2009年07月〜12月
 
「ダッバー」の研究
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シリアのダマスカスで見つけたダッバー。現地では「マッバーキーヤ」というらしい。
 
 
 
■ダッバーとは?
 
「ダッバー」というのは、インド一帯で広く親しまれている弁当箱である。
 
ステンレスあるいはプラスチック製の3段重ねで、それぞれカレー、ごはん、おかずが入るというタイプが一般的だ。家族用の4、5段重ねの大型ダッバーもある。持ち運びに便利な取っ手がついていて、ピクニックには最適である。
 
ムンバイでは「ダッバーワラー」(ダッバー運び業)という職業がある。それぞれの家庭からだんなの職場に、昼食に間に合うように弁当を届けるというサービスだ。蕎麦屋の出前よろしく、自転車にいくつものダッバーをぶら下げて走るダッバーワラーは、ムンバイの風物詩なんだそうだ。
 
 
 
 
■北海道新聞の原稿
 
ダッバーはインドをはじめ、ネパール、ミャンマー、タイ、カンボジアなどでも見かける。さらに調べてみると、中国や日本の「重箱」文化にも、なにやら関係がありそうだ。タイでは、この弁当箱を「ピントー」というそうである。どちらが発祥かはわからないが、おそらく中国かインドで発達した「ダッバー」が「重箱」となって日本に伝わったと考えるのが妥当だろう。
 
しかしである。
 
今回シリアに行ったとき、なんと市場の骨董品屋で「ダッバー」を発見したのだ。
 
20世紀初頭のものだそうで、店主に名前を聞いてみると、
 
「これは『マッバーキーヤ』というんだ」
 
おお。なんとなく語感が「ダッバー」と似ているではないか。
 
事件はそれだけでは収まらなかった。その後トルコでも同じものを発見したのである。しかもそれは、かのオスマン皇帝の居城「トプカプ宮殿」であった。19世紀ごろの宮廷料理を運ぶ器として「ダッバー」が活躍していたのである。
 
しかしイランや他のアラブ諸国では、「ダッバー」を見かけたことはない。つまり「ダッバー」は、日本、中国、東南アジア、インドから、一気に飛んでトルコ周辺に分布しているのである。
 
これはいったいどうしたことか。
 
トルコ民族は、もともと中央アジアの遊牧民である。もしかしたら東アジアの「重箱文化」を、遠く小アジアまで運んでいったのかもしれない……なんていう雄大な歴史ロマンを感じさせる「ダッバー」であった。
 
 詳しい情報をお持ちの方、ご一報下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
インド北部のラダックで見つけたダッバー。ホーロー製で、装飾がなにやら中国っぽい。ラダックはチベット文化圏だが、中国製かもしれない。
 
 
 
 
 
 
以上が、2009年6月5日付の北海道新聞に掲載された「ハビビな人々 ロバ中山のビンボー愉快紀行」の原稿である。
 
このときは連載の関係から、「騎馬民族トルコ民族によるダッバー伝播説」にしたんだが、実はもうひとつ仮説があった。
 
 
 
 
■インド軍人による中近東伝播説
 
それはインド軍兵士によって、インドで普及していたダッバーが中近東にもたらされたのではないかという説である。
 
いうまでもなくインドはイギリスの植民地であった。第一次大戦では、対トルコ戦線に多くのインド軍兵士が狩り出された。ニューデリーには立派な凱旋門があるが、あれは第一大戦で亡くなったインド兵士を追悼するものだそうだ。
 
インドでは今でも軍人がダッバーを持ち歩いている姿を見かける。言うなればインド軍の標準装備といってもいいだろう。
 
このダッバーが、インド軍を通して中近東に広まったのではないか。
 
 
 
私が見た中では、19世紀の終わり頃、つまり100年ちょっと前に使われていたダッバーがあった。
 
それはシリアの博物館で、寺子屋で勉強する子供たちの蝋人形の奥の戸棚に、子供たちの昼食用と思われるダッバーが、いくつも並んでいるのだ。
 
インドが完全にイギリスの植民地となったのは1857年のセポイの反乱の翌年だが、それ以前の1849年に、イギリスはパンジャブ州を制圧している。パンジャブ州はインド軍人を多く排出するシク教徒の本拠地であるから、これ以降、イギリスがシク教徒を軍人に採用している可能性はある。
 
よって19世紀の中頃から、インド軍人によってダッバーが世界各地に普及する可能性があるわけだ。
 
 
インドや東南アジアでは、今でもダッバーが現役で活躍している。写真はネパールの雑貨屋。
 
 
 
 
 
■もっとも古いダッバー
 
しかしもっと古い事例を発見したことで、この説は覆されてしまった。
 
トルコ北部のサフランボルという町でダッバーを見つけたが、これは19世紀前半のものだというのである。
 
さらに発見は続く。
 
同じくトルコはイスタンブールのトプカプ宮殿で、新聞記事にもあるようにダッバーを発見した。トプカプ宮殿のガイド本によると、展示されている銅製品は十八世紀から十九世紀の間に、イスタンブール市内の工場で製造されたものだという。
 
ということは1700年代には、トルコにはダッバーが存在したことになる。つまりインド兵士が中近東に来る、もっともっと以前のことなのである。
 
というこでインド軍兵士による伝播説は否定されてしまった。
 
 
トプカプ宮殿で見かけた五段重ねのダッバー。宮廷用の優雅なスタイルである。
 
 
 
 
■語源はペルシャ語?
 
さてここで、ひとつ有力な事実を発見した。
 
「Hobson−Jobson」という辞書がある。言ってみれば英語に流入した、主にヒンズー語などの外来語の辞典である。
 
この中で「ダッバー」を探してみたら、あった。
 
DUBBER 
 
A large oval vessel, made of green buffalo-hide, which, after drying and stiffening, is used for holding and transporting ghee or oil. The word is used in North and South alike.
 
 
訳すと以下ようになる。
 
グリーンバッファローの皮革を乾燥させ堅くした、大きな楕円形の器で、ギーや油を包んだり持ち運ぶのに利用する。インド北部、南部ともに使用される言葉である。
 
※ギーというのは、水牛の乳から取ったバターのこと。
 
 
 
トルコの古道具屋で見つけた「トレー型」のダッバー。ネジ留め式で、型は古いと思われる。「楕円形」というのが気になるところだ。
 
 
 
 
「dubbar」は「dabbah」あるいは「dabaro」「dabara」とも表記されるそうだ。
 
そしてその語源は、<from Pers.> つまりペルシア語であるというのだ。
 
 
 
 
■イランのガナート
 
そういえばイランには、「ガナート」と呼ばれる地下水路が見られる。水源から何十キロも離れた都市まで、地下数メートルの水路を掘るのだ。
 
これに使われたのが、家畜の皮革を縫い合わせた「バケツ」であった。
 
当地では材木が採れず、家も土を固めたレンガで作る。「アーチ型」の建築物というのは、材木も石もないイランの砂漠地帯で、苦肉の策として発明された。
 
つまり家畜の皮革を運送用に利用するのは、かつての砂漠地帯では普通のことだったに違いない。
 
そこでイラン在住の友人、大村一朗氏にメールで問い合わせてみた。
 
するとこんな返事が返ってきたのだ。
 
 
「イランにも金属製の重箱の弁当箱は売られていますが、水牛の皮で出来たものは見たことがありません。地方の少数民族などが使っているかもしれませんが。
手元のペルシャ語辞書を見てみましたが、ダッバーグ(dabbagh)/皮なめし工、ダッベ(dabbe)/容器・入れ物、などという単語が見つかりますが、いずれも語源はアラビア語となっています」
 
 
 
おお。アラビア語だったのである。
 
つまり「ダッバー」とは、中近東の皮なめし職人によって製造された器のことらしいのだ。
 
この器がペルシアにも広まり、ダッバーという言葉が普及したのかもしれない。
 
 
 
 
■「宮廷言語」であったペルシア語
 
ここで思い出されるのが、ペルシアの特質である。
 
ペルシアはイスラム社会に対して、文化面での影響を強く与えたことはよく知られている。かの「アラビアンナイト」も、もとはインド、ペルシアの物語が起源であるというくらいである。
 
美人大国であるペルシャ女性は各地でもてはやされた。
 
たとえば楊貴妃はペルシア人であったという。あるいはシャー・ジャハンが大金をはたいて建てたタージマハルも、ペルシア人王妃ムムターズのためであった。アレキサンダーもペルシア人の王妃を迎えている。
 
オスマントルコの宮廷でもペルシア語が話されていたという。インドのムガール帝国の宮廷でもペルシア語であった。
 
つまりペルシア文化は西洋における「おフランス」のように近隣諸国を魅了した。ペルシアの絢爛たる彫刻の施された手工芸品の数々は、イランの博物館で見ることができるが、これらも、周辺諸国でもてはやされたに違いない。
 
 
そこでこんな仮説を立ててみた。
 
 
 
 
ダッバーは、おそらく中国あたりの重箱文化が起源である。
これがインドに伝わり、取っ手がついた「改良型重箱」が発明される。これが世界初の「ダッバー」となる。
一方でアラブの皮なめし職人が、油などの運搬用に水牛の皮革を利用した「ダッバー」を発明する。
言葉としての「ダッバー」がペルシアに伝わる。
インドに嫁いだペルシア人の王妃が、ムガール王宮で使用されていた「取って付き重箱」を知り、ペルシアに伝える。
「取って付き重箱」は、ペルシアで「ダッバー」と呼ばれ、宮廷料理で盛んに用いられる。
「ダッバー」がトルコ宮廷にも伝えられる。
19世紀頃になって、鋳鉄技術が普及し、一般庶民の間でもダッバーが広がる。
 
 
 
 
■柳田国男の「周圏論」
 
ではなぜペルシアでダッバーが使われていないのか。
 
これを説明するには、ちょっと古いけれど、柳田国男が提唱した民俗学における「周圏論」の法則がもっともらしい。
 
古い時代に、文化の中心都市で流行した文物は、都市部では時間とともに廃れてしまうが、文化的辺境部には長く残る傾向があるという。
 
柳田国男は、日本各地で「カタツムリ」の呼び名が違い、東北と九州の一部で「ナメクジ」「ツブリ」と呼び、中国地方では「マイマイ」で、文化の中心である近畿で「デデムシ」と呼ぶことに注目し、京都を中心に同心円状に名称が異なることから、京都での呼び名が、
 
 
ナメクジ、ツブリ→マイマイ→デデムシ
 
 
と変化したと推定した。
 
それぞれの名称は徐々に辺境に波及していき、その間に京都では、古い名称は廃れて、新しい名称が発明されて、これがまた広がっていくわけだ。
 
柳田はこれを「蝸牛考」という論文にまとめた。
 
 
 
 
つまり文化の中心であったペルシアではダッバー文化はさっさと廃れてしまったが、インドやトルコでは、つい最近まで現役で活躍しているというわけである。
 
 
しかしこの場合も、文化的中心をペルシアだけに限定するのも、少々コジツケな気もする。
 
というわけで、まだまだ想像の域を出ない「ダッバー伝播のナゾ」である。
 
今後とも研究を続けていきたい。
 
(2009年 6月28日記)
 
 
 
 
 
 
 
【追記】
 
その後、「イエメン もうひとつのアラビア」(佐藤寛 アジア経済研究所)68pに、興味深い文章が掲載されていた。
 
それはイエメンの少女がロバに乗って水を運んでいる写真である。その写真キャプにこういう記述があった。
 
 
「水を運ぶロバ。ロバは「ダッバ」を2つ運べるので人間よりも重宝である」
 
 
なんとイエメンでは、水を運ぶタンクのことを「ダッバ」というらしいのだ。
 
というわけで「ダッバ」の語源がアラビア語であり、「ポリタンク」のような意味で用いられていることが伺われる。
 
大村氏の指摘を裏付ける結果であった。
 
(2009年10月16日 記)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トルコのサフランボルで見つけたダッバー。左の方が型が古く、留め金に下のダッバーから順番に落とし込んでいくタイプ。一方の左は新しいタイプで、ダッバーを積んだ後に留め金がかけられるように改良してある。
 
 
 
 
 
 
 
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