■ハビビな人々 アジア、イスラムの「お金がなくても人生を楽しむ」方法
文藝春秋 定価1500円
 
 
2月8日 全国書店、アマゾンにて発売!!!
 
 
2005年から2007年までインド〜モロッコまでを長期旅行してきた旅日記と、北海道新聞で好評連載中の「ハビビな人々 ロバ中山のビンボー愉快紀行」の一部をまとめたものですが、旅行記というよりも文化論的な内容になっております。
 
なぜ「やつら」は並ばないのか。なぜ「やつら」はボッタクルのか。
 
そしてなぜ「日本人だけ」が、ぼったくられるのか。
 
旅行者の素朴な疑問に、学問的な考察を加える、今までにない旅行記と言っていいと思います。
ちなみに帯には「椎名誠氏絶賛!」の推薦文入り。
 
本文デザイン:川端光明
装丁:斎藤啓一(PANIX)
 
 
 
<序文より抜粋>
 
「日本は先進国でアジアは後進国で、従って日本は豊かでアジアは貧乏である」
というのは、日本人一般の認識だろう。
確かにGDPその他の数字が示すところによれば、日本は裕福だ。
途上国の数倍、あるいは数十倍の月給をもらっている。上下水道や電気、通信、高速道路、新幹線、あらゆるインフラが整備されている。教育制度や社会制度も充実している。部族対立も戦争もない。飢餓もない。強権的な独裁政権もない。がんばれば誰でも医者や弁護士になれる。コワイのは地震と津波くらいだが、それも何十年に一度しかない天災である。
日本はアジアの途上国と比べれば、まさにパラダイスだ。ネパールで出会った青年が、いみじくも私に向かってこう言ったものだ。
「オマエが日本に生まれたのは、ホントにホントにホントにホントに、ものすごくラッキーなことなんだぞ!」
 
 
日本に欠けている「なにか」
 
しかしである。
私が今まで見聞してきたアジアの人々は、まったく愉快に暮らしているのである。ある意味では日本人以上に。
もちろん「シアワセ」には様々な尺度がある。金銭的には圧倒的に日本人の方が裕福だ。「ウサギ小屋」と言われる日本人一般の住宅事情も、たとえばタイやフィリピンの貧困家庭が、三家族で3DKに住んでいたりするのと比べれば、十分シアワセと言えるだろう。しかしそんなことでは計れない「なにか」がある。
日本人に圧倒的に欠けているとしか思えない「なにか」。
そしてアジアの人々を、たとえ金がなくてもシアワセにしてしまう「なにか」。
その「なにか」について考えてみたのが、この本である。
 
 
「ノーテンキ」な連中
 
 
アジア、イスラム圏のアチコチで出会ったのは、まことに愉快で「ノーテンキ」な連中ばかりであった。いつも非常に楽観的で、軽口を飛ばし、難しいことは考えず、常に刹那的で、気のあった幼なじみと面白おかしく暮らしている。彼らのポケットには、おそらく数十円とか数百円しか入ってない。しかしその乏しい小遣いをはたいて、彼らは私にコーラをおごってくれた。
一般の日本人ならどうだろう。ただでさえ少ない小遣いを、見ず知らずの外国人のために費やしてしまうだろうか? 私ならしない。おそらく多くの読者もしないだろう。
しかし彼らは「する」のである。
おそらくそこに、「なにか」のカギがありそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■世界のどこかで居候(共著:阪口克)
リトルモア 定価1900円
 
 
2月5日 全国書店、アマゾンにて発売!!!
 
 
5年ほど前から取材を始め、ワールドフォトプレス社『Memo男の部屋』、朝日新聞出版『週刊朝日』などで連載させていただいたものを、単行本にまとめました。
世界各地のフツーのご家庭で居候した体験記で、滞在先はパプアニューギニア、インド・ラダック、ネパール、カンボジア、モンゴル、イエメン、モロッコ、サハラ砂漠と多岐にわたります。
 
写真とイラストがふんだんに盛り込まれ、この不景気にオールカラーという、たいへんゼイタクなつくりになっております。
 
メインイラスト/水野あきら
本文デザイン・装丁/大原大次郎・宮添浩司
 
 
 
 
 
 
 
 
<まえがきより抜粋>
 
 
 
居候から世界が見える。
それが人力社のモットーである。地元の生活にドップリ浸かり、低い目線でモノを見る。すると人々のナマの暮らしが見えてくる。
我々の居候期間は、おおむね一週間だった。その理由は、滞在が短いと「居候」が成立しないからである。一泊ではお客さんである。二泊では子供たちが人見知りする。三泊目から徐々に「空気のような存在」になる。居候が定着するのである。アラブのベドウィン社会では、最初の三日間は最上級の接待を受けるが、そのあとはひどく冷遇されることが多いそうだ。後半になって、ようやく本音が見えてくるのである。
長すぎてもいけない。定住と居候は違う。フーテンの寅さんのように、家族の厄介者くらいの立場がいい。家族と利害関係がなく、「居ても居なくても、どっちでもいい」くらいが、ちょうどいいのである。
居候先の家族は、最初は困惑気味である。知人を通して引き受けたはいいが、言葉も通じない連中に、どう対応すればいいのやら……。
しかし我々がなにも求めていないこと、いつも通りに生活していればいいことがわかれば、あとは気楽である。一緒に仕事をし、市場に出かけ、近所を散歩し、メシを食い、寝る。
小さな村では、我々のウワサはあっという間に広まる。毎日のように村人がやってきて、物珍しそうに我々を観察する。そんな彼らを我々も観察する。
彼らと同じ目線で、彼らの暮らしを観察する。
居候から世界が見えてくるのである。
この本は二〇〇四年から二〇〇八年の間に、世界各地のご家庭で敢行した居候の記録である。
 
 
 
<あとがきより抜粋>
 
 
 
様々な国のご家庭に居候して強く感じたことのひとつは、世界中の人々は、食べものを手に入れ、調理して口に入れるまでに、なんと多くの時間を費やしていることか、ということであった。たとえば肉を食うためには、まず動物をと畜しなければならない。と畜して、皮をはぎ、内臓を出し、関節を切り離し、肉を切り分け、それを調理して、ようやく我々の口に入れることができる。スーパーで売っているパック詰めのロース肉なんて存在しない。途上国の主婦の仕事は、そのほとんどが事実上、食事の用意で費やされると言っていい。
人間が食べものを口にするのは、本来、膨大な時間がかかることなのだ。それが工業製品の普及によって調理時間が大幅に短縮され、簡便化されたのが、現代日本人の暮らしなのである。そのことを、額に汗を浮かべてアシートをこねるアミンさんのお母さんや、必死になってオタマジャクシを捕まえるモン族の若者を見て、シミジミと思ったものだった。
生きることとは、すなわち食べることなのである。
 
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