院しただけで130万円も請求されたという。
 
どういう主義思想のもとに、そのような医療体系ができあがるのかと言えば、それは、
 
「弱者切り捨て」
 
以外のなにものでもない。
 
病気になるような弱い人間は、この世に生きている意味がない。
 
 
それは、前にも取り上げた「ビーチ」という映画でも描かれている。
 
サメに食われて瀕死の重傷を負った仲間を、楽園で暮らす若者たちは誰ひとり看病しようとはしない。
 
そんな病人はいないものとして、誰もが振る舞う。
 
まるで、病人という「暗い因子」によって楽園のフンイキが台無しになることが「公益に反する」と、誰もが考えているかのように。
 
 
アメリカという国は、過酷な社会である。
 
勝ち組と負け組がはっきりしている。
 
そして負け組にたいする配慮が、日本と比べて著しく欠けている。
 
 
「インフォームド・コンセンス」という発想が、アメリカという非常に冷酷な社会から生まれたのは当然のことなのだと理解した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パキスタンの貧困 2009年04月21日13:22
 
本日の読売新聞の記事には、パキスタンの信じられないような格差社会の実態が描かれている。
 
 
かたや収穫はすべて地主に吸い上げられ、収入ゼロの小作農。
 
「土造りのカンさんの平屋の家には、同じ小作農の2世帯8人が同居。壁は所々がひび割れ、室内で家畜の牛を飼う。「テレビを買うのが夢」と言うが、家には電気すら通っていない」
 
 
かたや年収10億円で脱税までしている大地主の貿易会社社長。
 
「巨大なシャンデリアが大理石の床を照らし、男性の左手首には高級腕時計オメガが光る。男性は国内に22軒の貸家、南部カラチ近郊に広大な農地も持ち、年収は10億円を超える」
 
 
そして所得税を一銭もらっていないとうそぶくこの男の豪華きわまりない部屋の壁には、ムシャラフ前大統領との記念写真が飾ってあったという。
 
 
 
このような膨大な格差がテロの温床になっているのだという指摘である。
 
 
 
しかし私は知っている。
 
このような経済格差は、なにもパキスタンに限ったことでは、ぜんぜんない。
 
インドでも、あるいはアフリカや南米でも、これと同じ、日本では考えられないような格差が存在している。
 
たとえばお隣のイランの事例を見てみよう。
 
 
「農民はただ労働を提供するのみであって、土地や水のように最も重要なものから、農機具、種子、肥料にいたるまで、住宅までも、ことごとく地主から貸しあたえられ、その指揮・監督下に農作業をおこなうのである。(中略)したがって、農民は、小作人というよりは、むしろ、隷属性のつよい農業労働者といったほうがいい。
(中略)イランの大部分の村むらは、ほんのひとにぎりの地主によって所有されており、これらの「寄生地主」たちは、おのおのの差配人を村において農民を監督させて、自分たちは、のうのうと美しいテヘランでくらしているのである」(「風土と歴史」飯沼二郎 岩波新書)
 
 
 
この状況が、上記のパキスタンと寸分も違わないことがおわかりいただけるだろう。
 
「収入ゼロの小作農」というのは、実は世界中に何十億人といるのであって、彼らが特別貧しく、不幸であるとは言い難い。
 
むしろ西洋や日本のように、天国のような暮らしをしている国民の方が、世界では圧倒的なマイノリティなのである。
 
 
そして彼ら世界中のスタンダードである小作農と、このパキスタンの貧農との違いはただひとつ。
 
 
「テロという手段に訴えることができる社会的状況にあるかどうか」
 
 
ではないだろうか。
 
テロリズムはもちろんよくないことである。
 
しかしこれらの問題が、宗教対立や部族対立などではなく、実際には「階級闘争」であり、かれらのやっていることが、ある意味で「革命」であると考えれば、彼らの「テロリズム」は、多少は正当化されるのではないだろうかと私は思う。
 
フランス革命で、「パンがなければケーキを食ったらいい」と言ったマリー・アントワネットや国王が斬首されたことにたいしては、誰もが納得するだろう。
 
しかしこの記事に書かれているように、地元の銀行員や外国人が誘拐され、身代金が要求されれば「テロである」と非難される。
 
このふたつの事例に、本質的に、いったいどういう違いがあるのだろうかと、私は疑問に思ってしまうのだ。
 
 
 
 
「ポストコロニアリズム」(本橋哲也 岩波新書)には、以下のような言葉がある。
 
 
「たしかに現在の「平和な」日本に生きる私たちにとって、「あらゆる暴力に反対」というのはやさしい。しかしそうした言い方には次のような二つの疑問を感じる人もいるのではないだろうか。ひとつは自分たちのその「平和」がだれか他の人々の苦しみや戦争による犠牲によって成り立っているのではないかという疑い。もうひとつは「あらゆる暴力に反対する」という姿勢が、植民地支配に代表される圧倒的な暴力を容認し、社会的な差別や抑圧を温存させてしまう結果になるのではないか、という疑問である」
 
 
この言葉の意味を、先進国という、きわめて恵まれた国に生きる私たちは、真摯に噛みしめるべきだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セミプロの時代 2009年04月19日18:27
 
先日、お世話になっている光文社の編集長のブログに、興味深い記事が載っていた。
 
グーグルが単独で、電子書籍化を一気に進めているという。
 
これまでの書籍をスキャンしてPDFにして配信するサービスを始めるそうで、すでに数百万冊の電子書籍化が終わっているというのだ。
 
 
同編集長によれば、近いうち、こういう形態の出版事業が主流になり、現在の紙媒体はほとんど消滅するのではないかという。
 
 
確かにその可能性は高い。
 
音楽媒体はCDからネット配信が主流になりつつある。
 
手軽であり、CDよりもかなり割安で購入できるのが大きな理由だろう。
 
 
書籍もこうなる。
 
現在1500円で販売されている単行本は、ネット配信だと1000円とか、それ以下で入手できるようになる。
 
そうなると、本を買う人は激減するだろう。
 
 
しかし著作者に不利なことばかりかといえば、そんなこともない。
 
今までは取次業者や運送会社、製本会社、書店の利益が上乗せされていたのが、出版社と配信業者と著作者だけで利益分配が行われるので、著作者がもらう印税は大幅に増える。
 
上記のグーグルでも、著作者の印税は、なんと60%以上だという。
 
 
しかしどうなんだろうか。
 
実際ネット配信で、みんな本を買うだろうか。
 
 
前にも書いたように、今の若い人にとって「ネット情報は基本的にタダ」であるという。
 
1000円もかけてダウンロードしてまで、本を買うだろうか……というと、残念ながら、かなり否定的な気がする。
 
しかも電子書籍の出版は、元手がかからないだけに、現在よりももっと手軽に本の出版が可能になる。
 
ということは現在のブログ乱立と同じような少部数乱立状態が予想されるのである。
 
 
つまり「セミプロの時代」が来るのだ。
 
これについては前にも考えたことがあった。
 
たとえばデザインフォントの普及で写植屋さんが不必要になり、デジカメの普及で本職のカメラマンが不必要になり、デザインソフトの普及でプロのデザイナーが必要なくなってしまった。
 
しかし文筆業(つまり究極のソフト製造業)に関しては、まだまだ大丈夫だろうと、なんとなく私は思っていたのだが、どうやらそうでもないようなのだ。
 
 
こんな話をマイミクのチャンカネこーけん氏にしたところ、
 
「そうではない。本物のプロは生き残るだろう。実際、デザイナーも廃業した人は多いけれど、本当に上手なプロの人は、むしろ仕事が増えてると言っていた」
 
と、私の立場からすれば有り難い意見を述べてくれた。
 
 
しかし私はそこまで楽観視はできない気がする。
 
 
かつて三島由紀夫の作品がもてはやされた時代があった。
 
「金閣寺」という難解な作品がベストセラーになる時代だった。
 
当時は人々がマルクス主義について議論するのは、ごく普通のことだったし、新聞の活字は恐ろしく細かかった。
 
 
現在はどうだろうか。
 
ネット上では、信憑性の低い情報が氾濫し、無責任な匿名の誹謗中傷が際限なく書き込まれ、新聞や文庫の活字はやたらでかくなり、薄っぺらな人生訓や処世術の本がバカ売れする時代である。
 
三島のようなプロ中のプロの作品は敬遠され、かつての部数など望むべくもない。
 
こう考えてみると、情報の発信者も受信者もすべからく、世の中はどんどん「セミプロ化」していると言えるのではないだろうか??
 
 
そして私のような、たいして内容のない文章を書く売れない物書きが、真っ先に廃業の危機に追い込まれるかもしれないのである。
 
お先真っ暗……???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古いものは西洋に限ったことではない 2009年04月17日13:30
 
民放の番組を見ていると、ロンドンなど西洋の都市の建物がいかに古いか、そしてそれをそのまま現在も使用していることに、感嘆と賛美を惜しまない論調がよく見受けられる。
 
しかしそれは、なにも西洋に限ったことではない。
 
雨が少なく、地震がない地域では、100年、200年前の建物は、現在でも、ごく普通に使用されているのである。
 
たとえば、エジプトのカイロにも、そのような老朽化してはいるものの、まだまだ現役の建物がいくらでもある。
 
以下は私の旅日記からの引用である。
 
 
 
サファリホテルは昇降機が壊れていたが、ここのビルはまだ健在である。
 
しかしそれも「どうにかこうにか」という感じで、いつなんどき、クリティカルな問題が発生するとも限らないとようなくたびれ具合なのであった。
 
我々は、この昇降機が徐々に高度をあげていくに従って口数が少なくなり、ついには身体全体で、昇降機がたてる振動の一挙手一投足を敏感に察知し、そして目的の階に停まる瞬間に必ず発生する「ガタン!」という激しい振動に、肝を冷やすのであった。そして先を争うように扉を開けて外に逃げ出すのである。
 
 
ある日、ついに我々はこの昇降機の秘密を知ってしまった。
 
いつものように身体をこわばらせながら乗っているときに、私はなにげなく背後を振り向いたのである。前方の観音扉と左右はガラス張りになっていて、背後はニス塗りの古びた木枠と木板があるばかりである。
 
その木枠の一番上の部分に、これまた恐ろしく古い真鍮の、製造証明板が貼ってあったのである。
 
私はすこしく目をこらして見てみた。「SCHINDLER SUISS」と読めた。
 
へえ。スイス製のエレベーターなのか。
 
そう思って、その下にある四ケタの数字に目が留まったのである。
 
「1974」
 
そこにはそう書いてあった。
 
 
西暦1974年か? ということはこの昇降機はおよそ三十年前に製造されたものだということになる。
 
三十年前というと、古くはあるが、それにしてもこれほど時代がかった年代物ではないだろう。
 
アンティーク調に作ったものなのだろうか。
 
 
……待てよ。
 
 
私はそこでもう一度、その数字をよく見直したのである。
 
かすれかかったその真鍮の板は、数字がなかなか読みとれない。私は伸び上がって、よく目を凝らして見た。
 
そしてついにその数字が間違いであることが判明した。
 
なんとその「9」の字は、実際には「8」であり、つまりこの昇降機は、「1874年製造」の昇降機だったのである。
 
私はその場に硬直したまま、無意識に、手近にあるなにか掴めるものを探した。もしも落下したときに、なにかに捕まっていないと危ないと思ったのである。
 
今だに老体にむち打って現役で活躍し続ける130年前の昇降機。
 
その130年間の間に、致命的な事故は起こったことがないのだろうか。
 
過積載でローブがぶち切れたり、あるいはメンテナンスの不備から錆び付いた器具が破損して、落下したりする事故は起こったことがないのだろうか。
 
もちろんホテルの従業員にそんなことを尋ねるわけにはいかないが。
 
考えてみれば、つい最近、日本でエレベーター事故が起こり、高校生が挟まれて死亡したのは、あれは確か同じくスイスのシンドラー社製ではなかっただろうか。
 
くわばらくわばら。
 
 
 
ということで、この昇降機は130年前のものだったのである。
 
西洋だけが古いものを大事に使用しているわけではない。
 
日本人の「なんでも西洋賛美」の風潮も、いい加減改めた方がいいと私は思うのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西洋とゴルフ 2009年04月10日13:49
 
ゴルフというスポーツを、私はまったくしたことがないし、ルールもイマイチよくわからないくらいなので、なにか意見を述べる立場にはないわけなんだけれど、しかし思うのは、
 
 
日本にゴルフ場をつくる、あるいは維持するというのは、大変なカネとムダがかかるんだろうなあ
 
 
ということである。
 
 
 
ゴルフはイギリスで生まれたスポーツだそうだ。
 
「タマを転がして穴に入れる」というだけの単純な遊びが、なぜ西洋で生まれたかについては理由がある。
 
 
西洋というのは植生がきわめて単調なんだそうだ。
 
氷河期の頃に、それまでの複雑な植物相はいったん壊滅した。
 
そして氷河期が終わって、南に逼塞していた植物相が徐々に北上したが、アルプス山脈に阻まれて、それ以上北に広がることがなかった。
 
だからヨーロッパの植物の種類は、日本と比べて非常に少ないといわれる。
 
「ヘンデルとグレーテル」のような、スカスカの木立の中を落葉を踏みしめて歩くといったような単調な森は、このようにしてできたわけだ。
 
 
 
 
西洋は、アラビアの砂漠や日本のモンスーンと比べて、自然が柔和であるという。
 
日本の農業は、ある意味で雑草との戦いだが、西洋では播種して放っておけば麦が生えてくる。
 
たいして手間をかけずに自然を制御できるのが、西洋の自然の特徴なのである、というのは、和辻哲郎が『風土』で指摘しているとおりである。
 
そしてそこから「自然をナメてかかる」という姿勢が生まれ、それが西洋の自然科学の発展につながったというのも、よく指摘されることだ。
 
 
 
なんでこんなことを長々と書いているのかといえば、つまりこういうことである。
 
 
 
 
 
西洋の自然は、一度ゴルフ場をつくれば維持管理がきわめて容易な、柔らかな自然である。
 
しかし日本の自然は、西洋の自然とはまったく違う、維持管理に大変な労力がかかる、ある意味で非常にキビシイ自然である。
 
 
 
そしてそんなキビシイ自然環境でゴルフ場を維持するには、当然ながらムリがかかるのである。
 
丸山健二『安曇野の白い庭』(新潮文庫)にこんな既述がある。
 
 
「ゴルフ場で使用する農薬はふたつに分けられていて、査察を受ける場合には穏やかな薬しか入っていない小屋へと案内し、もうひとつの小屋の中には恐ろしいほどの劇薬がしまいこまれているのだという。そして、雨上がりの、強い日差しが照りつけるときなどに、キャディさんがぶっ倒れることも珍しくないという」
 
 
上記の話は、著者も「また聞き」なので、信憑性には若干問題があるかもしれない。
 
また、こういう極悪な業者は、きっと一部に過ぎないだろう。
 
 
しかし日本の亜熱帯に近い自然の中で、あの雑草の一本も生えていない、青々とした芝生を維持するには、膨大な労力が注ぎ込まれていることは間違いない。
 
そしてもしかしたら、私たちの健康にも影響を及ぼすかも知れない劇薬が散布されているのかもしれない。
 
 
 
ここで急いで付け加えなければならないけれど、これらのことと、日本人選手がマスターズで健闘することとは、まったく別問題であり、私もわからないなりに遼君を応援している。
 
ゴルフをすることは健康にもいいだろうし、なににも増して個人の自由であることはもちろんである。
 
 
ただ最後にひとつだけギモンを呈しておきたいのは、ウチは青梅なんだけれど、ウチから飯能周辺にかけて、およそ20ものゴルフ場が散在している。
 
こんなにたくさんのゴルフ場が、果たして必要なんだろうか?
 
そしてこれらを維持管理するのに必要な労力を、もっと別のことに振り分けられないものなんだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フリーライターの四段階 2009年04月07日00:04
 
売れっ子小説家も含めた、いわゆる「フリーのライター」と呼ばれる人たち。
 
このカテゴリーには私も含まれるわけだが、最近の未曾有の出版不況で雑誌も激減。
 
非常にキビシイ状況が続いている。
 
そしてこの状況は、今後改善されることがないまま、先細りしていく一方であることは間違いない。
 
 
某大手出版社の編集者によると、
 
「今年中に小学館と集英社が合併するかもしれない」
 
という、まことしやかな怪情報も飛び交っているらしい。
 
そんな中で、フリーライターは生きていけるんだろうか?
 
ということで、ちょっと分析を試みてみたい。
 
 
 
 
私の個人的な見解だが、いわゆる「フリーライター」は、以下のような四つの段階に分類されると思われる。
 
それぞれ説明してみよう。
 
 
 
 
■第一段階 限りなく「フリーター」に近いフリーライター
 
まだフリーになって間もない「駆け出し」のライター。
 
コネもなく、従って仕事もない。
 
年収は100万円〜200万円。
 
だから他にアルバイトをしないと生活が成り立たない。
 
私も会社を辞めて独立してから二、三年はこの状況だった。
 
そしてこのレベルのライターが、おそらく業界の七割近くを占めるんじゃなかろうかと思う。
 
そしてその多くの人たちは、志半ばにして転職を余儀なくされることになる。
 
 
 
 
■第二段階 ライターで食っていける人たち
 
この人たちになると、各出版社にコネもできて、ある程度コンスタントに仕事が入り、バイトをしなくても食っていける。
 
ライターだけで独り立ちできる、それなりに実力のある人たちである。
 
年収も300万円は確保できる。
 
だから嫁さんが仕事していれば、生活は十分に成り立つ。
 
私の場合は、独立して四年目くらいから、このカテゴリーに仲間入りできた。
 
ただこのレベルでは、さらにその上を目指すには不十分である。
 
なぜなら仕事はすべて「請け負い」で、自分の専門分野を持つまでに至っていないからである。
 
編集者から派遣されて、取材して記事にする。
 
締め切りまでに書けて、それなりに文章が上手で、そして人付き合いがよければ、ある程度誰でも到達できるレベルである。
 
それでも、この段階まで生き残れる割合は、おそらく三割程度に絞られるだろう。
 
そしてこの出版不況で、生き残れるかどうかの瀬戸際に立たされている、もっともキビシイ人たちとも言えるかもしれない。
 
 
 
 
 
■第三段階 好きな仕事だけで食っていけるライター
 
このレベルになると、自分の得意分野で仕事が入ってくる人たちである。
 
好きなことだけ書けばいいのでラク。
 
単行本もいくつか出版して、実力もそれなりに認められているが、知名度はイマイチである。
 
このカテゴリーと第二段階の違いは明瞭である。つまり、
 
「その人でないと書けない原稿」を書けるかどうか。
 
そこに第二段階とは全く違う素養が求められるのである。
 
 
僭越ながら私の場合、このカテゴリーに入ると思う。
 
私の場合でいえば、第二段階で十分食っていけることが確認できたので、さらに上を目指すために長期の海外旅行に出かけた。
 
もちろん今までのクライアントの仕事は、すべて蹴った。
 
当然ながら周囲からは「なんでこんなに仕事が来ているときに出かけるのか。帰ってきたら仕事はないぞ」と疑問の声があがったが、強行して出かけた。
 
そして帰ってきたら、新聞社から連載のオファーが来た。
 
その連載は現在まで一年半も続いている。
 
というわけで結果的に、旅行に出かけたことで、第三段階にステップアップすることができたわけである。
 
 
そして、この人たちの中から、単行本が売れ、一定の顧客をつかむことができた人たちだけが、以下の最終段階に進むことができる。
 
ちなみに年収は原稿料&印税だけでオーバー400万円くらい(たぶん)。
 
そして業界全体に占めるシェアは、おそらく一割に満たないと思われる。
 
 
 
 
■夢の印税生活を実現した「売れっ子作家」
 
この段階になればもう安泰。
 
出す本は確実にハケ、印税も安定して得られる。
 
著名な雑誌で連載を持ち、講演会でも儲けることができる。
 
年収は知らないけど青天井だろう。
 
 
そして、ここまで生き残る人たちは、おそらく全体の1%以下、イヤ、もっと少ないかもしれない。
 
要するにフリーライターの最高峰。
 
それが「売れっ子作家」なのである。
 
 
 
 
 
というわけで、私の独断と偏見で、業界の勢力図を分析してみたわけだが、私のレベルでも、これからの少子化、ネット社会化、活字離れの世の中で、ライターで生きていくのはムズカシイかもしれない。
 
 
今のところ、おかげさまで新聞の連載も雑誌の連載もご好評をいただいているわけだが、これもいつまで続くかわからない。
 
 
私に科せられているのはただひとつである。
 
売れる単行本を発表すること。
 
そしてマイミクの「いちおうさん」のような(笑)、熱心な読者をひとりでも多くつかむことである。
 
 
 
最後に宣伝させていただきますと、たぶん今年中に二冊、単行本が発売されると思います。
 
この二冊で、「最終段階に上がる」勝負をかけたいと思っております。
 
みなさまのご支援を、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
俺をもっと敬え 2009年04月01日00:57
 
先日の読売新聞に、住友商事社長のインタビューが載っていた。
 
この人はアメリカ駐在が長く、いろいろと苦労したそうだで、こんなエピソードを披露している。
 
 
「アメリカで何より注意を払ったのは、人種を問わず相手の人格を尊重すること。アメリカでは「こんな仕事ぶりではクビだ」なんて言い方は通用しません。
仕事の態度が悪い社員に解雇を告げる場面がありました。まず彼の仕事ぶりを批判すると、「不快だ。お前は俺をバカにしている。会社では上司だが、会社を出れば上司でもなんでもない。俺をもっと敬え」と言い返すのです。こちらは筋道を立てて説明していたのですが通じない」
 
 
 
具体的な場面を想像してみよう。
 
 
デブで不潔な白人である。いつも遅刻する。メシを食いながら仕事をする。気がつくとソリティアをしている。残業しないでさっさと帰る。その代わり給料が低いと文句を言う。
 
そして何度注意しても、これらのことは改まらない。
 
この男の仕事ぶりに、たまりかねた日本人の上司が言う。
 
 
「君ねえ、そういう態度が改まらないようなら、辞めてもらうしかないんだけど」
 
 
これに対して彼は猛然と逆ギレする。
 
 
「不快だ。お前は俺をバカにしている。会社では上司だが、会社を出れば上司でもなんでもない。俺をもっと敬え」
 
 
 
言うまでもないが、全面的に悪いのはアメリカ人の方だ。
 
上司は悪くない。
 
彼の責務を、胃が痛くなるのを堪えて全うしたまでである。
 
彼は逆に被害者に近いだろう。
 
しかし部下のアメリカ人はこの態度である。
 
 
 
 
「個人主義」とか「人権」というのは、確かに大したものである。
 
水俣病患者が大企業チッソを相手に、ようやく賠償金を勝ち取れたのも、この人権によるのである。
 
 
 
しかし、このアメリカ人の態度はなんだ。
 
悪いのは自分である。
 
おそらくこの男もわかっているだろう。
 
しかしそれを認めようとしない。
 
悪いのは会社の方だと、あくまで主張する。
 
 
そして自分を敬えという。
 
なぜなら個人は、会社と同等だからである。
 
 
たとえそれが、ぐうたらで役立たずの、だらしない男の権利であったとしても。
 
 
 
 
さすがに大手商社マンだけに、
 
「コミュニケーションのあり方について勉強させてもらいました」
 
と謙虚である。
 
この謙虚さと、クビになったアメリカ人の傲慢ぶりを比べてもらいたい。
 
どっちが人間として高潔か、いうまでもないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
眼中にない 2009年03月30日02:50
 
先日の読売新聞に目を疑うようなことが書いてあったので、ご報告したい。
 
日本研究で有名なアメリカの学者ドナルド・キーン氏の、「源氏物語」についてのインタビューの中での、同氏のコメントである。
 
 
「私が受けた昔の教育では、西洋文明が一番古く、素晴らしいとされ、東洋の古典は全く知らなかった」
 
「日本人もまた、文化を持っているとは思っていなかったのだが、読んでみて「その美しさに圧倒された」」
 
 
ここで私は、当時の同氏の見識の低さを糾弾しようとしているのでは、もちろんない。
 
私が問題にしたいのは、アメリカでは「西洋文明が一番古く、素晴らしいとされ」るように教育されていたという事実であり、おそらくそれは現在でも変わっていないという事実である。
 
 
「西洋文明が一番古くて、すばらしい」
 
 
西洋思想の源流は、ギリシア人が生み出した個人主義と民主主義、そしてユダヤ人が生み出した「一神教」であるといわれる。
 
↑「ヨーロッパ思想入門」(岩田靖夫 岩田岩波ジュニア新書)
 
 
 
旧約聖書を辿れば、確かに紀元前三千年くらいには遡れる。
 
 
しかしどうなんだ。
 
 
紀元前3000年の頃、彼らの直系の祖先であるアングロサクソンやゲルマン人は、そしてわれわれ日本人もそうだが、原始人とたいして変わらない生活を送っていたんじゃないだろうか。
 
 
こういうのを「他人のフンドシで相撲を取る」というのではないだろうか。
 
 
そして個人主義と民主主義は、現代世界を覆っている主義思想である。
 
しかしそれが世界に様々な害悪をもたらしていることは、この日記でしつこく言及していることである。
 
 
「西洋文明が一番古く、すばらしい」
 
 
エジプトの古代文明やメソポタミア文明は西洋文明よりも劣ったものなんだろうか。
 
しかし当時のユダヤ人は、その劣っていたはずのエジプトから、命からがら逃げだして、約束の地までの放浪を余儀なくされたのではないだろうか。
 
またその後のユダヤ人をとっつかまえて奴隷にして連れ去ったのは、メソポタミアの王様ではなかっただろうか。
 
そしてそれを解放してあげたのはペルシアの王様だったはずである。
 
 
 
前日の同紙には、デンマークの首相についての記事があった。
 
かつてデンマークの新聞にムハンマドの風刺画が掲載されてイスラム諸国から猛反発をくらったという事件があった。
 
この首相は、その抗議にたいして、
 
「言論の自由だ」
 
といって、いっさいの謝罪を拒んだという。
 
 
 
当然ながら言論の自由は守られるべきである。
 
しかし何でもかんでも書いていいというわけではないだろ。
 
ブッシュを批判する風刺画は許されても、ムハンマドは許されない。
 
 
なぜなら逆のことを考えてみればいい。
 
 
アルジャジーラが、「キリストは神様ではなく人間で、タダの預言者である。しかもムハンマドよりも格下である」というような番組を放送したら、西洋諸国がどういう反応をするか。
 
 
日本の天皇をバカにするマンガを、中国の新聞が掲載したら、これもちょっとまずいことになりそうだ。
 
中国当局は、そういう外交問題に発展しそうなことは許さないだろう。
 
しかしデンマーク政府は、それを許し、アフターケアもしないという。
 
なぜだろうか。
 
なぜならデンマークにとって、イスラム諸国なんてハナクソみたいなものだからだろう。
 
なにしろ彼らは、
 
「西洋文明が一番古く、すばらしい」
 
と信じて疑わない人々だからである。
 
 
この問題は、つきつめればマナーの問題なんだろうと思う。
 
しかしその背景に、西洋人の中東諸国にたいする、ある種の「侮り」があることは間違いない。
 
そしてそういう西洋人が量産されるのは、上記のキーン氏のように、
 
「西洋文明が一番で、他はクズ」
 
というような教育が西洋諸国で、いまだになされているからではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オーストラリアと河内弁 2009年03月25日18:16
 
旅行中に出会う各国の旅行者の中で、もっとも英語がわかりづらいのがオーストラリア人である。
 
昔、この国の野球中継を聞いたことがあるが、五分ほど集中して聞いていても、ただのひと言もわからなかった。
 
 
同じ英語なのに、なぜこんなに違うのかといえば、彼らが話す英語がロンドンの下町言葉「コクニー」が元になっているからだと言われる。
 
要するに労働者階級の言葉である。
 
日本でたとえるなら、語弊を恐れずに言えば、関西の「河内弁」に近いのではないだろうかと思われる。
 
 
上述の野球中継で言えば、
 
「フジカワが放ったタマ、アベがシバキあげよって、ホームランにしくさったやんけ。どないせーちゅーねんワレ」
 
 
上記のような内容を、マシンガンのような早口でまくしたてるのである。
 
よっぽど日本語に精通している外国人でも、これを理解できる人は、まずいないだろう。
 
そんなことを思って、「オーストラリア」(杉本良夫 岩波新書)を見てみたら、こんなことが書いてあった。
 
 
「オーストラリア人はaをiのように発音するステレオタイプがあるが、このような話し方はロンドンの下町の労働者階級が話すコクニー英語の流れを引くもので、オーストラリアでも主として労働者階級にその影響が強い。中流以上の人たちの英語は、これと異なっている。エジュケーテッド・オーストラリアンといわれるもので、教育程度の高い人の間で流通度が高い。ラジオやテレビのアナウンサーは、この種の英語を話す」
 
 
ということで、私が聞いた野球中継は、まさしくエジュケーテッド・オーストラリアンのはずなんだがなあ。。。。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
与作 2009年03月22日22:34
 
昨日、イトコの結婚式に出席した。
 
北海道から親戚一同が大挙して上京してきて、かなり久しぶりにイトコやオジサン、オバサンに再会。
 
お互いに「老けたねえ」とか「太ったねえ」などと批評しあいながら、昔話に花が咲いた。
 
 
イトコは某大手出版社を退職して、小さいけれど、業界では一目置かれる出版社に再就職した。
 
29歳で会社を辞めて結婚するというのは、2000年に30歳で会社を辞めて、結婚して、ついでにタバコもやめた私と、かなり似ている。
 
 
一見して、つかみ所のない、いつもボンヤリと遠くを見ているようなイトコだが、教会の式に出てみると、たくさんの友人が集まっていて、彼の人望の高さが伺えた。
 
あのボンヤリ感が、人を安心させるに違いない。
 
 
 
式が終わって披露宴会場に移動。
 
O叔父の音頭で乾杯して、待望の披露宴がスタートした。
 
 
ウチの親戚は呑兵衛である。
 
乾杯したO叔父も酒飲みで、その子供らも酒飲みである。
 
特に新郎の父親であるところの、もうひとりのH叔父は、地元の警察に職質されて大暴れしたり、厳冬期にゴミ捨て場のドラム缶の中で寝ているところを発見され、危うく凍死しかけた、などの数々の「情けない武勇伝」が伝えられる酒豪である。
 
その血の何分の一かを受け継いでいる我々の酒量もかなりのもので、明らかに我々のテーブルが、他のテーブルよりも1.5倍以上飲んでいた。
 
ビールはほどほどにして、白ワインに手を出し始めると、あっという間に二、三本カラになった。
 
さらに赤ワインに突入し、ガバガバ飲み続ける。
 
 
 
フト気がつくと、新郎新婦のリクエストであるところの絶叫系パンクロックとともに、ふたりの過去写真が披露されていた。
 
イトコが自分のキャラで作成したという「係鳥」(胴体が鳥で、ハゲ頭の係長のアタマが載っている)が紹介されると、一座は爆笑に包まれる。→イトコのブログで実物が見られる。 http://mixi.jp/show_friend.pl?id=432991
 
 
 
続いて新郎の父であるH叔父が、満を持して演壇に上がった。
 
 
尺八演奏である。
 
 
H叔父は尺八の先生で、昔から、なにか祝い事で親戚が集まったりすると、必ずH叔父の尺八演奏があった。
 
そして演目は滝廉太郎の「春の海」と北島三郎の「与作」と決まっていた。
 
だから開場のドヨメキをよそに、親戚一同の間では、
 
「ああ、またか」
 
と、ほとんどシラケた状態で、たいして司会者の紹介に耳を傾けることもなく、雑談にふけっていた。
 
そして演奏が始まる。
 
座が静まりかえってH叔父の尺八演奏に聞き入ってるのをよそに、我がテーブルは相変わらず赤ワインが減り続ける。
 
O叔父の、
 
「あいつも、だいぶうまくなったなあ」
 
などの少々間の抜けた感想があったりして、2曲目「与作」の演奏に入った。
 
そしてその「与作」も中盤にさしかかった頃、私はフト気になって、新郎のイトコの方を振り返ってみた。
 
 
 
 
 
 
泣いていた。
 
 
 
イトコが泣いていた。
 
 
おそらく彼は、それこそ耳にタコができるくらい、子供の頃からオヤジの尺八を聞かされてきたに違いない。
 
オヤジの尺八は、もうウンザリだと思っていたに違いない。
 
 
 
しかし彼は泣いていた。
 
 
 
きっとH叔父の尺八が、子供の頃からの父親との思い出を、津波のように、彼の心に甦えらせたに違いない。
 
 
 
H叔父は温和で優しい人だ。
 
怒ったところを見たことがない。
 
不言実行で、自分の仕事を黙々とこなすような人だ。
 
警察を相手に大暴れしたときも、地元でも温厚篤実な人物で知られているので、不問になったらしい。
 
 
 
 
私は、彼の涙に、私たちが知らない、彼とH叔父との、数え切れないほどの、愛情のこもった温かい関わりに、少しだけ触れさせてもらった気がして、目頭が熱くなった。
 
 
人生で一度きりの息子の結婚式での、H叔父にとって最高のハレ舞台は、万雷の拍手とともに終了した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コストコ 2009年03月20日17:00
 
先日、地元の友人夫妻に連れて行ってもらって、コストコに行ってきた。
 
「連れて行ってもらった」のは、会員制なので、カード所有者と同伴しないと中に入れないからだ。
 
 
コストコ。
 
 
アメリカ資本の格安量販店である。
 
表看板に「WHOLESALE」(卸売り)と書いてある通り、小売店を通さないので安い、というのがウリだ。
 
 
コストコは「デカイ」「安い」「大雑把」という、いかにもアメリカ的な特徴を余すところなく体現していた。
 
それらの特徴を具体的に箇条書きしてみよう。
 
 
1.倉庫が売り場になっている
 
搬入用のパレットがそのまま積まれていて、その上にダンボールの口を開けただけの商品が、そのまま並んでいる。
 
商品がなくなったら、上の棚に保管してある新しいのをフォークリフトで降ろして、梱包を解いて、口だけ開けておく。
 
日本のように商品の「前出し」(商品が売れたら、目立つように後ろのヤツをこまめに前に出す)というような面倒なことはしない。
 
 
 
2.商品の種類が少ない
 
たとえば洗剤なんかでも普通のスーパーには十種類以上並んでいるものだが、ここでは数種類しかない。
 
ひとつの銘柄を大量に買い付けるので、種類が少ない代わりに安いのだろう。
 
 
 
3.ひとつひとつのパッケージがやたらデカイ。
 
たとえばランチョンミートの缶詰「SPAM」は6個パックで1900円。
 
ひと缶500円ほどで売ってるので、これはお買い得である。
 
ミックスナッツのパックは、1キロ以上入っていて千円。
 
アメリカを象徴する牛肉のカタマリは、それこそキロ単位である。
 
他にもポップコーンの袋ほどもある「天かす」が700円とかで売っていて、思わず買おうかと思ったが、嫁さんに慰留されて、伸ばしかけた手を止めた。
 
考えてみればそんなに天かすを使うこともないのだ。
 
危ない危ない。
 
もう少しで一年かかっても食いきれないくらいの天かすを買わされるところだったわい……。
 
 
 
 
そこで私は、なるほどと思った。
 
 
一見して確かに、なんでも安い。
 
単価に引き比べてみれば、個別にチマチマと買い物をするよりも、ずいぶん安いのである。
 
しかしまとめて買うから、結局、支払う金は増えてしまう。
 
今回も、気がついたら2万円も使っていた。
 
まさにコストコの戦略に、まんまとはめられているのだ。
 
 
 
もうひとつある。
 
たくさんあると、一度に使う量が増える。
 
卑近な例でいえば、たとえばバター。
 
小箱に入っていれば、もともと高級品なので、チマチマと使うだろう。
 
しかし1キロの巨大なブロックだったらどうだろう。
 
「ま、いいか」とジャンジャン使ってしまわないだろうか。
 
 
アメリカではレディーボーデンの巨大なアイスクリームのカップがある。
 
アレも同じ心理で、ガバガバよそって食ってしまう。
 
その結果、子供たちは肥満になる。
 
 
アメリカの大量消費社会の成り立ちの一部には、このような「まとめ買いによる使いすぎ」が関与しているのではないだろうか。
 
もっとも今のような不景気な世の中では、みんなができるだけ多くのものを消費するというのは悪いことではないのかもしれない。
 
 
そして現実問題として確かに安いのだから、消費者にとっては決して悪いことではないのかもしれない。
 
 
 
しかしなにか引っかかる。
 
私は去年、訪ねたカンボジアのことを思い出した。
 
この国では、一般家庭の冷蔵庫の普及率は、ほとんどゼロに近いと思う。
 
冷蔵庫のない家庭では、どのように生鮮食品を保存するのだろうか。
 
それはいっぺんにたくさん買わないことである。
 
その日の昼食、夕食に必要なぶんだけ買う。
 
そもそもみんな貧乏なので、まとめ買いする余裕がない。
 
洗濯洗剤などは小分けして売られているし、タバコすら一本ずつ売っているくらいだ。
 
 
そして大量に買いに行くには、当然ながら車が必要になる。
 
そもそもコストコには、レジ袋というものがない。
 
歩いて買い物に来るお客さんを、この店は最初から対象にしていない。
 
 
このように考えてみると、コストコというホールセラーは、中産階級が発達した豊かな国にしか存在理由がないことがわかる。
 
 
カンボジアのような貧乏な国では、小分けされた商品を必要なぶんだけチマチマと購入する一方で、豊かな国では車で乗り付けて大量の商品を購入し、大量に消費する。
 
貧乏な国では節約を強制され、豊かな国では消費を強制されるといってもいいかもしれない。
 
 
 
一見して「デフレ」とか「節約」の象徴のようなコストコだが、しかし実際には、人々の大量消費を前提とした、非常にバブルな商売をしているとも、いえるだろう。
 
 
 
 
……とまあそんなこといって2万円も使っちゃったんですけどね。
 
年に一回くらい買い物にいけば十分かなあと思いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アゼルバイジャンの大統領 2009年03月19日11:31
 
アゼルバイジャンといっても、知っている人はほとんどいないだろう。
 
イランの北にある、カスピ海に面した小国である。
 
隣国はアルメニアと、昨年ロシアと戦争になったグルジアである。
 
 
この国の大統領の任期制限撤廃の是非を問う国民投票が行われ、承認は確実とされているそうだ。
 
大統領はアリエフという、父親から大統領を譲り受けた人物である。
 
そして野党やメディアを弾圧して、強権的な独裁体制を敷いている。
 
どこかで聞いたことがある話だ。
 
そう。北朝鮮と同じなのである。
 
 
要するにこの国は、北朝鮮やミャンマーやシリアなどの、いわゆる「ならず者国家」とまったく同じ、ロクでもない連中が私腹を肥やしているダメな国なのである。
 
おそらく今回の国民投票でも秘密警察が暗躍し、票の操作は当然のように行われるのだろう。
 
 
しかしこの国を、オモテだって国際社会、特に西洋諸国が非難することはない。なぜなら、
 
 
「豊富な石油資源を背景に、ロシアを経由せずにエネルギーを欧州に輸送路の要衝として欧米との関係を強化しており」(読売新聞)
 
 
西洋諸国に都合のいい政権だから「お咎めなし」なのである。
 
西洋人が金科玉条のごとく振りかざす「人権」とか「民主化」というものが、実は単なる政争の道具に過ぎないことがよくわかる。
 
 
 
しかしこのようなことは、考えてみれば当たり前なことだ。
 
外交というのは、もともと腹黒いモノなのであり、二枚舌が普通なのである。
 
毛沢東は外交の極意を聞かれて「棉裡蔵針」と言ったそうだ。
 
 
だから人権侵害を外交カードにして中国との交渉に臨んだり、前回の日記で書いたように、IMFの威光を振りかざして経済制裁を繰り返すアメリカのやり方も、とりたてて非難されることではないのかもしれない。
 
 
私がムカツクのは、単なる外交カードに過ぎない「人権」とか「民主主義」といったものを、
 
「これは我々が発明した究極の正義なんだから、オマエたちも見習いなさい」
 
といって居丈高に押しつけ、これを認めない国を野蛮な後進国として非難する、西洋一般の風潮である。
 
そしてそのような一方的な「押しつけ」を正しいと信じて疑わない西洋人一般の風潮である。
 
 
残念ながらアゼルバイジャンの独裁政治は今後も長く続くに違いない。
 
しかしそれはとりたてて不幸なことではない。
 
こういう不条理な国に生きている人々が、世界の圧倒的多数を占めているのだから。
 
私たちはそのことを、もっと知るべきだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
IMF体制とは? 2009年03月19日00:35
 
IMFというのは、「国際通貨基金」という名前からして、国連の公共的な、つまり公益を代表する機関なんだろうと、私は思っていた。
 
世界銀行もそうである。
 
しかしそうでもないらしい。
 
 
IMFというのはどんなところなんだろうか。
 
おそらく世界各国を企業に例えるなら、これらの企業に金を貸す銀行のようなモノだろうと理解すれば、わかりやすいんだろうと思う。
 
 
たとえば景気が悪くなって、昨今のアイスランドみたいに破綻寸前まで行った「企業」があったとしよう。
 
IMF銀行は、すぐさま救済に乗り出す。
 
大量のドルを貸し付けて、とりあえず金融不安を和らげる。
 
「IMFが金を貸したからもう大丈夫です。みなさん国債をどしどし買いましょう」
 
そのかわり担当者を派遣して、財政再建にやかましく口を出す。
 
ちょうど破産寸前の企業に銀行から役員が派遣され、社員の給料が大幅に減額されるように。
 
 
しかしここまでは、ある程度理解できよう。
 
ここからが問題である。
 
 
数日前の読売新聞に、政策研究大学院大学のの白石隆氏が、こんなことを書いている。
 
 
「IMFにおける各国の投票権は出資比率によるところが大きい。出資比率は米国の17.1%に対し、欧州は合計39.4%で、世界経済の規模、31%をはるかに超える」
 
 
これに比較して、日本や中国の世界経済に占める割合に比較して、IMFでの出資比率はずいぶん低いのだそうだ。
 
IMFでは15%を超える出資比率を持つ国には事実上の拒否権が与えられる。
 
よって、米国と欧州が事実上、IMFの実権を握っているといっていいそうだ。
 
さらに文章は続く。
 
 
「IMFでは、歴代の専務理事は「慣例として」欧州から選出され」
 
 
もうひとつの世界銀行では、歴代総裁はアメリカ人なんだそうだ。
 
 
 
「世界は欧米を中心に動いている」
 
という事実は、これだけのことでもよくわかる。
 
 
ソビエトが崩壊する前のイランやイラクでは、ひどいインフレが起こっていた。
 
自国通貨の公定レートは有名無実で、誰もが米ドルを欲しがっていた。
 
だから当時の旅行者は、米ドル現金さえ持っていれば、国によっては、たいへんな大名旅行ができた。
 
なぜこんなことが起きたのかといえば、IMFを握っているアメリカが、意に添わない国を経済危機に陥らせていたからに他ならない。
 
 
国連のような国際機関が、公平な正義の味方であるというような教科書通りの幻想は、さっさと捨てた方がいいだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ジャンヌ・ダルク」 2009年03月17日21:53
 
この日記で何度か取り上げている、リュック・ベッソン監督の手による「ジャンヌ・ダルク」。
 
ジャンヌ・ダルクは英語では、
 
 
Joan of Arc
 
 
なんだそうだ。
 
「Arc」というのは、なんだろうか。
 
スペイン語では「arco」で虹という意味だが、「虹のジョアン」ではロマンチックではあるが、なんだかよくわからない。
 
そんで辞書で調べると接尾辞として「君主、指導者」の意味があるそうだ。
 
たとえば「monarch」が君主を意味する単語であるように。
 
ということで、ジャンヌ・ダルクで「指導者ジャンヌ」のような意味ではないかと思う。
 
→あとでウイキで調べたら、「ダルク」は名字だとあったが?
 
 
 
それはいいとして映画である。
 
ジャンヌダルクについては有名なので話のスジはともかく、この映画ではイギリスが、たいへんな野蛮民族として描かれている。
 
ジャンヌの姉が野卑な英兵に強姦され殺されてしまう。
 
ジャンヌをからかうイギリスの大将は、下品きわまりない悪口雑言をジャンヌに浴びせかける。
 
ジャンヌが火あぶりにされるのも、意地悪い英国の圧力に司祭が屈したと説明される。
 
 
実際はどうだったかわからない。
 
しかし確かなことは、一般的フランス人のイギリス人観、つまりアングロサクソンに対する恐怖と猜疑と軽蔑が、そのまま描かれているように思える。
 
十九世紀の帝国主義の時代を象徴する言葉に、こんなのがある。
 
 
「イギリスの傲慢 フランスの猜疑 スペインの怯え」
 
 
覇権を確立しつつあるイギリスの傲慢。
 
いつもイギリスの後塵を拝するフランスの猜疑心。
 
そしてあっという間に後発の国々に植民地を奪われてしまったスペインの怯え。
 
 
植民地争奪では、フランスはイギリスに負け続けた。
 
北米で撤退し、インドで撤退し、北アフリカ(スーダン)で撤退した。
 
この国の人々のイギリスに対する複雑な心境は、察するに余りある。
 
戦争では勝てないフランスが、質実剛健の英独を文化レベルの低い野蛮人とこき下ろすのも、理由がないわけではないのである。
 
 
 
もうひとつ面白かったのは、田舎の貧農出身のジャンヌが、貴族の列席する城でオドオドと怯える様子だ。
 
のちに裁判にかけられたときの審問でのやりとりで、
 
「名前は?」
 
「ジャンヌです」
 
「年齢は?」
 
「19歳くらいです」
 
というのがあったが、名字もなく、正確な年齢も定かではない田舎娘が、貴族の居並ぶ社交場に怯える姿は、当時の世相を反映していて興味深い。
 
しかも居並ぶ連中の恰好は、まさにトランプ。
 
皇后のヘアスタイルは、銀河鉄道999のメーテルの母ちゃんと同じである。。。。逆か?
 
西洋人は日本人の「ちょんまげ」や中国人の「弁髪」を見て大笑いしたらしいが、彼らの髪型も失笑モノである。
 
 
ジャンヌとともに戦った貴族にジル・ド・レという優男がいる。
 
この人は、のちに精神を病んで、何百人もの少年少女を誘拐して虐待して殺したと言われている。
 
「青ヒゲ」の怪奇譚のモデルになった男だが、映画ではジャンヌに理解ある善玉として描かれている。
 
 
 
ともかく圧巻のシーンは、そのオドオドする少女が、フランス軍の大軍の先頭に立って、
 
「follow me!!!!!」
 
と叫ぶ場面だ。
 
このシーンには鳥肌が立った。
 
 
当時フランスはイギリスに攻め込まれて、存亡の危機にあった。
 
それを救ったのがジャンヌだったわけだが、この愛国心の高揚がフランスに勝利をもたらしたに違いない。
 
 
とある本によると、当時ヨーロッパ最強の軍隊はスペインだったそうだ。
 
当時の軍隊は傭兵が中心だった。
 
だから戦争といっても両軍がワイワイと騒いで終わることが多かったそうで、相当大きな会戦でも戦死者は数十人というのが普通だった、というようなことを読んだ。
 
日本の戦国時代もそうだが、雇われ兵士は、負けがこんでくると、さっさと逃げる。
 
 
その一方でスペインは、「レコンキスタ」でパトリオティズムに燃える軍隊を抱えていたので、めっぽう強かったんだそうだ。
 
 
ジャンヌの神聖を信じ、愛国心に目覚めた兵隊が雇われ軍隊のイギリス軍を打ち破るのは案外、容易なことだったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高級車にしがみつく人たち 2009年03月09日15:51
 
ホンダのハイブリッド車「インサイト」が売れているそうだ。
 
トヨタのプリウスを越える売れ行きで、その背景には、高級車の売れ行き不振があるという。
 
 
読売新聞にホンダの販売幹部のコメントが載っていた。
 
「高級車から小型車への乗り換えには抵抗があるが、ハイブリッド車なら納得がいくというお客さんが少なくない」
 
この分析はおそらく正しいんだろうが、私は疑問に思うわけである。
 
 
 
なんで?
 
いいじゃん、ベンツから軽自動車に乗り換えたって。
 
なにが悪いの?
 
 
 
かく言う私はホンダの軽のワンボックスである。
 
二十年以上前の中古車で、25万円で購入した。
 
青梅の自宅と奥多摩を資材を載せて往復するだけなので、これで十分。
 
ベンツやセルシオに乗る必要はぜんぜんない。
 
そして用事があれば、このオンボロワンボックスで都心に出かけることも、まったくやぶさかではない。
 
 
 
私には理解できない。
 
なんでこの「少なくない数のお客さん」が、高級車から小型車に乗り換えるのに抵抗があるのか。
 
そんなに高級車を所有していることが重要なんだろうか。
 
「車なんて、なんだっていいじゃない」
 
って、なんで言えないんだろうか。
 
 
私がボロ車に乗っているのは、もちろん貧乏であることも大きな理由だが、もうひとつの理由は、たとえ友達に貸して、ぶつけたりしても、「別にいいよ」で済ませられるからである。
 
車に乗るならそれくらいの余裕が欲しいと私は思う。
 
 
こういう人たちはきっと、ほんの少しこすったりへこんだだけで、大金をかけて修理したり、またぶつけた人に法外な賠償を要求するんだろう。
 
こうして世の中は殺伐としていくのである。
 
 
かつて出版社に勤めていた頃、島田陽子という女優の自伝を、上司が担当して出版したことがあった。
 
ある日、この人から上司に電話があった。
 
 
「ガソリン代、建て替えてくれませんか?」
 
 
この人はベンツに乗っていたが、借金で首が回らなくなっているという、もっぱらのウワサだった。
 
だったらベンツ売れよ。
 
そんで軽に乗り換えろ。
 
ガソリン換えないならベンツ持ってたって仕方ないだろ。
 
わけがわからないのである。
 
 
 
私はこういう、ブランドや高級品でしか心の安寧を得られないような、さもしい人間を軽蔑する。
 
そしてこういう「精神的なカタワ」のような人間にならないように、健全に育ててくれた私の両親に、心から感謝する次第である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スラムドッグ$ミリオネア 2009年03月09日01:02
 
「おくりびと」で大いに賑わった今年のアカデミー賞。
 
同じくインドでも大いに盛り上がったようだ。
 
登場人物がすべてインド俳優の映画が初めてオスカー賞を受賞した。
 
 
インドが映画大国というのは、よく知られている。
 
年間製作本数はハリウッドを抜いて世界一。
 
しかしその映画が、世界で評価されることはなかった。
 
 
「ハリウッドを上回る年間1000本近い製作本数を誇るが、過去のアカデミー賞受賞は衣装デザイン賞と特別栄誉賞一回ずつあるのみ」(読売新聞)
 
 
かつて「ガンジー」という映画がアカデミー賞を総ナメにしたけれど、主演したのはイギリス人だったそうだ。
 
今回の映画も監督はイギリス人だが、舞台も俳優もすべてインド人である。
 
 
すごいなあ。
 
インド映画もようやく日の目を見るようになったか。
 
 
と好意的に受け止める人が多いと思う。
 
 
しかしこの背景には、けっこう「黒い部分」もあるらしい。
 
読売の記事はこう続く。
 
「金融危機に苦しむ欧米の映画やソフト産業も、インドに注目している。(中略)人件費などコストが安い。また俳優も多くが英語に堪能で、共同製作や外注のパートナーとしても魅力的だ。07年頃からは米資本でインド国内向け映画が作られたり、米英の映画監督が地元俳優、スタッフを使って全編をインドで撮影したりするケースが相次いでいる」
 
 
なんのことはない。
 
これではアメリカ映画資本がインドに参入するための布石ではないか。
 
 
もちろん映画自体の面白さも評価されたんだろうから、公開されたら見に行こうと思う。
 
しかしアカデミー賞という、一見して国際性を装った映画の祭典が、実はアメリカ人が選ぶ、アメリカ人のための映画の祭典であることを考えれば、ある意味納得がいくというものだ。
 
だって英語以外の映画は「外国映画賞」で一括されてしまうんだから。
 
 
「アメリカの映画産業が、経済伸長著しいインドに進出するために、この映画にアカデミー賞を与えた」
 
 
というと言い過ぎかもしれないが、その意味あいも十分にあったのではないかという疑念を暗に臭わせた読売の報道であったとさ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガンジーの遺品 2009年03月08日18:46
 
 
ガンジーの遺品がインドに戻ることになった。
 
読売新聞によれば、アメリカ人所有者がニューヨークのオークションに競売にかけたガンジーの遺品を、インド人実業家ビジャイ・マリヤ氏が一億八千万円で落札して、インド政府に寄贈するという。
 
なんでガンジーの遺品をアメリカ人が持っているのかは不明だが、この人物が平和運動家ということなので、ガンジーの活動に縁故のある人なのかもしれない。
 
 
落札したインド人実業家ビジャイ氏とは、かのインド最大のビールブランド「キングフィッシャー」のオーナーであり、インド屈指の大金持ちでもある。
 
 
このニュースは、オークションという市場経済の象徴のような場所にガンジーの遺品が出品され、それをインド屈指の資本家が落札して、これをインド政府に寄贈するという、アメリカとインドの立場を鮮明に対立させる意味で、非常に興味深いニュースだと思う。
 
日本の仏像が、西洋人によって、単なる美術品に成り下がってしまったように、インド人にとっては神聖なガンジーの遺品も、アメリカでは単なる好事家のコレクションに過ぎない。
 
これをインドの資本家が、市場経済のセオリーに則って、私財を投じて落札した。
 
なんでもカネで解決するアメリカの資本主義と、カネでは買えないインドの矜恃を示したインド人資本家の姿勢はきわめて対照的である。
 
 
報道では、インド政府はオークションに参加することが禁止されていたところに、上記のビジャイ氏が急遽、参加を決め、落札したという。
 
インド国民のために一肌脱いだ、この実業家に拍手を送りたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白州次郎とアミン大統領 2009年02月28日23:06
 
さっきまで放送していたNHKドラマの白州次郎スペシャル。
 
さすがNHKだけに映像が美しく、金がかかっていた。
 
ドラマ自体も面白かった。
 
次回が楽しみである。
 
 
 
白州次郎という人は、十数年周期でブームが来るらしい。
 
確か90年代の中頃にもブームがあったと思う。
 
私はその時に、この人の名前を知った。
 
 
同じような人に、チェ・ゲバラがいる。
 
この人も、十何年周期でブームが来るようだ。
 
 
この人たちに共通しているのは、歴史上たいしたことをしているでもないのに、なぜか人気があることだ。
 
その人生は波乱万丈かもしれないが、とりたてて実績を残しているわけでもない。
 
ただ人々は、自分たちにマネできない彼らの生き様に感銘を受け、マスコミがそれを煽り、一部の人が儲ける、ということなんだろう。
 
 
 
彼らと真逆の例をあげてみるとするなら、ウガンダの食人大統領アミンだろうか。
 
「教科書には載せられない暴君の素顔」(山口智司 彩図社)によると、この人は身長2メートルの巨漢で、国内ボクシング大会で優勝した経験もある猛者である。
 
大統領になって多くの人を虐殺した。
 
アフリカ会議を開いたときには、イギリス人に自分が乗った輿を運ばせたそうだ。
 
経済を支配していたインド商人を国外追放して顰蹙を買ったりした。
 
そして最後に人肉を食ったという。
 
 
世界中にばらまかれた、まさに悪党そのものの、このようなアミン大統領のイメージに反して、実際にインタビューした木村太郎キャスターは、次のような印象を記している。
 
 
「インタビューの中で一番印象に残っているのは、ウガンダのアミン大統領ですね。大虐殺をして人の肉を食べたとうわさされ、"人喰いアミン"などと呼ばれていました。その人にインタビューしたんですが、実に優しい男で「虐殺して人の血をすすったのは本当か」と聞いたところ、「そんなことするわけないじゃないの、この国がそんなに危険だというのなら、車を出してあげるから、どこに行ってもいいよ」と言われたことがありました。それでウガンダをひと回りしたんだけれど、本当の彼は国民から慕われていて、我々の人間像と違ってびっくりしました。  これにはいろいろ裏事情があって、アミンはウガンダからインド系の商人を追い出したんですね。アフリカではインド系がマスコミを握っていたので、それに反抗して反アミンキャンペーンを展開したわけです。実際、彼が隣に息子を載せて車に乗っているところも見たし、独裁者という感じは全然しなかったね」
 
 
この話を聞いていて思い出すのは、フィリピンのマルコス元大統領である。
 
この人も独裁者として、ひどく印象が悪いけれども、現地では大変人気があったといわれる。
 
なぜなら彼が、スペイン系や華僑ではなく、原住民の出身だったからである。
 
しかし後世、イメルダ婦人の靴コレクションのように、とかく悪く言われてしまった。
 
もちろん汚職があったのは確かだろうし、悪いこともたくさんしているに違いない。
 
しかし彼に対する世界中の非難にもかかわらず、地元の人々に絶大な人気があったという、その事実に、私たちは注目する必要があるだろう。
 
その背景には、古くはスペインと華僑、新しくはアメリカによる、フィリピンの経済支配があるのだ。
 
 
 
本人の意志にかかわらず、一部の人の利害関係によって後世の評価が変わってくるというのは、歴史上よくある話である。
 
たとえば秦の始皇帝は、焚書坑儒をしたために、後世の歴史家(儒学者)からひどく叩かれ続けたわけだが、画期的な制度をいくつも生み出している英傑でもある。
 
 
白州次郎やゲバラが、実際はどんな人だったか、私は知らないけれど、少なくとも後世に好印象を与えることができた、とてもラッキーな人であることは間違いない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スイス銀行 2009年02月28日13:06
 
先日の読売新聞に、スイス金融最大手のUBSに関する記事があった。
 
クレディスイス銀行の頭取が、UBSの頭取になったという、我々にとってはどうでもいい記事である。
 
しかしそれに続いて、以下のような記事が続く。
 
 
「米国人の海外での脱税をほう助したとして、7億8000万ドル(約760億円)の制裁金を支払い、約300人の米国人顧客リストを開示することで米司法省と和解した」
 
 
スイス銀行というと、
 
「顧客情報を厳格に守ること」
 
で有名である。
 
地下室の、ものすごく厳重な貸金庫から、訳ありの男が、なにやら怪しげな財宝を取り出す……とかいうシーンは、映画でもおなじみだ。
 
 
さすがスイス銀行だよな。
 
 
そういうコンセンサスが、我々にはある。
 
その背景には「スイス」という清廉なイメージが、かなり有利に働いているだろう。
 
アルプスの雪景色や、清潔そうな街並みや、時計のような緻密な機械技術や、チーズフォンデュはどうでもいいとしても、永世中立国であるとか、いかにも汚職の少なそうな、清廉潔白なイメージである。
 
 
 
守秘義務を厳格に守ることが、顧客の信用につながる。
 
それはそれで立派なことだろう。
 
 
しかし記事に書かれているように、世界中の悪党からの金が、この銀行に集まっていることも事実だ。
 
アフリカの独裁者の隠し資産や、過激なテロリストや、マフィアやヤクザの資金源や、世界中の大金持ちが荒稼ぎした不正蓄財が、この銀行にはあるだろう。
 
 
「守秘義務を厳格に守ること」は、同時に、「どんな汚い金でも引き受ける」ことでもあるのだ。
 
そうして集まった莫大な資金が、この銀行の信用につながり、ひいてはスイスという国の信用に直結しているのである。
 
 
同じく読売に、歴史家のポール・ケネディ氏が、こんなことを書いていた。
 
「スイスの豊かさは、少なくとも四つの財源に基づいている。強力な銀行・保険・投資サービス、工学製品や薬品など高品質で付加価値の高い製造業、観光収入、そして国の高い保護を受ける高収入の農業部門」
 
 
これらが「スイス」という世界有数の「清廉なイメージ」に基づくものであることは言うまでもない。
 
しかしそのウラには、汚い部分が間違いなくある。
 
 
たとえば巨大食品会社のネッスルが、世界中の水源を買い漁り、世界の飲料水を支配しようと画策しているように。
 
スイスという、あまりにも美しいイメージに、私たちは惑わされてはいけない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルザイ大統領ってどうなのよ 2009年02月24日00:57
 
カルザイ大統領。
 
アフガン戦争後の国連総会で、涙ながらに祖国の窮状を訴えたことで、世界中の感動を呼んだ人だ。
 
そして民族衣装をダンディに着こなす姿も話題になった。
 
しかし私は、この人が、あんまり好きではなかった。
 
戦争でメチャクチャになった国からやって来て、しおらしく援助を求める姿が、なんだかウソ臭く思えたのかもしれない。
 
 
そしたらこの間の読売新聞に、面白いことが書いてあった。
 
カルザイ大統領がアメリカのホルブルック特使と会談したニュースの下りである。
 
 
「ホルブルック氏はカルザイ政権下で深刻化する汚職問題への懸念を強く表明したという。オバマ米政権は汚職や治安悪化、麻薬対策などで有効策を打ち出せないカルザイ政権と距離を置いている」
 
 
考えてみれば、この間のアフガン戦争というのは、南部と北部の対立でしかなかったのかもしれない。
 
南部を支配するタリバンが、パキの支援で中央政権を握っていたのが、北部の部族連合が、米軍に支援され、政権を奪還した過ぎないのではないのかと。
 
そして国際援助などの莫大な利権は、今度は北部に流れこみ、政権を握った連中は汚職で私腹を肥やす。
 
カルザイもその一味であることは言うまでもない。ウイキにこんな記述がある。
 
 
「(カルザイは)アメリカの大手石油会社ユノカルの役員をしていたことがあるとの報道がある。その会社はカルザイ治世の中でアフガニスタンにインド洋とカスピ海の油田を結ぶパイプラインの建設を行っている」
 
 
結局のところ、国内の利権争いにアメリカを初めとした外国の思惑が絡んだのがアフガン戦争の実態だったのではないだろうか。
 
 
タリバン政権が正しかったかというと、私もよくわからない。
 
しかし少なくとも言えることは、北部の部族連合が中央政権を握ったとしても、タリバンの頃とたいして変わらない、ダメな政治が行われている、ということである。
 
変わったのは、アフガンにアメリカの利権がガッチリ割り込んだということだろう。
 
それでアフガンの人々がシアワセになるのかというと、それもまた疑問ではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キリン、サンミゲル買収 2009年02月21日13:33
 
読売新聞によると、キリンビールがフィリピンのビールメーカー、サンミゲルの株式の40%以上を取得したそうだ。
 
ということは、ほとんど子会社化ということである。
 
一方でアサヒビールは、かなり前からタイのシンハビールと提携していて、アサヒを現地生産している。
 
今のところ第3のビールで売り上げは落ちていないけれど、ゆくゆく日本は少子化でビール消費は間違いなく減少していくので、先を見越しての株式取得なんだろう。
 
今後も日本の、ビール会社を始めとした食品メーカーの、フィリピンやタイなど、まだまだ人口増加が見込める「活きのいい」国への進出が加速するに違いない。
 
 
このことが、アジア諸国との新たな経済摩擦につながりはしないだろうか……なんて言ってられない状況なんだろうなあ。
 
日本のメーカーが、どんどん日本から逃げ出していく。
 
日本は本当に斜陽国家なのである。
 
思えばジャパンバッシングされてた時期が、日本の絶頂期だったんだろうなあ……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「眼中にない」2 2009年02月13日02:06
 
この間、「アーロン収容所」(会田雄次 中公新書)をひっくり返していて、まさに「眼中にない」のエピソードがあったので紹介したい。
 
 
この本は、当時京大助手だった著者がミャンマー戦線に従軍して捕虜となり、現地収容所に数年滞在したときの体験記である。
 
内容は案に相違してけっこうコミカルだったりして、なかなか好著なんだけれど、それはともかく。
 
日本軍捕虜は雑用係として働かされた。
 
 
「私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信用されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった」
 
 
さらに腹が立つのは女性兵士である。
 
 
「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。ひとりの女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである(中略)
入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである」
 
「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない」
 
 
戦争に負けるということがどういうことか、ちょっと考えてしまうエピソードではありませんか。
 
 
 
ところで私も似たような経験がある。
 
中東のヨルダンという国のバックパッカー宿で、マネージャーのパレスチナ人と、私の嫁さんと三人で、韓国料理の「サムゲタン」をつくって食べることになった。
 
夕食の頃に準備ができて、ロビーのテーブルに並べて三人で食いはじめた。
 
 
すると同宿の白人の女がやってきた。
 
彼女は我々の存在を完全に無視して、アラビア語のテレビ放送を見はじめた。
 
もしも彼女が「こんにちわ」とか「おいしそうね」とか声をかけてきたら、私は「少し食べてみますか」と応対していただろう。
 
しかし彼女は、我々の存在などないものとして、完全にシカトしてテレビを見続けた。
 
10分ほどして、白人の若い男が登場した。
 
彼女は立ち上がり、抱き合い、濃厚なキスをし、腕を絡ませて、どこかに出かけていった。
 
 
彼女にとって、私たち東洋人とアラブ人は「眼中になかった」のは言うまでもない。
 
ましてやアラブ人や中国人が食っているものなど、彼女にはなんの興味もなかったのである。
 
もちろんそうではないかもしれない。
 
我々が西洋人だったとしても、彼女は同じようにつっけんどんな態度だったかもしれない。
 
しかし私はそうは思えない。
 
他の西洋人にしたところで、この背が低く痩身の、いかにも気弱そうなパレスチナ人マネージャーに対する、ある種の高圧的な態度は変わらなかったのである。
 
一方でこのパレスチナ人は日本人には大変人気があった。
 
実際、彼は非常に誠実であり親切だったのである。
 
しかし他の西洋人客は、彼の誠実さに気づくことはなかった。
 
なぜ気づかなかったのかといえば、彼らはこのマネージャーをただの現地人の使用人くらいにしか見ていなかったからではないだろうか。
 
 
 
もちろんこの女の態度が、西洋人女性を代表しているとは私も思わない。
 
しかし、このような「有色人のことが眼中にない」西洋人というのは、日本から西へ進むに従って増えていくように思える。
 
バンコクのカオサンの西洋人にしても、彼らの態度を見ていると、東南アジアの人々など「眼中にない」ことがわかる。
 
彼らはタイ人のボーイに笑顔で会釈をするけれど、それは使用人に対する「アメ」であって、それ以上ではないように見える。
 
 
彼らにとって必要なのは、青い海とまぶしい太陽と、物価の安さであって、現地の人々など本来「眼中にない」。
 
それはデカプリオ主演の映画「ビーチ」を見ていてもよくわかった。
 
この映画の舞台は、タイにもかかわらず、登場人物はすべて西洋人であり、唯一登場するタイ人は、大麻を栽培する悪党のマフィアだった。
 
彼らがこういう態度を改めない限り、世界平和なんて来るはずがない。
 
そして西洋人を狙ったテロは、永遠に続くように、私には思われるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニュースの価値ってなんだろうか? 2009年02月12日18:36
 
繰り返し報道されるオーストラリアの山火事のニュースを見ていて、以前、映画監督の堤幸彦氏が、読売新聞に書いていた文章を思い出す。
 
大意は以下のようなものだった。
 
 
「外国の山火事が、たびたびニュースで取り上げられるけれども、実は実生活には、たいして関わりがないことが多い。にもかかわらず大々的に報道されるのは、映像が衝撃的だからである。その一方で、本当に身近で重要なニュースがボツになっていく。これは問題ではないか?」
 
 
本当にその通りだと思う。
 
北京の高層ビル火災も、同じことが言えよう。
 
私たちの実生活では、中国の放送局が焼けたって、なんの関係もないのである。
 
しかし映像のインパクトで、ついつい見入ってしまう。
 
 
こういう傾向は、当然ながら民放のニュースに強く見られる。
 
さすがにNHKでは続報も流さなくなったが、民放では、いまだに「コアラが1匹助かった」といった「美談」が報道されていた。
 
 
もちろん被害に遭われたオーストラリアの人々には同情するわけだが、その一方で、「ニュースの価値」というのはいったいどこにあるんだろうか? と思わず考えずにはいられない。
 
こういう、言ってしまえば、
 
「映像のインパクトだけで、内容はどうでもいいニュース」
 
というのが、大きく取り上げられてしまうのは、他でもない。
 
私たち視聴者が望んでいるからなのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タイ人の「差別意識」 2009年02月11日00:02
 
アンジェリーナ・ジョリーがタイ北部の「キリスト教系少数民族」の難民キャンプを慰問したそうだ。
 
この少数民族の名前は出ていないが、おそらくカレン族だろう。
 
なぜわざわざ「キリスト教系少数民族」を選んだのだろうか。
 
アニミズムを信仰している少数民族では、なにか不備があるのだろうか……などと意地悪なことは言うまい。
 
 
 
ともあれ。私はこの地域に行ったことがある。
 
そして地元のカレン族の男性が、吐き捨てるように言っていたのを思い出す。
 
「あいつらは車や金を与えて、キリスト教に勧誘してやがるんだ」
 
そう言う彼も、立派な四駆を愛車にして乗り回していた。
 
おそらく「金で転んだ」自分に対する嫌悪感が、そう言わせたんだと思う。
 
彼女がそういう実態を知っているのかどうか知らないが、いずれにしても地元ではキリスト教団体は評判が悪いのだ。
 
 
 
それはともかく、そのタイの軍隊がミャンマー難民を海に放逐して、たくさんの人が死んだ事件は記憶に新しい。
 
タイ人というのは、とにかくミャンマー人とカンボジア人をバカにする。
 
両国ともタイに出稼ぎにやってくる人々だからだ。
 
そして歴史上も抗争を繰り返してきた人々でもあるからだろう。
 
 
その一方で日本人に対しては、
 
「東京から来たの? いいなあ。オレも行ってみたいなあ」
 
と憧憬を露わにする。
 
そしてその上の西洋人に対しては、多くの日本人と同じように、気後れして話しかけることもままならない。
 
 
タイ人に限らず、途上国の人々の方が、このような序列をつけたがる。
 
その尺度には、しばしば英語が利用される。
 
「英語が話せる方がエライ」
 
という単純な尺度で、
 
「どちらが上か=どちらが西洋人に近いか」
 
を競う。
 
私はそういう状況に嫌というほど直面してきたので、英語という言語が嫌いで仕方がない、というのは前に書いた。
 
 
 
途上国の人々は、先進国よりも教育レベルが低いのと、「植民地化の歴史」という彼ら特有のコンプレックスから、自分たちよりも下の連中に対して、ひどくつらく当たる傾向が強い。
 
その結果が、今回の悲劇とも言えるのではないかと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
RSPCA 2009年02月08日21:58
これは、イギリスの町のあちこちで見かける募金箱を設置した団体だそうだ。
 
私は、この国行ったことがないので知らないけれど、先日読了した「素顔のヨーロッパ」(桑原武夫編 朝日選書)の加藤秀俊教授の一文にあった。
 
RSPCA。
 
すなわち「王立動物虐待防止協会」というのだそうだ。
 
 
なにをする団体かというと、
 
「非衛生的な環境で飼われている家畜を監視・摘発し、さらに街頭に迷うかわいそうな動物を保護するのである」
 
 
かなり過激な団体だそうで、金魚店の経営者が、店が火事になると金魚が死んでしまうから、毎晩家に金魚を持って帰るという条件で、開業許可を申請した。
 
そしたらRSPCAは反対した。その理由は、
 
「金魚は、その「通勤」途上で、水がゆれるから、船酔いにかかるに違いない」
 
だったという。
 
 
アホか。
 
 
そして最後に、このわけのわからない団体をつくってしまうイギリス人について加藤教授はこう述べる。
 
 
「どうにも納得がゆかないのは、イギリス人というのが、同時に、狩猟好きの民族だ、という事実である。(中略)
そのうえ、牧場で草を食んでいる牛だの、農家の裏庭でゴロゴロしている豚だのは、つぎつぎに「と殺場」に送られ、すがたをかえて、すべてのイギリス人の家庭の食卓にのぼる。(中略)
こういうわたしの疑問に答えてくれる人は、残念ながらひとりもいなかった。わたしがそれを質問すると、当惑げな表情だけがかえってきた」
 
 
 
昨今、過激化している捕鯨妨害団体も、この団体の延長線上にあることは言うまでもない。
 
自分たちはローストビーフを食っているくせに、クジラを食うのは野蛮だという。
 
異常なまでに金魚の「人権」にやかましいくせに、自分たちが食う動物の「人権」には、まるで無頓着である。
 
 
彼らが正しいと信じて疑わない彼らの正義が、実は「彼らにとって都合のいい条件」でしかないことがよくわかる。
 
 
私は断言するけれども、こういう「エセ動物愛護団体」なんかよりも、彼らが植民地支配していたインド人の方が間違いなく、より崇高な理念を持った動物愛護者である。
 
 
 
 
 
【追記】
mixiでいただいたコメントに対するレス
 
 
私は「動物愛護」「レディファースト」「人種差別」「環境問題」などは、いずれも強い者が弱い者を支配するという意味で、同じ根っこだと思っています。
 
その背景にあるのは、イギリス人が好む「noble oblige」(ノーブルオブリージュ)、すなわち「高貴なるがゆえの義務」です。
 
強い者には弱い者を支配するかわりに、相当の義務が発生するという考え方です。
 
こういう考え方は、当然ながら優劣が歴然である場合にのみ発生するわけですから、彼らは人種や男女間に優劣があることを前提にしているわけです。
 
 
 
……と興奮して書いてしまいましたが(笑)、彼らは動物を本当にかわいがっているようには、私は思えないです。
 
デカルトという哲学者は「動物機械論」というのを書いています。
 
「動物には魂がないので機械と同じだ。だから痛みも感じないんだ」
 
といって、生きているイヌを解剖したりしたそうです。
 
そういう極端な人間中心主義の思想が、彼らの根底にはあるわけです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカの小さな町から2 2009年01月30日02:01
 
今回も「アメリカの小さな町から」(朝日選書)である。
 
著者の社会学者、加藤秀俊教授が、この本に書かれている滞米をしたのが、60年代後半らしい。
 
当時は彼我の経済力には圧倒的な差があり、日本人は日本人を劣等民族だと卑下しまくっていた時代のことである。
 
なのでこの本でも、アメリカという国の先進性、合理性、豊かさを、これでもかと強調している。
 
 
その中に興味深い一節があったので、ご紹介しよう。
 
アメリカの小切手文化についてである。
 
アメリカでは現金はほとんど持ち歩かない。
 
いまならカードだろうが、かつては小切手だった。
 
小切手は個人名義で切る。
 
よって個人に信用がないと通用しない。
 
大都市では身分証の提示を求められる。
 
 
つまりアメリカでは「信用貸し」がごく普通に行われていたのだ。
 
到着早々、日本の外貨持ち出し制限のため、加藤教授は現金に困った。
 
そこで銀行に行って金を借りることにした。
 
 
「手続きは、ばかばかしいほど呆気ない。わたしは、ただ銀行にゆく。貸付係の人と握手して、住所・氏名をあきらかにし、カネの使用目的を話す。それだけである。二分後、わたしの手には六〇〇ドルの小切手があった」
 
 
その手続きのスムーズさに感嘆する教授なのであった。
 
 
フラッと銀行を訪れた、どこの誰とも知れない人物に簡単に金を貸す。
 
こんなルーズな金貸しが平気で行われてきたのがアメリカという国のなのである。
 
よく焦げ付きが出ないもんだと、不思議に思うわけである。
 
 
 
おそらく背景には、アメリカという大国に対する揺るぎない信用があったからだろう。
 
経済は一種の幻想である。みんなの信用の上に成り立っている。
 
世界一の軍事大国で経済大国のアメリカに住んでいれば大丈夫。
 
そういう、みんなのコンセンサスがあったからこそ、銀行は誰にでも気軽に金を貸したし、多少支払いが遅れても、誰もさして問題にしなかったのかもしれない。
 
それがおかしくなってきたのは、中国が大国化し、世界が「多極化」といわれるようになってきてからだろう。
 
アメリカの一極集中に陰りが出てきたとき、アメリカ人の心にアメリカ経済に対する不信が出始めた。
 
銀行は一転して貸し渋り、滞納している債権を回収しようと焦り始める。
 
それまでルーズにしていた債務者から一斉に取り立てを始め、それらが一気に不良債権化する。
 
サブプライムローン問題は、アメリカという国に対する信用不安がもらたしたものではないだろうか。
 
 
別のページには、こんな描写もある。
 
「アメリカの住宅金融はおどろくほど発達していて、たとえば、一万ドルの家を買いたいと思えば、五〇〇ドルほどの頭金だけ払えばよい。あとは金融機関が肩がわりしてくれる。わずかの金額を長期月賦で払い続つづければいいのである」
 
同率を日本に援用すれば、一千万円の中古マンションを買うのに、頭金はわずか五十万円でOK、ということになる。
 
こういうのを「発達している」というのかどうかはギモンだが、こんなことを長年続けてきたあげくの果てが、現在のリーマン金融不況であることは言うまでもない。
 
こう考えてみると、今回の金融不況が来るべくしてきたんだなあと、シミジミと思うわけである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キリスト教とヒンズー教 2009年01月29日02:09
 
この間から、たびたび引用させてもらっている「アメリカの小さな町から」(加藤秀俊 朝日選書)。
 
この本は、いろいろと示唆に富んだ良本である。
 
 
たとえば「ハロウイン」について。
 
ハロウインは、もともとアイルランドの原始宗教ドルイドの風習だったそうだ。
 
これがキリスト教のイベントとして残ったのである。
 
 
「キリスト教というのはおそろしく過酷な宗教で、土着の「異教」をつぎからつぎへとせんめつさせてきたのであったが、たとえばハロウインにみられるような、およそキリスト教とはゆかりのない民俗信仰も、かたちをかえながら生き残っているのである」
 
 
 
キリスト教は過酷な宗教。
 
 
これはちょっと考えればよくわかる。
 
ヨーロッパのすべての国がキリスト教国で、西洋人がすべてキリスト教徒なのは、なぜだろうか。
 
それはまさしく、土着の宗教を殲滅してきた結果なのである。
 
 
だから彼らが、イスラム教のことを「コーランか剣か」の二者択一で改宗を迫った野蛮な宗教である、などと主張するのは、まったくの不当であることがわかる。
 
 
真実は、イスラム教は異臭教に非常に寛容だった。
 
一般市民より多めに税金を払えば、宗教の自由と自治が認められた。
 
だからこそ、レバノンやバルカン半島など、かつてオスマントルコが支配した各地には、多くの宗教がモザイクのように入り交じっているのだ。
 
 
キリスト教はおそろしく排他的な宗教であった。
 
だからすべての人がキリスト教徒になってしまうと、今度は「魔女狩り」のような排撃が始まった。
 
ユダヤ教の存在理由も、そこにあったとも言える。
 
サルトルが言うように、ユダヤ教が存在しなければ、彼らはべつの「異物」を見つけ出し、排撃したに違いないのである。
 
 
 
ところでそんなキリスト教と、まったく対照的なのがヒンズー教である。
 
ヒンズー教は、他宗教を殲滅するのではなく、自分の中に取り込むことで巨大化した。
 
ヒンズー教には三千だかの神様がいるそうだ。
 
それらはインド各地の土着宗教の神様を取り込んでいった結果とも言えるだろう。
 
新しく神様が入ってくると、
 
「それはシバ神の生まれ変わりってことで」
 
とか、
 
「ビシュヌ神の奥さんにしちゃおうぜ。 え? もういたっけ? じゃあ離婚させちゃおうぜ」
 
などといって、うまいこと自分のとこの神様の仲間に仕立ててしまうのである。
 
この鷹揚さというか寛大さというかいい加減さは、まさにアジア的と言えるだろう。
 
キリスト教が過酷な砂漠で生まれた宗教であることと、ヒンズー教がインド北部の豊饒の大地で生まれたことの、大いなる相違なのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「眼中にない」 2009年01月22日23:39
 
2ヶ月ほど前のNスペで、アブグレイブ刑務所でのイラク人虐待事件についての特集をやっていた。
 
流出した写真の一枚、「女性兵士が全裸のイラク人の首に鎖をつないで笑顔で立っている写真」の、その張本人にインタビューするという内容である。
 
この女性は貧乏な家庭に育った。
 
家はトレーラハウスである。大学に進学するカネがなく、いったん兵役に就いた。予備役になると奨学金が出るので、軍隊を選んだのだ。
 
現在はなにをしているのかよくわからないが、バツイチらしい。
 
相変わらず狭いトレーラーハウスに暮らしていた。
 
番組の最後に、核心に触れる質問をなげかけた。
 
 
「なぜアナタは、あのとき笑っていたのですか?」
 
 
それに対する彼女の答えはこうだった。
 
「恋人に写真を取ってもらうときは、誰でも笑顔になるものでしょう。イラク人のことなんか、アタマになかったわ」
 
 
彼女の目には、彼氏しか映っていなかった。
 
周辺に大勢いたはずの、チンポをむき出しにしたイラクの男たちのことなど眼中になかったのである。
 
 
「眼中にない」
 
 
これは、西洋人の振る舞いを考える上で、重要なキーワードのように思える。
 
 
以下は、「西洋人の「ドレスコード」」と題して、つい最近、北海道新聞に寄せた原稿である。
 
 
 
カイロの考古学博物館は、エジプトを訪れる、ほとんどすべての観光客が足を運ぶ観光地である。そこでは世界中の人々が観察できるわけだが、これらの人々の「ドレスコード」を観察すると、興味深い実態が見えてくる。
 
言うまでもなくイスラムでは肌の露出は禁忌されているわけだが、これを厳しく遵守している順に以下のようになる。
 
アラブ人→日本人→日本以外の東洋人→ヨーロッパ系西洋人→アメリカ人
 
日本人女性は、かなり穏当な服装の人が多い。ガイドブックに神経質なほど、服装についての留意が促されているせいもあるのだろうが、それよりも「現地の慣習を尊重しよう」という気持ちが強い気がする。
 
これより若干、服装がラフになるのは、シンガポールや韓国のツアー客。若い女性を中心に、かなりラフである。しかしそれでもまだ肌の露出は、以下の人々に比べるとかわいいもんである。
 
ヨーロッパ系の人々になると、その開放感は段違いだ。若い女性の間で、短いショートパンツにキャミーソールという人が増える。おそらくビーチリゾートも兼ねて来ているのだろうから、そのノリで博物館にもやって来るんだろう。しかしこの人たちの場合には、年配女性の服装がわりと落ち着いているので、まだ「救い」がある気がする。
 
もっとも露出がハゲシイのがアメリカ人である。 この人たちになると完全に地元の習慣無視。しかも若い女性よりも年配の方が、露出がハデになる。同伴する配偶者の男たちも、これに劣らず露出が激しい。しかも彼らは背が高く足が長いので、これに比例して露出部分も広大になる。博物館の外では、上半身裸で日光浴している男もいた。
こういう人たちを、地元のオジサンたちは「憐憫」に近い表情で眺めているのであった。
 
彼らにとって、この国がイスラム教国であることなんて、まったく顧慮に値しないことなのかもしれない。そして、まさにその「傲慢」こそが、アメリカに対する潜在的な脅威の拡大に、間接的に荷担しているのだということに、彼ら自身がなぜ思い至らないのか、私には不思議で仕方がない。
 
 
 
 
 
5年ほど前に、知人が取材でアフガニスタンに行った。
 
市場を歩いていると、米軍のパトロール部隊がやって来た。
 
ジープから降りてきたのは、尊大さを絵に描いたような中年の司令官だった。
 
サングラスをかけ、短パンにTシャツ姿だった。
 
イスラム国家であるアフガニスタンの事情を、ほんの少しでも考慮に入れているならば、この男の、このような格好はあり得ない。
 
軍の上層部にいるこの男だって、イスラムの戒律については熟知してるに違いない。
 
しかしそれでも短パン姿で、平気で市内を巡回する。
 
この男にとっては、現地人の習慣など、まったく無視してもかまわないもののようだ。
 
アフガン住民の反発や怒りなど「眼中にない」のである。
 
 
 
かつて南極点を目指したイギリス隊のスコットは、最新のガソリン式雪上車を駆使して極点を目指した。
 
ノルウエー隊のアムンゼンは、エスキモーを研究し、犬ぞりを採用した。
 
その結果、イギリス隊は全滅した。
 
当時世界を征服したイギリスにとって、エスキモーの習慣など「眼中になかった」のである。
 
 
イラクの治安が改善したのは、数万人の軍隊が高圧的な取り締まりを実行したからだろう。
 
今度はそれがアフガンで実行される。
 
たとえ大統領がオバマさんに替わったとしても、アメリカ人にとってアフガンの人々が「眼中にない」のであれば、意味がないように、私には思える。
 
西洋人の傲慢こそが、世界中の内戦の元凶なのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメリカの小さな町から 2009年01月22日02:30
 
今読んでいる本は、若かりし頃の社会学者、加藤秀俊教授のアメリカ滞在記「アメリカの小さな町から」(朝日選書)である。
 
この本が出版されたのは77年と三十年前だけれども、今のアメリカとさして変わらない実情が描かれていると思う。
 
 
教授が滞在したのは、アイオワ州の小さな田舎町である。
 
アメリカという国は人口二万人程度の小さな町が無数に存在している。
 
そして住民の多くは白人である。
 
かつて大都市に住んでいた白人たちは、黒人人口の増加と、それにともなう治安の悪化を嫌って、田舎に自分たちだけの小都市を無数に建設したのである。
 
教授が滞在したのはそのような地方都市のひとつであった。
 
 
その一節に、黒人に触れた部分がある。
 
教授が滞在した小さな町には黒人はひとりも住んでおらず、当時吹き荒れた南部黒人による公民権運動に同情的な意見が多く聞かれたそうだ。
 
 
「この町の人たちにとっては、黒人問題は、よその国での話みたいなものであって、いっこうに身近な感覚をともなわない。アラバマだのミシシッピだの、南部の諸州で、どうしてあんなにひどい仕打ちを白人たちがするのか、なんとも恥ずべきことである、と、ここの町の人たちはいう」
 
 
しかし実際には、自由主義の伝統を持つといわれるアイオワ州でも、人種差別は厳然と、水面下で行われているという。
 
黒人が賃貸住宅を借りようとすると、まず間違いなく断られるのだというのだ。
 
そしてそれは、おそらく氷山の一角に過ぎないだろう。
 
 
 
おそらくこういう傾向は、アイオワ州に限ったことではない。
 
白人だけしか住まない無数の地方都市の住民の多くは善意の人々で、慈善事業にも活発な、善良な一般市民がほとんどであるに違いない。
 
しかし彼らは、黒人が隣に住むとなると反対する。
 
なぜなら黒人が住むことで、自宅の不動産価値が下がるからである。
 
そういう事実がアメリカには厳然としてある。
 
 
だからオバマさんが大統領になったという事実は、逆に非常に重いと思う。
 
オバマさんは選挙前のおおかたの予想よりも、実はかなり接戦で当選した。
 
多くの白人票が、直前になってマケインに流れたからだろう。
 
 
オバマさんが言う「人種の融和」は、本当に大変なことだ。
 
そのもっとも大きな元凶は、多くのアメリカ白人たちが信じて疑わない、自分たちの「善良さ」ではないだろうかと、私は思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イランという国の実態 2009年01月14日02:26
 
この日記では、何度かイランについて擁護する記述をしてきた。
 
イランはとても平等な国であると。
 
片倉もとこ氏の「イスラームの日常世界」(岩波新書)に、イランのホメイニ革命についての、こんな記述がある。
 
 
「イスラーム革命後は実際に、所得の差がちぢまった。いままで給料の少なかった人たちが多くなり、多かった人たちが少なくなるという地ならしは、確実におこなわれた。革命前は、まったく別の交通機関を利用していた、いわゆる「上流階級」の人たちも、同じ乗り合いタクシーに乗り合わせるという光景が見られるようになった」
 
 
私が見て歩いたテヘランの風景も、こんな感じだった。
 
この国でベンツやBMWなどの高級車を、ほとんど一度も見かけなかったことに感心した。
 
 
しかし一方で、最近読んだ飯沼二郎氏の「風土と歴史」(岩波新書)に、革命前のイランについての、こんな記述があった。
 
 
「イランの大部分の村むらは、ほんのひとにぎりの地主によって所有されており、これらの「寄生地主」たちは、おのおの差配人をを村において農民を監督させて、自分たちは、のうのうと美しいテヘランでくらしているのである」
 
 
国土の大半が砂漠のイランの農業では灌漑施設が不可欠である。
 
そこで「ガナート」と呼ばれる地下水路を敷くんだが、これには膨大な金がかかる。
 
ガナートを敷けるのは村の有力者しかいない。
 
つまり地主は、農民の死活を制する「水」の権利を握っているのだ。
 
村の小作農たちは、ほとんど奴隷のように地主に隷属している。
 
アガリの収穫の、なんと3分の2は、自動的に地主のものになるという。
 
中世ヨーロッパの農奴社会のような前近代的な状態が、つい最近まで続いていたのが、イランという国であった。
 
 
こういう状態が、ホメイニ革命でどこまで是正されたのかはわからない。
 
しかしテヘランの、あの美しい街並みが、実は貧しい農民たちの収奪の上に成り立っているのだということを知って興ざめした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本人女性はヤリマンか!? 2009年01月12日23:32
 
バックパッカーの間では、
 
「日本人の女は、現地の男にすぐやらせる」
 
というのが定説のようになっている。
 
カンボジアあたりのバイタクのにいちゃんも、「日本の女の子何人とやった」
 
といって自慢していたし、日本にやってくる西洋人が同じようなことを言っているのを聴いたことがある人も多いだろう。
 
 
もちろんそれは一部の女の子でしょうし、それ以前にそんなの「大きなお世話」なので、好きにすればいいじゃないと、私は思うわけです。
 
 
 
 
それはいいとして、本当に日本の女性は尻軽なんだろうか?
 
というのは興味深い命題である。
 
これについて最近、面白い話を聞いたのでご紹介したい。
 
 
沖縄県は都道府県別の離婚率が、ダントツで一位である。
 
理由については「男が甲斐性がない」説が、最も有力とされている。
 
 
しかし私はもうひとつ理由を聞いた。
 
案の定、浮気である。
 
そしてその浮気には、ひとつのパターンがあるという。
 
 
 
中学や高校の同窓会に出かける。
 
 
元彼や元彼女と再会する。
 
 
やっちゃう。
 
 
バレる。
 
 
離婚。
 
 
 
聞いた話では、このパターンが圧倒的に多いらしい(ウラとってません)。
 
それで別にそれも「大きなお世話」なので、ここでは深く追求しない。
 
沖縄の「性に対するおおらかさ」がよく現れたエピソードだよなあと思うわけである。
 
 
性に対するおおらかさ。
 
 
そうなのである。
 
柳田国男によれば、日本は海洋民族の影響を強く受けているという。
 
また司馬遼太郎によれば、かつての「村祭」なんていうのは、若い男女の乱交の場でもあったそうだ。
 
そういう南方の開放的な性の文化を受け継いでいる日本人の女の子が、「簡単にやらせる」のも、あながち理由がないわけではないようにも思える。
 
こんな風に言い切ってしまうと、日本人女性から猛反発が来そうです。基本的に「大きなお世話」なので、このへんでやめときましょう。
 
 
どうもすいませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガザ侵攻の背景 2009年01月07日00:09
 
ついにイスラエルの地上部隊が突入したガザ紛争。
 
しかしなぜ、ここまで悪化してしまったのか。
 
読売新聞の「アジアスコープ」での池内東大準教授の論説を参考に考えてみたい。
 
 
まずイスラエル。
 
イスラエルとしては原理主義組織が支配するガザは危険でしょうがないので、早いとこ取り除きたい。それにアメリカの大統領が替わって路線変更される前に、軍事的優位を確保しておきたいという思惑があった。
 
 
次にパレスチナ自治政府。
 
彼らにとってもハマスは反乱分子なので邪魔である。それにハマスは民衆に人気があるので、放っておくと彼らの既得権益が脅かされかねない。よって賛成。
 
 
エジプトの場合。
 
この国のスタンスは、よくわからないんだけれど、戦争直前の昨年のクリスマスに、イスラエルの外相がエジプトを訪問しているので、ここでなんらかの手打ちがあったのだろう。
 
追記
今になって、よくわかるけれど、このときの手打ちとは、ハマスとイスラエルの停戦をエジプトが演出する、あるいはその後のファタハとの連合を仲介することだったのだろう。コレでアラブの盟主としての体面は保たれるわけだ。
 
 
アラブの産油国。
 
彼らは、中東が政情不安になれば原油価格が上がるので、最近の価格低迷を考えると、この戦争を歓迎しているのは明らか。
 
 
シリアとイラン。
 
この両国はハマスに武器供与している。ハマスが壊滅せずにイスラエルが撤退すれば、ハマスは英雄になり、両国の株も上がる。もしもハマスが壊滅したら、アラブの群衆の反米志向は強化され、両国への支持が高まる。よって戦争には賛成。
 
 
最後にアメリカ。
 
この国は、中東で戦争が起こると軍需産業もオイルメジャーも儲かる。ついでにイスラエルが新兵器の実地試験をしてくれる。政治家はユダヤ人ロビイストから莫大な寄付がもらえる。世間体以外は戦争に反対する理由はない。
 
 
 
というわけで、みんなが賛成したので、イスラエルの侵攻が始まったのだと思われます。
 
多くの犠牲を出し続けるガザ地区の住民のみなさんは、本当にお気の毒です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「アングロサクソン的なビジネスモデルの失敗」 2009年01月06日14:35
 
出口の見えない金融不安。
 
最近になってよく聞くのが、
 
「アメリカ型市場経済至上主義の破綻」
 
という指摘だ。
 
コイズミもそうだったけれど、世界各国が規制緩和を進めた結果、世界的なバブルが発生し、世の中はいつのまにか「格差社会」となり、ついにバブルが崩壊したのが、現在の状況なんだそうだ。
 
 
今日の読売に元大蔵相財務官の論説が載っていた。
 
「今回の危機は、アングロサクソン的なビジネスモデルの失敗である」
 
 
アングロサクソン的なビジネスモデルの失敗。
 
議会制民主主義を生み出し、産業革命以来、世界を支配し続けてきたアングロサクソンのビジネスモデルが破綻しつつある。
 
 
 
この日記でも書いたけれど、「民主主義」というものが、うまく定着した国というのは、実はわずかしかない。
 
世界の多くの国は「民主主義」に「失敗」しているのである。
 
昨年のケニアの大統領選挙を見てもわかるだろう。
 
大統領というひとつのイスを狙って、数多くの部族が殺し合いをするのである。
 
西洋人は、それを民主主義が定着するまでの過渡期であり、彼らの民度の低さを嘆くわけである。
 
 
しかし私はそうは思わない。
 
選挙が行われる以前の、この地域は、それなりに平和だったのであり、西洋の国家モデルが導入された途端に、対立が発生したのである。
 
日本のように、西洋の国家モデルと資本主義というビジネスモデルをうまく導入して、西洋以上にうまく活用した国というのは、韓国や台湾など、ほんの一部でしかない。
 
なぜか。
 
それは日本や韓国が、ほぼ単一民族であり、同じ言語を話し、ほぼ同じ宗教を信じていたからである。
 
対立する民族を内包する国家や、複数の宗教を持つ国家は、インドなど一部の例外を除いて、ことごとく民主主義の定着に失敗している。
 
なぜなら民主主義は、西洋の国々をモデルにして完成されたものであり、西洋の国家というのは、
 
「一国家、一民族、一宗教、一言語」
 
が普通だからである。
 
このように考えると西洋人が考え出し、「普遍的である」と自負していた政治モデルが、実はまったく普遍的ではないことがわかる。
 
そして今回、同じく彼らが「発明」した「資本主義」というビジネスモデルが破綻に瀕している。
 
 
西洋人が世界を支配する時代は、そろそろ終わりつつあるのかもしれない。
 
そして「国家」や「市場経済」を超えた新しい社会システムが、そろそろ考案される時期なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崩壊国家ソマリア 2009年01月05日19:38
 
「海賊問題」で、去年末くらいから、にわかに脚光を浴びているソマリア。
 
この国は91年以来、政権が崩壊した「無政府国家」だそうだ。
 
イスラム原理主義の温床となり、国連平和維持軍がメチャクチャにされて撤退した様子は、映画「ブラックホークダウン」の、生々しい映像の通りである。
 
反政府武装勢力が各地に割拠して、中央政権は長らくケニアなどで暫定政権を発足させたりしていた。
 
 
このソマリアの状況。
 
隣国のイエメンとまったく同じである。
 
私は一昨年、イエメンに行ったけれど、この国ほど「国家」というものについて考えさせてくれる国はない。
 
 
イエメンの中央政権は、首都のサナアを代々統治してきた「ハシッド族」である。
 
イエメンには他にも有力部族がいくつかあり、当然ながら中央政権とは仲が悪い。
 
税金も中央政権が使ってしまい(たぶん)、ちょっと地方に行くと電気も水道もなく、マトモな道路すら通ってない。
 
アラブでは「身内以外はすべて敵」なので当然である。
 
 
要するに私たち国際社会が「イエメンを代表する政府」と認定している集団は、必ずしも国民すべてを代表してるわけではなく、たまたま首都と位置づけられた都市の周辺を支配していた部族が、国際的に中央政権と認定されているだけなのである。
 
当然ながら地方部族は面白くないわけである。
 
そこで地方勢力は、外国人旅行者を誘拐して中央政府を脅迫する。
 
その内容は、
 
「我々の地域に道路を通せ」
 
とか、
 
「優先的に電力を配分せよ」
 
というような他愛のないものらしい。
 
だから外国人旅行者が殺されるなどの被害に遭うことは滅多になかった(最近は原理主義の影響で、そうでもなくなっているみたいだけど)
 
 
中央政府は国際的な体面上、外国人を解放する代わりに地方部族の要求をのむわけである。
 
おそらくイエメンの、このような風潮が、ソマリアの海賊ビジネスの起源ではないだろうかと私は思う。
 
イエメンの事情については、佐藤寛氏「イエメンものづくし」(アジア経済研究所)が超オススメである。
 
 
警察や軍隊の権力は、地方ではまったく通用しない。
 
しかし「北斗の拳」みたいなアナーキーな世界かというと、そんなことはぜんぜんない。
 
地方には部族の掟があり、普通に旅行していれば、お客さんとして遇される。
 
 
国家なんてものは、実はみんなが勝手に信じている「枠組み」のことで、実態はかなり曖昧なものであり、そんなものは必要ない国だってあるのだ、とつくづく思った。
 
 
 
というわけでソマリアの「部族が割拠する無政府状態」というのも、「無秩序」というわけではないのだと思う。
 
砂漠のベドウインは、収穫の時期になると、農民を襲撃して食いものを略奪するのが常だったが、「人殺し」だけはタブーだったそうだ。
 
ソマリアの海賊も、彼らの掟に従って、昔ながらの家業を再開したにすぎないのだろうと思う。
 
アラブ首長国連邦の七首長は、かつてのペルシャ湾の海賊の親玉だったのだから。
 
 
 
このソマリアについて、読売新聞に興味深い指摘があった。
 
「ソマリアには資源がないため、国際社会が関心を向けず、内政不干渉の原則もあって十数年も放置した。その結果が今の事態を生んだ」(遠藤貢・東大教授のコメント)
 
 
確かに国際社会が関心があるのは、
 
「海上交通の安全を脅かす海賊」
 
であって、これを生んだソマリアという国の危機については、ほとんど関心が払われていない。
 
マスコミもなにも報道しない。
 
識字率10%。1人当たりのGNP300ドルにも満たない、この国の貧困が、海賊を助長するもっとも大きな原因なのに。
 
多くの男達が海賊家業に身を落とすのは、他にマトモな仕事がないからではないか。
 
 
その問題を解決せずに海賊を武力で取り締まり、
 
「自分とこの輸送船が安全ならそれでOK」
 
というのは、あまりに無責任すぎないだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「300」 2009年01月02日01:09
 
年始早々、相変わらず西洋の悪口を書こうと思う。
 
 
ヒマなので借りてきて観た映画「300」。
 
ギリシア征服のために侵攻してきたペルシャ軍を、若干300名の精鋭スパルタ軍が迎え撃つという英雄譚である。
 
世界史では「テルモピレーの戦い」で知られている。
 
この戦いでスパルタは敗れるが、のちのサラミス海戦でギリシアが勝利する時間的な猶予を与えたと評価されている重要な戦だそうだ。
 
 
さてこの作品。
 
すでに賛否両論あるとおり、ペルシア人の描写が、かなりひどい。
 
ウラに「アメリカ政府のイランに対するコキオロシ」という政治的意図が隠されているのではないか? 
 
という指摘があるのも頷ける気がする。
 
そしてこの映画、この日記でも何度か触れている、サイードの「オリエンタリズム」そのままの視点で描かれているのだ。
 
 
 
侵攻してくるペルシャ軍は異形の「悪の軍団」である。
 
両腕を斧に改造された無気味な改造人間や、野蛮きわまりない巨人、醜悪なセムシ男、両腕を切断された奇形の女などの集団として描かれる。
 
妖艶なレズビアンがアヘンを吸引するハーレムでは、ペルシャ王クセルクセスがアラブの女に囲まれている。
 
しかもこの王様、なぜか黒人である(実際はペルシャ人は印欧語族なので、西洋人に近い)
 
 
 
一方でスパルタの精鋭が体現しているのは、王妃が元老院で演説した内容そのままである。すなわち、
 
「自由」「正義」「法と秩序」「希望」「理性」「勇気」
 
などである。
 
 
 
サイードが定義した「オリエンタリズム」とは、広辞苑によれば、
 
「西洋の東洋に対する支配の様式。東洋に後進性・官能性・受動性・神秘性といった非ヨーロッパ・イメージを押しつける、西洋の自己中心的な思考様式」
 
となっている。
 
 
非論理的なもの、醜悪なもの、エロチックなもの、野蛮で粗暴なもの。
 
これらはすべて、アジアからやって来た凶暴な侵略者に仮託され、自分たちは正義の味方を気取る。
 
 
おわかりだろうか。
 
この映画は「オリエンタリズム」そのままなのである。
 
西洋の自己中心的なモノの考え方が、この映画に凝縮しているといってもいいだろう。
 
 
監督はザック・スナイダーという「ドーン・オブ・ザ・デッド」の監督でもある。
 
映像は確かに美しい。
 
画像処理やカメラワークなど、目を見張るものがある。
 
しかし根底にある「オリエンタリズム」は、いただけない。
 
 
この映画に関して、当然ながらイラン政府から猛烈な抗議が来たそうだが、もう少し配慮があってもよさそうなものである。
 
実際、ペルシャを含めた東方文明は、西洋諸国より先行して、はるかに高度で先進的な文明を築いていたのである。
 
前にも書いたけれど、アレキサンダー大王が、西洋とはまるで逆の東洋に遠征したのは、「東洋にこそ文明の中心があった」からに他ならないのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「チノ攻撃」に関するひとつの小論
 
 
 
■「チノ攻撃」とは!?
 
南米を旅する日本人旅行者の間で、俗に「チノ攻撃」と呼ばれるものがある。
 
「チノ」というのは、スペイン語で中国人のことを指す。
 
従って「チノ攻撃」というのは、南米、特にボリビアあたりのインディオが、日本人旅行者を始めとした東洋人一般に対して、非常な軽蔑を持って吐きかける言葉、ないしその侮蔑的態度を指すのである。
 
 
たとえばラパスの市場などを歩いていると、靴磨きの少年が、すれ違う瞬間に、私たちに向かって吐き捨てるように言うのである。
 
「チノ!」
 
あるいは雑貨屋に行くと、インディオのばあさんが、うるさそうに手を振って私たちを追い出そうとする。
 
「チノはあっちに行きな!」
 
商品さえ売ってくれない。
 
こういったことが、ボリビアでは日常的に行われている。
 
 
当然ながら、彼らには日本人と中国人の区別はついていない。
 
彼らには日本という国に対する知識は皆無である。
 
彼らにとって自動車や電化製品を生産するのはアメリカ合衆国だけであり、他はない。
 
そして彼らのきわめて貧困な知識の中では、東洋人はすべからく「中国人」なのである。
そしてその中国人は彼らにとっては、大変な差別の対象なのだった。
 
なぜ中国人は、これほどまでにひどい扱いを受けるのだろうか。
 
私は前からずっと疑問に思ってきたのだが、今回ヒマなので、その傾向の分析を試みてみたい。
 
 
 
 
 
■各国の「チノ攻撃」度合い
 
あくまでも主観的なレベルなので、異論は様々おありとは思うが、私と嫁の経験から、今まで訪れた国における「チノ攻撃」の度合いを比較してみよう。
 
 
     ボリビア×××××
     セネガル×××××
  インド(北部)××××
      シリア××××
      トルコ××××
      イラン×××
     スペイン×××
     モロッコ×××
    パキスタン××
   インドネシア××
     ネパール××
     ヨルダン××
     エジプト××
      ドバイ×
  インド(南部)×
     イエメン×
    フィリピン×
       タイ×
     ベトナム×
    ミャンマー×
パプアニューギニア×
 
 
×……………ほとんどまったくない。
××…………ちょっとはあるが気にならない程度。
×××………わりと気になる。たまに腹が立つ。
××××……けっこうひどい。一日に何度も言われる。
×××××…最悪。二度と行きたくない国
 
 
 
 
■東南アジアの場合
 
この表をざっと見て、まず了解されるのが、東南アジア地域では中国人蔑視は少ないということである。
 
これには明確な理由が求められる。
 
つまり華僑の影響下にある地域ということである。
 
東南アジアに移住した華僑は、裕福な商人階級にあり、タイやインドネシアでも国家経済を左右する地位にあるので、蔑視などはあり得ない。
 
ただしインドネシアでも、華僑の少ないスラベシ島なんかでは若干だけれど言われたことがある。
 
同じくインド南部で「チノ攻撃」が少ないのは、おそらく北部との対立が原因ではないだろうか。
 
ドラビダ系の独自文化を主張する南部インドは、北部とはまったく違った文化圏である。
北部中心の中央政府が中国と張り合っているので、その対抗上、南部は中国に好意的なのかもしれない。
 
他にも差別がまったくない国というのは、パプアニューギニアとイエメンという、かなり辺境の国なのであるが、パプアニューギニアについては、二十世紀の中頃になってようやく開発が始まったということで、そういった差別の歴史自体が存在しないということで納得できる。
 
イエメンに関しては、インドからの移民やシーア派の一派イスマイル派の聖地があったりして、インド人の影響が大変強い国なのだが、その歴史はほとんど鎖国していたようなものだったと言われており、イギリスの影響もカンフー映画の影響もないまま現在に至っているのかもしれない。
 
それよりもこの国は、後でも述べるとおりにカートがあればそれでいい国なのである。
 
この両国に共通する事実は、中国人自体が存在しないということである。
 
異人種が存在しないところには、当然ながら差別も存在しないのである。
 
しかしそれなら以下に述べるアフリカや南米はどうだろうか。
 
いずれも中国人がほとんどいない地域である。
 
これらの地域は別の原因、しかも非常に根深い原因が存在すると思われる。
 
 
 
 
 
■南米と西アフリカの事情
 
次に「チノ攻撃」がもっとも厳しい地域の共通点を探ってみよう。
 
まず明確であることは、華僑の影響が及んでいない地域、あるいは中国人が少ない地域であることだろう。
 
これはもっともなことである。
 
毎日中国人を飽きるほど見ているのならば、いちいちからかう気にもならないというものである。
 
そしてもうひとつの共通点。
 
これはもっと重要であると思われる。
 
すなわち、いずれも西洋の植民地経験が非常に長いということ、そしてそれに比例してその被害をもっとも受けた地域であるということである。
 
 
ボリビアを始めとした中南米のインディオは、十五世紀末の新大陸発見以降、スペインによって奴隷としてこき使われてきた人々である。
 
何千万人という原住民が虐殺された。
 
そしてその労働力の不足を補うために強制的に連れて来られた奴隷が、西アフリカの黒人たちである。
 
両者は、歴史上もっとも西洋人に痛めつけられ、強烈な劣等感を植え付けられた人々であると言えるだろう。
 
つまり中国人蔑視の傾向というのは、西洋人のによる草創期の植民地経営の犠牲になった地域と軌を一にしているのである。
 
 
 
十九世紀中頃に、西洋諸国の申し合わせで奴隷貿易は禁止された。
 
そしてその労働力不足を補うために雇用されたのが中国人なのである。
 
しかし彼らの場合は強制連行ではなく、自主的に移民していったわけだが、現地のインディオたちにとっては、その違いなどどうでもよかったのだろう。
 
彼らにとっては、おそらく自分たちよりも下位に位置する人々が登場したという意味あいの方が大きかったのに違いないのだ。
 
 
 
 
 
■印僑による独占、長年のライバル〜インド
 
次にインド北部について考えてみよう。
 
インドは領土問題があるので、中国とは仲が悪いことがひとつの理由として挙げられるだろう。
 
インドと中国は、第三世界における主導的立場を目指しているという意味でライバル関係でもある。
 
インドでは、他の世界中で見られる、たとえば南京錠あるいは綿製品などでおなじみの中国製品が、ほとんど姿を消してしまうのである。
 
そのことでもこの二カ国の険悪さが想像できよう。
 
 
もうひとつは、この国が、中華街が存在しない、世界でも珍しい国だということである。
インドには華僑に匹敵する「印僑」と呼ばれる商人がいる。
 
アフリカからマレー半島までのインド洋一帯から中央アジアにかけて移民したインド商人のネットワークである。
 
一説によると、その悪辣さは華僑に勝るとも劣らないという。
 
ずいぶん前にネパールで会った旅行者の話を引用すると、
 
 
「甲州商人は近江商人にだまされる。近江商人は華僑にだまされる。華僑は印僑にだまされる」
 
 
このような一種の「格付け」が存在するというのだが、インドの商人はそれほど凄腕なのである。
 
『未開の顔・文明の顔』で中根千枝教授は、インドのマロワリー商人と呼ばれる守銭奴のごとき商人たちについて書いている。現在のインド経済の相当な部分を牛耳っているのが、このマロワリー出身の商人なのであるという。
 
インド商人にはジャイナ教徒が多いという。ジャイナ教とは、周知のように不殺生と無所有を標榜する宗教である。
 
この極端な清貧の思想が、守銭奴の生活信条に転化されるのに違いない。
 
生き馬の目を抜くインド商人の中で勝ち残ったという、その実績だけで、私などは尻の毛まで引きむしられそうな恐怖を感じるのである。
 
真偽のほどは不明だが、そういう人々を相手にする日本商社のインド駐在員は、関西出身者が選ばれるのが習慣であったという。
 
そういうわけで、インドには華僑すら入り込む余地がない。
 
それが珍奇な東洋人をからかうという意識が働く、ひとつの要因であることは確かだろう。
 
 
もうひとつインド人と中国人のライバル関係を象徴する事実を、『ガンジー自伝』に発見した。
 
南アフリカに赴いたガンジーは、そこで同胞のインド人が大変な差別を受けていることを発見する。
 
そして自分自身もひどい待遇を受け、非暴力運動に目覚めていくのだが、この時インド人と同じように差別待遇を受けていたのが、中国人肉体労働者であった。
 
白人は彼らを一括して「クーリー」と呼んだ。
 
クーリーは言うまでもなく「苦力」であり、中国語である。
 
このようにインド人と中国人は、最下層の貧民として、歴史上ともに差別を受けてきた人々であった。
 
そこにライバル意識とともに、互いを差別化しようとする意識が発生したとしてもおかしくはないのである。
 
 
 
 
 
■トルコとシリア、出稼ぎ帰りの影響
 
よくわからないのはトルコとシリアである。
 
他のアラブ諸国では、それほどでもないのだが、この両国は、とりわけ中国人に対する差別的発言がきわめて多い傾向がある。
 
どこの国でもそうだが、少年や若い男がグループでいると要注意である。
 
こちらを指さして嘲笑を浮かべながら、
 
「チャンチュンチョン!」
 
という声がかかる。
 
あるいは、意味不明の中国語的なイントネーションをまねた発言をして、周りの連中がどっと笑うというパターンである。
 
 
これに関して、青年海外協力隊としてシリアに赴任していたH氏の体験談は印象的だった。
二年近く赴任しているH氏にとって、
 
「チャンチュンチョン」
 
は日常的なものなので、いちいち目くじらを立てることもなくなったのだが、そのときは石ころを投げつけてきたヤツがいたという。
 
それがH氏の逆鱗に触れた。
 
彼は猛然とそいつを追っかけた。そしてついに旧市街の袋小路に追い詰めた。
 
H氏はそれでも、そこでそいつが素直に謝れば許してやろうと思っていたらしい。しかし、
「オマエがやったんだな」
 
というH氏の問いに、そいつはあくまで、
 
「ボクじゃないよ」
 
とシラを切ったのだった。
 
H氏のそいつに対する同情は消し飛び、ボコボコに殴りつけてやったという。
 
少年は鼻血を出してヒーヒー泣いた。
 
人だかりができて、そのうち警察がやってきたという。
 
回りの大人たちは、しかし少年に同情的だったという。
 
「こんな子供に暴力をふるうとはけしからん」
 
という意見が大勢であった。
 
少年とH氏はそのまま警察署に出頭した。
 
警察は逆にH氏に好意的だった。
 
少年の父親が呼ばれてきた。
 
事情を聞いた父親は少年を殴りつけていたという。
 
 
というわけで、もしも警察沙汰になったとしても、外国人の私たちが罪に問われて面倒なことになる可能性は少ないと思われるのだが、しかしそれも相手の怪我の度合いによるだろうし、そもそも暴力沙汰はあくまで避けるべきなのは当然である。
 
しかし機嫌が悪いときに、
 
「チャンチュンチョン」
 
が来ると、ちょっとどついてやろうかと思うのも人情というものなのである。
 
 
H氏は必ずしも否定的な見解ではない。
 
「チャンチュンチョン」
 
というのは、要するに中国語を知らない彼らの一種の挨拶なのであるという。
 
確かに少しでも日本語を知っているシリア人は、
 
「コンニチワ」
 
と声をかけてくるし、
 
「チャンチュンチョン」
 
にしても、ボリビアのインディオのように、ひどい侮蔑がこもっているわけではない。
 
 
しかし彼らは、私たち日本人(たぶん韓国人にも)にそういった声をかけてくるにもかかわらず、西洋人に対しては、そういった態度を決してとらないことに、私は注目したい。
土産物屋は別として、ヒマそうなガキが、用もないのに西洋人に声をかけることはないのである。
 
そこに彼らの、一般に東洋人を軽んじる姿勢が見えるのである。
 
 
確かに、西洋人に対してはあり得ない、一種の親愛の情であるかもしれない。
 
しかし東洋人に対するそのような親密が、一方で侮りに近い感情に転化する可能性も大いにあるのではないだろうか。
 
 
 
もうひとつの大きな要因として考えられるのが、カンフー映画の流行である。
 
ジャッキー・チェン、ジェット・リーなどのアクションスターがアラブ社会でもよく知られているのは周知の通りである。
 
彼らがスクリーン上で話す中国語が、アラブ人にとっては相当珍奇なものであることは間違いない。
 
 
この「チャンチュンチョン」の由来なのだが、シリア在住のH氏によると、かつて人気のあったテレビドラマの中で、シリア人コメディアンが中国人の真似をして、
 
「チャンチュンチョンチョンチャンチョン……」
 
というようなことを口走ったことが発端ではないかということだった。
 
しかし帰国してから新たな事実を発見したので、以下に紹介しよう。
 
 
 
 
■中島義道の「ウイーン愛憎」(中公新書)
 
帰国してからネットで調べてみると、かなりの人が、中近東での「チャンチュンチョン」について書き込んでいる。
 
日本人旅行者の多くの人が同じ経験をしているのである。
 
 
しかし私の知っている限り、かつての中近東では、東洋人差別はそれほどキビシイものではなかった。
 
かつて90年にヨルダンやエジプトを訪ねたときには、「チャンチュンチョン」が投げかけられたことは、私の知っている限り一度もなかった。
 
そこで友人の旅行者に聞いてみた。
 
彼らの多くは80年代後半から90年代前半にかけて旅行していた人たちである。彼らの意見を総合すると、
 
「中南米ではそういうことがあったけれど、中近東では聞いたことがない。少なくとも90年代の中頃、遅くとも97年くらいまでは、聞いたことがない」
 
私の場合は、90年代始めに私はエジプト、ヨルダン、イラク、チュニジア、アルジェリアなどを旅行したけれど、中国人をバカにするような言動ことは、エジプトでちょっとあった以外は、一度もなかった。
 
当時、我々を指さして「チノ!」(中国人を意味するスペイン語)、「シノワ!」(中国人を意味するフランス語)とバカにしていたのは、私の経験では南米のボリビア、ペルーあたりと、西アフリカだけであった。
 
 
 
ところで上掲書は、電通大の中島教授が滞在したウイーンでの人種差別や、西洋人の傲慢について書かれた名著である。
 
この中に、「チャンチュンチョン」に関する記述があるので引用してみよう。
 
 
「とりわけ東アジア人にとって不愉快なのは、路上で、公園で、レストランで、招待された家で、つまりありとあらゆるところで、子供たちの「チャンチュンチョン」とはやしたてる声である。とはいえ、実際私の目撃したのは一〇歳くらいまでの小さい子供たちだけであるが、少なくとも彼らは、これが東アジア語−−とくに中国語−−の発音の滑稽さを表すこと、軽蔑の象徴であることを完全に知っている。なぜなら、たいていの場合、この音は数人の子供たちが集まっている場に私たちアジア人が通り過ぎるとき、お互いどうし含み笑いをしながらやっと聞きとれるくらいの小さな声でささやかれるか、叱られた子供たちが私たちに体力的に反撃できない場合、この音を投げつけて逃げていくからである」
 
 
中島氏のこの経験は、1980年代前半のことである。
 
当時は、少なくともオーストリアの子供たちの間では、「チャンチュンチョン」は日常的に用いられていたことがわかる。
 
では、どうしてこのような子供らのイタズラがトルコやシリアに広まったのだろうか。
 
言うまでもなく、オーストリアはドイツ語圏で、トルコ人の出稼ぎが多い国である。
 
どこでもそうだが、出稼ぎ労働者は、だいたい現地で差別され鬱屈している。
 
 
「だが、私の知り合ったアジア・アフリカからの留学生たちは、われわれ日本人よりはるかに深いルサンチマンの状態にいた、と言ってよいであろう。私の親しくしていたすべてのアジア・アフリカからの学生は、ヨーロッパやウイーンに対して何がしかの怨みのようなものを抱いていた。彼らはそろってウイーンの寒々とした雰囲気を嫌い。きどったウイーン女性を嫌い、高圧的な役所、大学事務局の態度を嫌い、集まるやいなやそのウイーン攻撃はとどまるところを知らなかった」
 
「ルサンチマン」とは弱者の強者に対する怨みや嫉妬が心に内攻してくすぶっているような状態のことを指す。先進国日本よりも後進国からやって来た人々がよりルサンチマンを鬱屈させるのだから、単なる出稼ぎ労働者としてやって来たトルコ人が、西洋に対する怨念を燃え上がらせたとしても不思議ではない。
 
その彼らが、現地で子供らが発する「チャンチュンチョン!」を知り、同じ境遇にある、そして商売敵であるところの中国人労働者に対して、自分たちもその言葉を投げつけるようになったのではないだろうか。
 
そして彼らが帰国したとき、その話を子供たちにする。子供たちは下町をブラブラ歩き回っている日本人旅行者を見つけて、中国人と勘違いし、「チャンチュンチョン」とからかう。
 
この広がりは、なにもトルコ人に限ったことではない。インド人やパキ人の間でも広がっていることを考えると、同じような現象が各地で発生していると考えられるだろう。
 
 
ということで話を総合するとこういうことになるだろう。
 
「チャンチュンチョン」は80年代までは、ヨーロッパの一部で子供たちが用いていた中国人蔑視語であった。この発音が、折から増えつつあった中国人労働者に対する差別用語としてトルコ人出稼ぎ労働者の間に広まり、帰国した労働者から子供たちの間に広まった。そして90年代になって広くインドから中近東、モロッコに至るまでに広がった。
 
 
 
 
 
■欧米の「中国ネガティブキャンペーン」?
 
ここでもうひとつ疑問がある。
 
ではなぜ九十年代後半なのだろうか?
 
とある友人は、中国人は世界中どこにでも住んでいるので、バカにされやすいのだろうという。
 
たしかにそれもあるのだろうと思う。
 
しかし私はもっと作為的なものを感じたりするのだ。
 
 
なぜ90年代なのだろうか。
 
90年代のもっとも大きな事件といえば……そう。91年の「ソビエト崩壊」である。
 
この事件が、実は大きな影響を与えたのではないだろうか。
 
 
 
ソビエトは反帝国主義、反資本主義という意味で、歴史上、途上国の味方だった。
 
それが崩壊して、あらゆる途上国は、程度の差こそあってもアメリカに接近せざるを得なくなった。
 
ヨルダンとイスラエルの和解や、中東和平のロードマップがあいついで作成されたのは90年代中頃である。
 
ソビエトに支援されていた中東諸国も、多かれ少なかれ、資本主義西洋諸国と和解する必要に迫られたのである。
 
もはやアメリカに公然と対抗している大国は、中国以外にない。 
 
だからかつて社会主義路線を進み、ソビエトの支援をアテにしていた中東諸国は、当然次の頼みは中国になるはずではないか。
 
しかしそうはならなかった。
 
そこに西洋、特に英米の作為を感じるのである。
 
つまりこうである。
  
アメリカは、中国を貶める報道を繰り返しているのではないだろうか。
 
 
かつて私はBBCの番組を見たことがある。
 
中国の貧しい農家で、菜っ葉の炒め物を囲んで大家族が一膳メシをかき込んでいた。
 
そういう報道が何度も繰り返しされたら、誰も中国を「頼むに足りない」と感じるようになるだろう。
 
もちろん確証があって言っているわけではないのだが、あるいはそういう偏重報道が繰り返されて、それが途上国の人々の中国人蔑視が助長されたという側面もあるのではないだろうかと考えるのは、あながち的外れでもないようか気がするのだ。
 
↑これについては現在調査中
 
 
ある友人は、
 
「中国なんて軽蔑されても仕方がないことをやってるだろう」
 
と言う。
 
確かにそうだ。最近は特にひどい。
 
しかし私はそういうこととは別にして、アラブ人の中国人蔑視は、どうも不当な気がしてならない。
 
人種差別意識が、コンプレックスのある種の裏返しだとするのなら、アラブ人の西洋に対する嫉妬や劣等感は、十数年前と比べて怖ろしく深く強くなっているということを意味しないだろうか。
   
私はそういうことに、なんだか不吉なものを感じたりするのである。
 
 
 
 
 
 
■中国製品が安物であるということ
 
最後に安価な工業品が多いという、中国製品の特性が挙げられるだろう。
 
シリア人のオヤジがこう言っていたのを前に書いた。
 
「中国はダメだ。これもこれもこれも、みんな中国製だけど、全部安物ばかりだ」
 
この「安物ばかり」という感覚が、中国人に対する蔑視をそのまま表しているだろう。
 
かつての日本製品に対する「安かろう悪かろう」という西洋のイメージとまったく同じなのである。
 
 
しかし私はこのオヤジに反論したい。
 
「ならアンタの国じゃ、なんか作ってるのか?」
 
薄利多売とはいえ、中国製品が世界中で大変なシェアを持っていることは間違いのない事実なのである。
 
そして世界で三番目に有人宇宙飛行を成し遂げたのも、ほかならぬ中国ではないのか。
 
それに比べてシリアでは、何か世界に輸出しているモノがあるのか。アンタの国で、中国に勝るものをなにか造っているのか? 食料品から車に至るまで、すべての製品が外国からの輸入ではないか。
 
 
 
そういえば私の立場を表明するのを忘れていた。
 
私は自分が中国人に間違われることに対して怒りを覚えるのではない。
 
中国人に対して謂われのない差別発言をする連中に腹が立つのである。
 
私は「ニーハオ」と声をかけられれば「ニーハオ」と答えるし、「アニョハセヨ」ならば「アニョハセヨ」と答える。
 
どこの国の人間に間違われても別にかまわないのである。
 
なぜなら私たちにしたところで、シリア人とイラク人の区別がつくわけがないのであり、ノルウエー人とスウエーデン人の区別がつくわけでもないのだから、お互い様だと思うからである。
 
しかしそこに侮蔑感情が伴った場合に、たとえその国の人間でなくても怒りを覚えるのである。
 
 
 
 
 
■二輪車の悪影響〜イラン
 
イランについては、事情が少し違う気がする。
 
イラン人を見ていると、「自分たちが世界でもっともエライ」という、なんの根拠もない自意識がある気がする。
 
以下の表はイスラム諸国の、西洋との対置における自意識の違いを表したものである。これもあくまでも我々の印象なのだが、全体として以下のような色分けができるように思われる。
 
 
西洋人になりたくて仕方がない国…………………………………エジプト
宗主国の影響が強すぎて反動化し始めている国…………………モロッコ
すでに自分たちが西洋人だと思っている国………………………トルコ、レバノン
自分たちがもっともエライと思っている国………………………イラン
西洋人にはかなわないが東洋人よりマシだと思っている国……シリア、ヨルダン
異教徒(外国人)はすべて無視……………………………………ドバイ、オマーン、サウジ(たぶん)
そんなことよりもカートが大事……………………………………イエメン
 
 
イランにも中国人は少ない。
 
そしてシリアなどと違って、たいがいのものを自国で生産しているし、なによりも彼らには、かつて世界に冠たる文明を築いたという、大変な自負があるように思えるのである。
 
イランで中国人蔑視発言が比較的多い理由のひとつに、この国の人々の中流化が挙げられるだろう。
 
中流家庭の所得が上昇したこと、あるいは石油がバカみたいに安いことで、この国では二輪車が大変普及しているのである。
 
バイクを乗り回しているのは他でもない、ガキどもである。
 
イランでの「チノ攻撃」は、たいがいはバイクに二人乗りのガキが、意味不明の言葉を怒鳴って走り去っていくというパターンなのだが、そこにはバイクの普及という事実が最も大きく作用しているだろう。
 
バイクというのは、なにしろ逃げられる。
 
追いかけてこられないという安心感があるので、イタズラをするのにもってこいの乗り物なのである。
 
そしてこの国では兵役があるのだが、それが終わった連中は、そういうイタズラはピタリとしなくなるのである。
 
イランで注意するべきは、徴兵前の、バイクに二人乗りしたガキどもである。
 
 
 
 
 
■「ヒマ人」であること
 
最後に全体を通して共通する要因を挙げよう。
 
どこの国でも、一般的な傾向として、
 
・西洋人は「無視」
・東洋人は「ちょっかいを出す対象」
 
として捉えられているのだが、状況的な原因として、まず第一に彼らが決定的に「ヒマである」ということがあげられるだろう。
 
これはしかし「卵が先か鶏が先か」という議論になるのだが、たとえばインド人のインテリは、教養も常識あるので、中国人に対する露骨な侮蔑的態度は、たとえ心の中では思っていても表に出したりしない。
 
また一方で、彼らは忙しいので、中国人などに関わっているヒマはないのである。
 
これに対して社会的下層の人々は、教養も躾もなってないので、感情や興味を露骨に出す人が多い。
 
しかも彼らは仕事にあぶれている場合が多いのでヒマである。
 
さらに現状に対する不満がいつもあるので、そのはけ口を常に探している。
 
その対象が中国人なのである。
 
 
差別発言をする連中が、その国の中でも全体に教育レベルの低い下層の人々であることは、ひとつの特徴である。
 
たとえばモロッコで何度か蔑視発言を聞いたのだが、それはいずれも旧市街の、あまり裕福とは言えない地域でのことであった。
 
このような蔑視発言をするガキどもというのは、教養のない親に育てられた教養のない子供たちなのである。
 
それはどこの国でも共通する。
 
ボリビアやセネガルなどという国は、国民すべてが貧民のような国であり、その意味では蔑視発言が多いのは当然とも言えるだろう。つまり、
 
 
貧乏→ヒマ→チノ攻撃
貧乏→無教養→チノ攻撃
 
 
というふたつの系図が、互いに補完し合いながら成立しているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■中国人蔑視までの過程
 
途上国における中国人差別が醸成されるには以下のような段階を踏むように思われる。
 
 
第1段階(純真無垢期)
中東や東欧諸国が、いまだ「西洋のインパクト」にさらされていない状態。無垢で公平な時期。差別対象であるべき東洋人はいない。
 
 
第二段階(劣等感醸成期)
「西洋のインパクト」にさらされ、自分たちの立場、西欧との相対的な劣等性が明白になる。彼らはコンプレックスを抱くが、差別対象である東洋人はいまだ存在しないので、「チノ攻撃」もあり得ない。
 
 
第三段階(差別攻撃期)
労働者として中国人が流入する。ここに至って差別対象を発見した彼らは、「チノ攻撃」を開始する。
 
 
上記の過程は、日本で起こった事実を考えればわかりやすいだろう。
 
明治維新後、日本は「西洋のインパクト」にさらされ、劣等感を植え付けられる。
 
しかし差別対象である朝鮮人は、この段階では存在しないので、差別も存在しない。
 
その後、「韓国併合」によって土地を収奪された朝鮮人が大量に日本に流れ込んでくる。この段階で朝鮮人差別が開始されるのである。
 
共通することは、すでに西洋に対する劣等感が醸成された段階で、下層労働者としての外国人が流入するということである。
 
 
 
 
 
 
■分割統治
 
西洋宗主国による「分割統治」(divide and rule)は、おおむねどこの植民地でも行われた。
 
たとえば仏領インドシナでは、ベトナム人が下級官吏としてカンボジア、ラオスに派遣され、徴税などを担当したので、現地人はベトナム人を恨んだ。
 
今でもその禍根は残っているわけだが、このように原住民の対立を扇動して反乱の矛先を宗主国からかわすのが、「分割統治」の本質である。
 
中近東ではキリスト教徒が優遇され、多くのイスラム教徒が職業等で差別されたという。
 
中国人労働者を積極的に雇用し、現地人との対立を画策するのも、「分割統治」のひとつの有効な政策だったとも言えるかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■アラブ人の東洋人女性差別意識
 
アラブ地域は外国人女性に対するセクハラがひどいことで有名である。その理由として、
 
・イスラム教徒の男性は、結婚に際して莫大な持参金(マハル)を用意する必要があるのだが、相手が異教徒の場合は、その義務が発生しないからである
 
という説明がなされる。あるいは、
 
・ムスリムの女性に対する痴漢行為は大問題になるから(彼女の兄弟に殺されかねないというのは、旧約聖書にもエピソードがある)、その代償として異教徒の女性に向けられる
 
ということもその理由としてあげられることもある。
 
しかし私はこれまでの経験から、別の視点から考えられるのではないかと思うようになった。
 
つまり彼らの中にある東洋人に対する人種差別的な発想である。
 
 
私たちが滞在していたモロッコで実際にあったことだが、私の嫁が、いきなり見ず知らずの男に腕を捕まれたり、触られたりすることがたびたびあった。
 
あるいはすれ違いざまに、なにやら話しかけて(おそらく卑猥な言葉)、ニヤニヤ笑いながら立ち去っていく。
 
これらの男たちは、例外なく酔っぱらっているのだが、モロッコにこの手の連中が多いのは明らかに飲酒の影響であろう。
 
そしてここで考えてみたいのは、これらの連中が、果たして旧宗主国フランス人女性に、そのようなことをするだろうか、ということである。
 
答えは当然「ノン」なのである。
 
つまりこういうことである。
 
・西洋人女性にはセクハラ行為はできないが、中国人の女ならたいした問題にならないだろう。
 
 
そういう考えが、彼らにはある。要するに彼らの頭の中には、
 
 
・白人の女=崇拝の対象
・東洋人の女=セクハラの対象
 
 
という考えが間違いなくあるのだ。
 
そこにアラブ世界一般に存在する「東洋人軽視」の傾向を見ることができるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
■言語の問題
 
前にも書いたけれど黒人精神科医フランツ・ファノンによれば、植民地におけるフランス語は、植民地人の精神病患者にとって「拒絶、非難、恥辱」の表象なのであるという。
 
植民地人には必ず宗主国の言語に対するコンプレックスが存在する。
 
かつてはインド上流階級の人々でさえ、英国に留学してインド訛りを指摘され、嘲笑されたという。
 
 
植民地人の間には、「言語的な優劣関係」が形成される。
 
宗主国の言葉を「白人のように」話せることが、彼らが西洋人に一歩近づく前提になっているのである。
 
私たちは中東の国を旅行していると、
 
「オマエは英語がわかるか?」
 
と不躾な質問をされることがたびたびある。
 
これは要するに、彼らと私たちの間の「西洋化(どちらが西洋人に一歩近づいているか)」の序列をつけようとする、一種の「挑戦」なのである。
 
西洋人を無条件に天上に据えて、その下で有色人種たちが優越を競うという、悲しくてうなだれてしまうような関係である。
 
 
東洋人は一般的に西洋の言語が苦手であるのは、言語構造がまったく違うからである。
 
とある研究によれば、英語からもっとも遠い言語は日本語と韓国語、次に中国語だという。
特に西洋人崇拝の著しいエジプトなどでは、生意気な若者が、英語がよくわからない東洋人に対して、あからさまな優越感の笑いを浮かべることがままあるが、言語的ハンディキャップが、東洋人蔑視のひとつの要因になっていることは間違いない。
 
 
 
 
 
 
■宗主国の中国人観
 
もうひとつは宗主国の西洋人たちの中国人観である。
サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書)という本には、以下のような記述がある。
 
 
「フランス人の一部の人々が、黒人や中国人に嫌悪感を持つように、ユダヤ人に対しても嫌悪感を持つ人が一部にいる」
 
 
一部というのどれだけの割合なのかわからないが、少なくない数のフランス人が有色人種に嫌悪感を持っていることは確かだろう。
 
たとえば簡単に計算してみるとして、その割合が百人に一人だとしても、フランスの人口6000万人のうちの60万人が人種差別主義者ということになるのである。
 
あるいは、とあるフランスの新聞社による世論調査によると、フランス人の五人に二人が移民に対する蔑視感情を持っているのだという。
 
こういった宗主国の人種差別主義者の思想が植民地の人々に影響を及ぼすことは当然である。
 
植民地の教養のない下層の人々が、なんの根拠もないままに中国人をバカにするようになる。
 
 
 
 
 
 
■下層労働者としての中国人
 
さらに現実的な側面もある。
以下はベイルートの旅行代理店に張ってあった格安航空券の運賃表から抜粋したものである。
 
コロンボ   240ドル
マニラ    390ドル
アジスアベバ 325ドル
ダッカ    370ドル
 
これらの都市は普通、国際経済上、あまり重要とは考えられない都市なわけである。
 
しかしなぜベイルートで、これらの都市へ向かう航空券が大々的に売られているのかといえば、要するにこれらの国からレバノンへ来る「出稼ぎ」が多いということを表しているのである。
 
つまりスリランカ人、フィリピン人、エチオピア人、バングラデシュ人が、多くこの国に出稼ぎに来ている実態があるわけである。
 
つまり、
 
「東洋人といえば、出稼ぎの下層労働者である」
 
という通念が、中近東一般、そして西洋一般にも普及しているという実態がある。
 
そんな出稼ぎ中国人を、私たちは実際にイスラエルで見かけた。
 
それはエルサレムの「ホロコースト博物館」で清掃作業している中国人であった。
 
青い薄汚れたナッパ服を着て、バケツを片手に歩いていた彼らは、小ぎれいな西洋人観光客たちと比べると、あまりにみすぼらしい姿なのだった。
 
イスラエル在住のパレスチナ人の話では、中国人は清掃作業員としてよく働いているのだという。
 
他に東洋人ではフィリピン人が多いという。
 
レバノンもそうだが、キリスト教国というのが、その理由かもしれない。
 
フィリピン人の出稼ぎの主流は女性で、日本のように興行目的か、あるいは家政婦である。
やはり東洋人というのは、「出稼ぎ下層労働者」というイメージが強いのである。
 
そしてそれはヨーロッパでも同じである。
 
中国人といえば中華料理屋の厨房の、油にまみれた調理人か下層の肉体労働者というイメージしかないのである。
 
二十世紀初頭の南アフリカでは、インド人移民には、ホテルの給仕か、これに準ずる仕事に就くことしか認められなかったという。
 
ひどい職業差別が、アジア人一般に貧困のイメージを植え付けてしまったとも言えよう。
 
 
 
 
 
 
 
■植民地主義の結果
 
そして一番最後に、もっとも重要な要因として指摘されるべき事柄は、やはり宗主国による植民地化の歴史である。
 
インド人一般の英国コンプレックスは相当なものであるというのは何度も書いている通りである。
 
それが南米インディオや西アフリカの黒人のように、男たちが無気力になるほど致命的ではないにしても、拭いがたい傷を残している。
 
同じようなコンプレックスは、日本も含めた世界中のかつての植民地の人々が、西洋人に対して抱いている感覚だろう。
 
そして西洋人の中国人に対する差別感情や、出稼ぎ下層労働者という実態、安物の大量生産品を輸出する国というイメージが重なって、一般のアラブ人の間には以下のような、自分を中心とした西洋人との対置がなされるのではないだろうか。
 
 
西洋人 > アラブ人 > 中国人
 
 
つまり、
 
「イギリス人(フランス人)にはかなわないが、中国人よりはマシだ」
 
という、ある種の中流意識である。
 
中国人の蔑視は、西洋人との対置の中で起こる。
 
それは彼らの精神的均衡を保つための無意識的な、ひとつの防衛本能なのである。
 
 
100年前と違って現在では、西洋人一般に人種差別が「よくないこと」として広く認知され、とにかくにも表面的には差別主義者は非常に少なくなった。
 
しかし途上国ではそうではない。
 
学校にも通えない貧困で無教養な人々が大勢いるわけである。
 
そういう人々は当然、学校で習うべきであった「道徳的見地からの人種差別の否定」というものを知らない。
 
だからそれは本人の責任ではないのである。
 
その背景にある様々な問題を考えていかなければ、「チノ攻撃」は収まることがないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
世界の人々の日本人観、中国人観
 
「世界の人々が日本人と中国人の違いをどれだけ認識しているか」
 
 
というのは、なかなか興味深い問題である。
 
世界第二位の経済大国である日本。
 
すでにトヨタはベンツ、BMWに次ぐ高級車として認知され、「プレステ」の次世代機は世界中の注目の的である。
 
確かに日本がテレビや新聞に露出する頻度は、二十年間と比べても、とてつもなく増えたようにも思われる。
 
しかし私の経験から言えば、それにもかかわらず日本の認知度は、いまだに怖ろしく低いのである。
 
そもそも無関心がない。
 
それは彼らの日々の暮らしに日本に関する知識など、まったく意味のないことなので、当然といえば当然なのである。
 
では彼らが、どれだけ私たちのことについて知っているか、私の主観ながら、ちょっとまとめてみよう。
 
 
 
四つのグループ
 
便宜上、彼らを以下の四つのグループに分類してみることにする。
 
もちろんそれぞれの中間に位置する人もたくさんいる。
 
 
第一のグループ〜日本、中国、韓国のそれぞれの国について、ある程度の区別がつけられる人。
 
第二のグループ〜日本と中国が別の国であるという区別は一応ついているが、新興の韓国についてはほとんど無知な人々。
 
第三のグループ〜日本と韓国は名前くらいは聞いたことがあるが、所詮「中国の一部である」と考えている人々。
 
第四のグループ〜「中国」は聞いたことがあるが、どこにあるのか、どんな国なのかさっぱりわからない人々。
 
 
 
そしてそれぞれのグループの割合を比べてみると、以下のようになるだろう(もちろんこれは私の主観である。そして世界人口の半分近くを占める中国やインド、東南アジアの人々は含まないものと考える。つまりここで対象としているのは、西アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ大陸の人々である)。
 
 
 
第一のグループ………1%以下
 
第二のグループ………9%
 
第三のグループ……40%
 
第四のグループ……50%
 
 
 
おそらくこんなところではないだろうかと思われる。
 
以下、それぞれのカテゴリーについて説明しよう。
 
 
 
第一のグループ
 
第一のグループに属する人々は、ほとんどいない。
 
彼らはよほどのアジア通であり、そしてインテリである。
 
日本に旅行に行った人もいるかもしれない。
 
首都が東京で、古都が京都であることも知っている。
 
「禅」とか「着物」とかも知っている。
 
ヘルシーな日本食も好きだったりする。
 
「ヒロシマ」「ナガサキ」くらいは一般教養として当然知っている。
 
しかしこれらの人でも、ソニーやトヨタは日本製だとわかっていても、LGやサムソンが韓国製だということを知っている人は少ないだろう。
 
まして日本の首相の名前を知ってる人は、ほとんど皆無に近い。
 
 
 
我々旅行者が出会う現地の人々は、ビジネス上当然、この違いを認識している。
 
しかし彼らは外国人観光客を相手に商売する、現地人の中でも数少ない、ごく一部の人々であることを忘れてはいけない。
 
私たちがその他大勢の、国民の大半を占める人々と出会うことは、きわめて希なのである。
 
 
 
第二のグループ
 
 
第二のグループに属する人々も、世界的に見て比較的インテリに属するだろう。
 
都市部に住み、テレビや新聞報道に日々目を通す人々である。
 
また西欧人で、きちんと学校教育を受けた教養のある人々は、このグループに属する。
 
日本は科学技術の発達した優秀な国で経済大国であり、中国は大国で人口が多いが、一般に貧乏であるというような認識である。
 
 
しかしその違いは判然とはしない。
 
ジャッキー・チェンは日本人だと思っている人も多い。
 
カンフーとかカラテとかサムライとかニンジャとかの違いになると、なんだかよくわからない。
 
香港もあのあたりだが、場所も違いも正確にはよくわからない。
 
そして韓国については無知である。
 
LGとサムソンは当然、日本の企業だと思っている。
 
彼らにとって優れた製品はすべて日本製である。
 
逆に100円ショップで売っているような安物は、すべて中国製品であることも知っている。
 
韓国人は一般に影が薄い。
 
 
 
第三のグループ
 
 
第三のグループは、さらに無教養な人々である。
 
途上国の都市部の中、下層の人々や田舎に住んでいる人々で、日々のニュースや一般常識にも疎い。
 
このクラスになると識字率も低下する。
 
彼らの中では、中国が圧倒的に知名度が高い(とは言っても、あまり好ましくない評価ではあるが)。
 
中国に比べると日本も影が薄い。
 
従って彼らは一般に、「中国」というのは東アジアのあのあたりを代表する地名であると考えている。日本はその中の一部の地域に過ぎない。
 
韓国についてはまったく知識がない。「コリア」という名称すら知らない。
 
彼らにとっては、目が細い東洋人はすべて「チノ」である。
 
それ以外はない。
 
 
 
 
第四のグループ
 
 
そして第四のグループ。
 
彼らになると識字率は0%である。
 
学校教育もまともに受けたことはない。入学だけはしたとしても途中退学である。
 
彼らは世界地図というものを、今まで数えるほどしか見たことがない。
 
一度も見たことがない人も多いだろう。
 
だから「中国」という名称は聞いたことがあっても、それがどこにあるのか、果たして国家の名称なのか、民族の名前なのかわからない。
 
「アメリカ、イギリス、フランス」などにしても同様であろう。
 
彼らの頭にあるのは、彼らの地域のことだけであり、日々の生活に資するいくつかの事柄に精通しているだけである。
 
もちろんそれで生活が成り立つのだから十分である。
 
余計なことを知っている必要はこれっぽっちもない。
 
だから当然、彼らの無知を軽蔑するつもりも、私には毛頭ない。
 
 
 
 
 
というような具合で、日本という国が日本の近所以外の世界の人々に認識されている割合は、おそらく半分以下ではないかと思われる。
 
しかもその内容は、かなりあやふやで、中国と混同している場合が圧倒的である。
 
この間会ったルーマニア人のように、
 
「やたら人口が多くて、貧乏で、イヌやネコを食べる連中」
 
「出稼ぎにやって来て、清掃作業員や中華料理屋で働いている連中」
 
というのが、一般的な中国人のイメージであり、たいがいは日本人も、それに含まれているのである。
 
件のルーマニア人も、
 
「ルーマニアには働きに行くのか?」
 
という笑止千万な質問を私にしていた。
彼は我々が、自分たちよりも貧乏なのだと頭から信じているのだった。
 
 
 
日本が経済大国でテクノロジーの国であるというイメージも確かに一部にはある。
 
西欧諸国では広く一般的に、途上国でも一部のインテリ層には確実に認知されている。
 
しかし日本人と中国人の区別がほとんど存在しないので、あまり有効に機能していないのが実情である。
 
そしてその割合は、多く見積もっても世界人口の1割程度でしかないと思われる。
 
目が細くて背が低く、いかにも虚弱そうな東洋人は通常、「中国人」として一緒くたにされてしまい、「一段劣った連中」として扱われることが、世界の趨勢なのである。
 
 
 
上述の考察はあくまで私の主観であって、アンケート調査などをしたわけでは当然ない。
だからただの「お遊び」である。
 
しかし日本人が想像している以上に、日本の認知度が低いのは間違いない。
 
一般の日本人は、とかく「西欧人だけ」を対象とする。
 
しかし途上国に行くと、その評価はまるで違ってくるのである。
 
そして一方で、評価の善し悪しは別として、中国の知名度の圧倒的高さには驚愕するのであった。
 
さすが長い歴史を持つ老大国である。
 
 
 
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